カテゴリー別アーカイブ: 社会と政治

社会と政治

博物館は誰のため?

今日は、散歩を兼ねて東京国立博物館へ、レオナルド・ダ・ヴィンチ展を見に行きました。パスポート会員の期限が切れていたので、改めて加入。うーん、去年もそんなに何度も行かなかったので、元を取ったのかなあ。「受胎告知」は、なかなか良かったです。その他に、ダ・ヴィンチの才能を紹介する展示がありましたが、これは人が多く、疲れました。しかも、近づかないと、展示物が見えないし解説も読めないのです。私を含め大抵の人は、何を言いたいのか分からなかったのではないでしょうか。平成館入り口でやっていた、ビデオでの解説はよく分かりましたが。
その後、久しぶりに、平成館の考古遺物展示を見ました。初めて来たと思われる小学生に、お父さんが、土偶や石器の解説をしていました。子どもが質問し、お父さんが一生懸命説明をしています。その状況を見ていると、いかにも展示の解説が少なく、不親切であることに気がつきました。矢じりが並べてあっても、これがどのように使われたか、小学生には分からないでしょうね。青銅鏡も、なぜこれが鏡か分からないでしょう。だって、鏡の裏の模様ばかり見せるのですから。しかも、それは青黒くさびていて、昔は金色に光っていたなんて、子どもは想像がつかないでしょう。「鏡に書かれた文字に重要な意味がある」との解説がありますが、なかなか鏡の文字は読めません。
日本歴史を勉強した人が見ればわかる、という展示ですね。絵巻物をはじめとする古文書も、そうです。漢字ばかりだったり、流麗なひらがなで、私にもなかなか読めません。子どもだけでなく、一般の人にも分かるように、読み下しの文章・現代語訳を、横に並べてもらえませんかね。
以前から疑問に思っているのですが、博物館って、誰に何を見せるためのものなのでしょうか。モナリザや中国文物展は、諸外国の文物を日本人に見せるものですよね。でも、これは貸し展示場機能であって、国立博物館の主目的とは思えません。東博にあるのは、主に日本の美術工芸品(本館)です。他にアジアの文物(東洋館)などもありますが。しかし、「東京美術館」とは名乗っていません。
私たちが、ヨーロッパや中国韓国の博物館に行くように、外国の人に日本の文物を紹介するためでしょうか。私は、日本を訪れた外国の人にここを紹介したり、外国へのちょっとした手みやげに、ミュージアムショップで小物を買ったりしています。しかし、この展示と解説では、日本の伝統文化を知っている人でないと、分かりにくいでしょうね。仏像や日本画といった美術品なら、詳しい解説は不要ですが。

社会と政治11

19日の読売新聞は、「有料レジ袋賛成64%」を伝えていました。95%の人が地球温暖化を感じていて、92%の人が何かしたいと答えています。
具体的な取り組みでは、電気やテレビをこまめに消すが64%、そしてレジ袋の有料化に64%の人が賛成です。
もっとも、レジ袋をなくしても温暖化問題への貢献は少ないとの記事を読んだことがあります。もっと他に、悪いのがあるということです。しかし、環境問題のシンボルとして、レジ袋削減は賛成です。川を漂うビニール袋については、新地方自治入門p172で取り上げました。

市民の責任

5日の朝日新聞「時流自論」は、河合幹雄教授の「裁判員制が問う市民と情報」でした。
犯罪白書などによれば、2005年に送検されたのは212万人。そこから交通違反関係を除いても、48万人が検挙されている。しかし、裁判にかけられたのは14.6万人、刑務所に入ったのは3.3万人にすぎない。日本の司法現場の運用は、犯罪者をなるべく刑務所に入れない、入れても短期で出す。
誰か世話をする身元引受人を見つけて、起訴を見送ることが通例となっている。釈放してしまうのだ。それでも日本の治安は、先進諸国と比較してケタ違いに良い。この方針で、世界に類を見ないほどに、犯罪者の更正に成功してきた。警察官、刑務官、保護観察官、家裁調査官などのがんばりに加えて、保護司をはじめとした民間の特定の人々が、犯罪者の社会復帰を密かに支えてきたからである。
しかしこの仕組みは、犯罪者の社会復帰を一般市民の生活領域から遠いところで実現したために、市民は何もしなくても「犯罪と無縁の安全な社会」に居られるという感覚を持ってしまった。彼らの視点では、前科者は世間(市民の生活領域)に戻れていないのであるから、刑務所から短期間で出ていることなど、知るよしもない。
裁判員制度は、こうした「隠蔽する官」と「知ろうとしない民」に支えられた成功システムを終焉させるものである。なぜなら市民にとって、犯罪にかかわる情報を知ることなしに自分たちで量刑をすることは、不可能だからである。裁判員制度の導入と安全神話の崩壊は、一部の者だけが更正にかかわり、他の市民は何も知らずに任せきって安心できた伝統との訣別を促す意味で、同じ方向の変化である。それは、社会の透明性が高まり、市民が大きな責任を負う社会の到来である。(3月6日)
15日の日経新聞夕刊に、OECDの「女と男」報告書が、載っていました。それによると、日本人男性の交遊活動が突出して不活発で、世界で最も孤独だそうです。友人や同僚と業務外で外出したり、サークル活動に参加した経験は、17%の日本人男性がないと答え、2位のチェコの10%を大きく上回っています。
人生の満足度でも、ほとんどの国では男性の方が満足度が難いのに、日本では女性の54%に対し男性は52%です。もっと詳しく知りたいですね。

国際化

3月2日の朝日新聞夕刊連載「歌舞伎町のアフリカ人」は、外国人犯罪の増加に対応できていない行政を、取り上げていました。
経済水準の高い日本に、低い諸外国からの流入は止まらない。通訳を介した取り調べでは、核心に迫れない。中国人の考えは中国人の方が分かる。ナイジェリア人のことはナイジェリア人。外国人の捜査員が必要だ、という主張です。カナダでは、入国管理の幹部に中国人を採用し、南アフリカでは中国人の警察官が活動しています。

教員が変わったのか、社会が変わったのか

23日の朝日新聞三者三論は、「教員の質落ちてるの?」でした。野口克海さんは、次のように主張しておられます。
教員の質が落ちたかどうかを論じる前に、教員に必要な資質とは何かを考える必要がある。第一に、教える内容を理解し、わかりやすく教えることができるかどうか。第二に、子どもの心が読めて、子どもとの人間関係がつくれるかどうか。三つめはきちんと出勤し、事務処理をこなせるか、四つめは保護者や地域の人たちとの人間関係を築けるかどうかだ。
・・・個々の先生たちの能力は落ちていないとしても、状況の変化に十分対応できず、悩んでいる先生が多い。学校をとりまく状況の変化とは、端的に言えば、学校の社会的地位が相対的に下がったということだ。昔は、学校は子どもにとって知識や情報の宝庫で、「お母さん、きょう学校でこんなことを習ったよ」と目を輝かせて報告する子どもがいたものだ。いまや学校のほかにもっと豊かな情報や楽しい遊びがある。最近は、自分のほうが先生より学歴も学力も上だと思っている保護者が学校を見下すケースも目立つ・・。
その通りだと思います。近年の教育論議、学校批判は、学校教育に何を期待しているかが混乱したままで、建設的な議論が進んでいません。この指摘のように、問題をいくつかの局面に分けるべきです。まずは前段のように、学校の中での教員に要求される能力です。これは、物差しで測れると思います。
問題は、後段です。日本社会は、学校教育に何を期待しているのか、これをはっきりすべきです。私がいつも指摘するように、発展途上国では、校舎と教員と教科書をそろえれば、教育は成り立ったのです。家庭や地域社会にない知識を与えてくれ、世間より学歴の高い先生は尊敬されたのです。今や、知識だけならテレビや本、インターネット、さらには塾が教えてくれます。教師より学歴の高い親もたくさんいます。これまでのやり方では、尊敬されず、期待されないのです。
発展途上国としての日本の学校教育は、大成功しました。しかし、成熟社会となったときに、学校の役割変化に失敗しているのだと思います。社会が変わったのに、学校の方は変わっていない。だから、学校の評価といった場合に、何をもって評価するかが定まっていません。期待する役割をはっきりしないと、評価できないのです。
また、父兄もその状況を理解していません。みんな経験者なので、1億人が教育評論家です。それはよいことなのですが。父兄が言う「昔はこうでなかった」という批判は、半分正しく、半分間違っています。すなわち、学校が変わったのではなく、社会が変わったのです。
では、これからの学校に期待される役割は何か。知識を教えるだけなら、金持ちの親は塾に行かせたり、家庭教師をつけるでしょう。しかし、私はそれでは、よほどうまく育てない限り、社会で生きていく人間力はつかないと思います。いろんな子どもがいる集団生活の中で、友達もいればいやな子もいることを知ります。また、いろんな成功と挫折を経験して、人間力をつくっていく。これが、学校の役割だと思います。いずれ社会に出ると、学力も必要ですが、その前に定時に出社し、集団生活をしなければなりません。いろんな誘惑に負けず、努力する意思が必要です。それらの方が、学力より必要なのです。
実は、今までも人間力をつけさせる機能は大きかったのですが、知育の陰で隠れていたのです。学力試験と通信簿は、主に知識を問いました。また、人間力は学校の外、地域社会(放課後)での遊びの中で身につけたのです。それが希薄になったことで、人間力を身につけさせることについて、学校への期待は大きくなったのです。(2月24日)
27日の日経新聞経済教室は、白井美由里助教授の「プレミアム商品への消費者心理、主観的満足より品質重視」でした。
わが国の製造業は1960年代以降、品質向上とコストダウンを進め、さらに80年代のプライベートブランド台頭で、同じ商品カテゴリー内での高価格帯と低価格帯の商品を品質で区別するのは難しくなった。そのため90年代以降、消費者が商品を選ぶ要素として、価格のウエイトが高まった。この傾向は豊富な品揃えを誇る百円ショップの成長で一層強まった。ところが、最近新しい変化が見られる。プレミアムを冠した高価格な商品の増加に気づく。仮に低価格品と高価格品の品質に大差がないのなら、消費者は高価格帯の商品に何を求めているのか・・・。興味ある論文です。原文をお読みください。(2月27日)
28日の産経新聞「正論」は、坂村健教授の「自らの力で変われる日本を目指して」でした。そこでは、イノベーションが重要であるが、目標指向型はもはや古いということを、指摘しておられます。
従来型の産業政策は、何か開発目標を定め、それに向かうシナリオを練り・・・という目標指向型のスタイルだった。しかしインターネットの世界的普及とそれを背景とするグローバル化により、変化のスピードと範囲は爆発的に拡大し・・・変化の影響で、いつ目標自体がひっくりかえるかわからない。欧米のイノベーション志向政策の背景には、そういう状況の中では目標指向型の政策立案自体が無意味だ、だから政策スタイル自体をイノベーションしないといけないという強い意識が感じられる。
変化に対応でき、さらにその中で主導権を取って「イノベーション-破壊的な創造」を行える人・組織・国の形をどのように作るか。強いて目標というなら「イノベーションが盛んに生まれる国にする」ことであり、具体的なターゲットはむしろ、イノベーションに必要な多様性と人材や資源の機動性を阻害する要因となる。目標指向型の政策立案はもはや過去のもの。日本も目標指向型から環境整備型に舵をとることを、はっきりと国民に示さないといけない・・・。(2月28日)
昨日書いた坂村先生の主張を読んでいて、なるほどと思いました。私は、発展途上国が終わった日本は、これから民間や公がそれぞれ正しいと思うことを自由に追求する社会にすべきだと思っています。もちろん、その際にはルールを決め、事後監視、救済も必要です。しかし、イノベーションが必要としても、官が目標を決めてそれに向かって社会ががんばるのは、変だと思っていました。それだと、これまでの官が目標を決め民が従う社会と同じなのです。
坂村先生の主張で、納得しました。官がすべきなのは、目標を決めるのではなく、障害を除去するのですね。もちろん、所得再分配とか社会保障・安全などで、官が決めなければならない目標はあります。しかし、イノベーションの目標は、官が決めることができるものではないでしょう。
あわせて、先日の諮問会議を思い出しました。2月16日の会議で、規制改革が取り上げられました。その際、草刈規制改革会議議長が、次のような発言をしておられます(議事要旨では7ページ)。
「規制改革会議の運営方針等について報告する・・。重要課題解決の阻害要因、つまり消費者、生活者のニーズの阻害要因となっている規制は、当然のことだが、成長阻害要因であるので、「撤廃・緩和」を果断に進めていくというのが基本的な考え方になる」