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社会

困った客

NHKのウエッブニュースに、「悪質クレーム 流通業で働く人の7割が経験 初の実態調査」(2017年11月9日)が載っています。
とんでもない客が、たくさんいるようです。クレーマーが問題になっていますが、小売業ではそれが特に現れるのでしょうね。困ったものです。
役所にも来られます。学校でも、モンスターペアレントが大きな問題になっています。
「お客様は神様です」という言葉が、間違って理解されているようです。

日本人は優秀だ?

11月7日の朝日新聞経済面「波聞風問」は、堀篭俊材記者の「不正続く製造業 経営も現場で5回の「なぜ」を」でした。
日本を代表する世界的製造業で、不正が相次いでいます。法令や社内基準を満たしていない製品を出荷していました。さらに、ことが発覚して、社長がおわびの会見をしてからも、不正を続けていました。
現場の監督者も本社の幹部も不正を知っていた(らしい)のに、社内調査では「ない」と報告していたことも。結果として、社長に恥をかかせたのです。
何度も不祥事でおわびをした経験者から見ても、まずい対応ですね。

さらに、「日本の××は、優秀だ」という通説は、疑ってかかる方がよいかもしれません。残念なことですが。
かつては、官僚や銀行、電機メーカーをはじめとする経済界が、このような評価をもらっていました。でも、そうでないことが、次々と分かってきました。

中根千枝著『タテ社会の力学』

先日の『タテ社会の人間関係』の続きです。集団の分析としては、『タテ社会の力学』の方が、より詳しい分析をしています。詳しくは読んでいただくとして。今日は「鋭い指摘だなあ」と苦笑した文章を紹介します。

・・・実際、日本社会では、相当地位が高かったり、有名な人々の中にも、相手が誰であろうと得意になって一座の話題を独占してしゃべりつづける社交性を欠いた人々が少なくない。また、うちとけた席では、その中で相対的に地位も低く、年齢も若い人が自己中心的な話に終始したりする。そのいずれの場合も、話者が、その場を小集団的集まりと認識することからくる現象と思われる。つまり、自己中心の振る舞いが許される環境に自己がおかれていると思っているわけである・・・p94。

・・・事実、集まりでよくしゃべる人の話には、いかに自己中心の話題が多いかは驚くほどである。日本人の自己顕示欲というのは、こうした場においては、他に類例をみないほどである。相手がいかなることに興味を持っているか、自分の話に興味があるかないかなどということは、ほとんど考慮に入らない。往々にして、その集まりにおける自分の役割さえも忘れている。まさにお酒に酔ってしまっているのに似た現象である。もちろん、お酒が入れば、この傾向は倍加することはいうまでもない・・・p95。

・・・自己中心的な話というのは、記述的要素が多く、その人の感情の流れに沿ったもので、反論しにくいものであるために、きく方も知的な刺激を受けることも少ない。したがって、ただ物語をきくということになる。ときどき合いの手を入れるくらいである・・・
・・・これでは、反論を楽しむなどという、同席している全員が参加しうる知的な議論の遊びはとうていもちえないことになる・・・(この引用は順番を変えてあります)p96。

私も、決して他人のことを批判できません(反省)。自分のことを棚に上げて、これは、常々感じていたことです。
私は自治省に採用されましたが、自治体への出向と内閣府への出向のほか、省庁改革本部や復興庁、総理官邸などで、他の省庁の職員と仕事をする機会が多かったのです。その際に、自治省で「身内」と話すことと、ヨソ者の中で話すことの違いを感じました。
前者はお気楽です。何を言っても許してもらえると、思っています。後者は、そうはいきません。
もっとも、これは公務員仲間ですから、社会から見ると「同じムラ社会」ですが。政治家や民間人、マスコミの人と話す際には、もっと意識します。その際の会話は「真剣勝負」で、気を遣います。その一端は、「明るい公務員講座」でも紹介しました。

少し視点を広げると、1つの会社に勤め続けることは、ムラ社会で暮らすことにつながります。これが、視野を狭めることになります。ぬるま湯と同じで気持ちはよいのですが、内向き志向(思考)では改革が遅れます。経営者たちが、その欠点を指摘しています。「純粋培養の時代は終わった」などで、紹介しました。

中根千枝著『タテ社会の人間関係』

連載「明るい公務員講座・中級編」で、日本の職場の生産性の低さを書きました。その際に、日本社会の特徴である「集団主義」を思い返すために、中根千枝著『タテ社会の人間関係』(1967年、講談社現代新書)と、『タテ社会の力学』(1978年、講談社現代新書。2009年、講談社学術文庫に再録)を読み返しました。
学生時代に読んで、なるほどと思った記憶があります。あの頃は、日本人論が、はやりでした。『タテ社会の人間関係』は、出版以来半世紀が経ちます。117万部を売り上げたベストセラーで、講談社現代新書でも売り上げナンバーワンだそうです。

他人とのつながりにおいて、資格でつながることを重視する社会と、場に参加することを重視する日本社会とを対比して、日本社会の特徴を浮かび上がらせます。
場に参加することを重視すると、ウチの者とヨソ者が区別されます。参加者は全面的な参加を要求されます。契約や資格によって参加していないので、長くその組織にいる者が上位に来ます。リーダーも権限によって構成員を指揮するのではなく、部下たちの同意によって動きます。

これが、先進国に追いつく際に、うまく機能しました。コンセンサス重視、決まったことはみんなで作業するです。
しかし、お手本がなくなったときに、逆機能になりました。コンセンサス重視は、頻繁な会議であり、しかもそこでは物事は決まりません。特に方向転換、改革はできません。上司も部下と一緒に働くことは、上司が判断しない、責任を取らないことにつながります。
あらためて、この本の切れ味の良さを確認しました。

私は、海外の職場での経験がないので、それらとの対比ができないのですが。多くの識者がこのような分析をしています。
日本人論の中には、稲作文化に起源を求めたものもありました。ムラの生活には、そのような面もあるでしょう。しかし、「タテ社会」は、稲作文化であるアジアの国には一般的ではないのです。稲作文化だけでは、説明できません。
では、なぜ日本で、タテ社会が発展したのか。多分、稲作文化の上に、江戸時代の鎖国・封建社会が、競争や流動性の少ない社会を生み、それがこのような特徴を育てたのでしょう。競争や変化が激しい社会、取引が重要な関係なら、タテ社会は発達しなかったでしょう。
それが、昭和の日本になぜ続いたか。それは、会社・職場が第二のムラとして機能したからだと思います。この項続く

(2冊とも、本棚のどこかにあるはずなのですが、見つからないので、買いました。これなら、読んだ本を捨てずに並べてあることは、意味のない行為です。反省)。

アインシュタインの世界、ニュートンの世界、日常の世界

本屋で見つけて、松浦壮著『時間とは何だろう』(2017年、講談社ブルーバックス)を読みました。。わかりやすかったです。
時間って、不思議ですよね。実感はあるのに、実態は見えません。先日書いた重力、引力も不思議ですが、時間はもっと生活に密接しています。毎日、意識していなくても時間は過ぎます。さらに、時計が正確に時を刻んでいるはずですが、毎日の暮らしでは、一様ではないのです。すぐに過ぎる楽しい時間と、なかなか終わらない会議とか。同じ1時間でも、違って感じられます。

重力は自然科学の世界に任せるとしても、時間は何かという問いは、自然科学だけに任せておく訳にはいきません。とはいえ、あまたある本は、それぞれの筆者の主観の域を出ず、私たちを納得させません。すると、科学的分析と基礎付けの上に、社会科学での理屈づけが必要なのでしょう。
で、この本を読みました。この本を読んで、時間と空間が一体だという説明は、おぼろげながら理解できました。このような本は、読む度に納得するのですが、頭に残りません。
脱線ですが、「時間が止まることは、誰も認識できない。そのときに、彼も時間が止まっているから」というのは、納得。子供の頃に「時間よとまれ」というテレビ番組がありましたが、それは無理ですね。

時間の体感に戻ります。ニュートンの絶対時間と、アインシュタインの相対時間も、読むと納得しますが、どうも腑に落ちません。
そこで、次のように考えました。私たちの世界には、3つの次元がある。アインシュタイン(と量子力学)の世界、ニュートンの世界、生活の世界です。
アインシュタインの世界は納得するけど、普段の生活には関係ない。ニュートンの世界でことは足ります。次に、ニュートンの世界も理解するけど、実生活とは違うことがある。と、毎回、この結論に達するのです。

ニュートンの世界(ガリレオの世界)の世界では、例えば重いものも軽いものも、同じように落ちる(空気抵抗がなければ)。それも納得。しかし、日常生活では、鉄の玉は羽よりも早く落ちる。同様に、ニュートンの世界(ガリレオの世界)では、時計は正確に時を刻む。それも納得するけれど、感覚的には早く過ぎる時間と遅い時間がある。さらに、年ととると時が経つのは早い。
次は、なぜ等速の時間が、人によって、あるいは状況によって早く感じたり遅く感じるのか。この問いは、謎のままです。