朝日新聞6月10日、「思想の地層」小熊英二さんの「法の支配と原発。残留の義務、誰にもなかった」から。福島第一原発が水素爆発を起こしたあと、3月15日の朝のことです。
・・報道では、(原発)所員の無断撤退が問題とされた。しかし本来、民間企業の従業員に、こうした状況で残れと命令する権利は誰にもない。拒否する権利、少なくとも辞職する権利は、保障されなくてはならない。
このとき所員の9割は無断撤退したが、約70人が残留した。欧米では彼らを「フクシマ50」と呼んだ。それは勇敢さを称えたからだけではない。そんな状況で所員を働かせる人権無視に驚いたのである。
あるドイツ在住者は、当時の新聞投稿で、この問題への欧州人の反応をこう記している(本紙2011年4月11日「声」欄=東京)。「民主主義の先進国で、これが可能なんて信じられない。ドイツ人ならみんな、残って作業するのを断るだろう」「欧州なら軍隊は出動するかもしれないけど、企業の社員が命をかけて残るなんてありえない。まず社員が拒否するだろうし、それを命じる会社は反人道的とみなされる」
軍人は死ぬ可能性のある命令でも従う旨を契約しているから、政府が軍の核対応部隊などに残留を命令できる。だがそんな契約をしていない民間人に、残留を命じる権利は誰にもないし、またそれに従う義務もないのだ・・
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社会と政治
メディアに踊らされ、妥協を許さない国民
講談社のPR誌『本』6月号、加藤陽子先生と高木徹さんの対談「国際メディア情報戦と日本人」から。
・・加藤 国内向けの顔と海外向けの顔ということで言うと、歴史的に見て、日本人は中間案とか妥協案をつくるのがすごく不得意な国民だと思います。仮にそういう案でトップが決断しようとしても、国内が許さない。極端に言えば、0か100しかない。
1941年の日米交渉で懸案となったのは日中問題でした。日中間は、1937年以降ずっと交渉途絶だったように見えますが、裏面では蒋介石の許まで和平交渉のパイプは届いていました。しかし、すべて失敗に終わります。日本内部で軍や外務など政治主体の足並みが揃わなかったからです。
吉野作造は1932年10月3日の日記に、リットン報告書は、客観的に読めば、欧州の正義の常識を書いたもので日本にも十分宥和的な案なのだと書いています。けれども、国民としては、希望的な観測を書き散らしたメディアのせいで、ずっと良い案が出ると思っていたわけですね。ですから、トップが妥結しようとしても国民が許さない・・
日本人の海外雄飛と引揚げ。その記憶と継承
東京大学出版会PR誌『UP』5月号、加藤陽子先生の「敗者の帰還と満洲体験」から。
・・タイトルの「敗者の帰還」とは、太平洋戦争終結時に海外にいた軍人約367万人、民間人約321万人、合計約688万人(数値は終戦連絡中央事務局政治部「執務報告 昭和21年4月15日」による)が、日本本土へと復員・引揚げをおこなった事態を指している・・
・・山本有造編著『満州―記憶と歴史』(京都大学学術出版会、2007年)によれば、終戦時の人口の実に約8.7%にものぼる人々が引揚げを体験した。ならば国民の引揚げ体験は、日本の戦後思想に大きな影響を与えたといえよう・・
・・(加藤聖文氏の論考)いわく、日本の近代とは、日本の歴史始まって以来の人口移動が見られた時代であった。日本人は、台湾・朝鮮・満洲といった植民地や傀儡国家の他、日本占領下にあった中国大陸沿岸部の諸都市に渡って行き、大量の開拓移民としても海を越えた。しかし、「外地」へと雄飛した約330万人のこれら日本人は、1945年8月の敗戦を機に、引揚げ者として「内地」に帰還し、その後は帝国日本を形成していたはずの「外地」について、その記憶を急速に忘却してしまったのではないか。
常に受動態で語られ、自らの外部には目を向けようとしない日本人の引揚げの歴史を相対化すること。このような問題意識は、加藤氏の専論『「大日本帝国」崩壊―東アジアの1945年』(中公新書、2009年)に、より明確に表れている。人や組織の持つ本質はその最期に現れる、と加藤氏は喝破した。国民国家・日本の生き残りを賭けた戦後処理の過程で日本人は、それまでの帝国・日本に包摂されていた諸民族の「その後」を忘却したのではないか・・
このことに関して、私たちは無関心でした。それに関連して、戦後の混乱のなかで、引揚げ者や戦災で焼け出された人、戦災孤児たちに、政府(行政)は何をして何をしなかったか。勉強したいと思っているのですが。
また、戦前・戦中の日本のエリートたちは、海外特にアジアを、ふだんから視野に入れていたと思います。もちろんそれは、今から考えると、ゆがんだ形だったのでしょうが。その頃の会話や議論を見てみたいです。そして、戦後、一挙に内向きになった変化についても。
生命倫理をどう議論するか。政治と生命倫理、2
そして、もう一つこの問題が提起していることがあります。それは、専門家に任せておけないということです。
まず、科学一般について、科学者や技術者に任せておけないということが、原発事故でわかりました。核分裂によって大きなエネルギーが取り出せること、そしてそれをうまく制御すれば役に立つことまでは、科学者と技術者に任せておけば良いです。しかし、それを実際に建設し運転するか、運転する際にはどのような安全装置をつけるか。それを専門家任せにはできないことが、今回の事故で示されました。もちろん、私たち素人が審査や検査をする訳ではありません。誰にどのように委ねるか。それを決めるのは、国民であり政府であり、国会です。
よく似た例を上げれば、軍隊は専門家集団です。戦闘を素人が行うわけにはいきません。しかし、その編成や出動範囲を、政府が監督する必要があるのです。シビリアン・コントロールです。それと似ているでしょう。警察についても、同様です。
さて、今挙げた例は、専門家集団に委ねなければならないが、その管理と制御は政治が行わなければならないということです。
他方、何をもって人の死と認めるか。どこまで延命治療は認めるのか。遺伝子はどこまで改変して良いのか。これらは、基礎的事実は専門家の説明に頼るとして、その判断を国民が決めなければならないという、もう一つの専門家に任せられない問題です。
そこには、どこで線を引くのかという一般的な判断が、一つあります。そして、自分の家族がそのような状態になったときに判断を迫られるという個別の避けられない判断の、二つの問題があります。
前者については、政府や国会で決めなければなりません。しかしこれは、これまで政治が扱ってきた、安全や公平や経済といった課題ではなく、どちらかといえば避けてきた問題です。科学者や経済学者に意見を聞いて決めるというものではないのでしょう。また、どこに専門家がいるのでしょうか。医者ではないでしょう。彼らは技術については意見を述べることができますが、人の命を決めるといった判断はできません。哲学者も、これまでの議論を整理してはくれるでしょうが、「各人が考えることです」と答えるでしょう。相談できる専門家がいるとしたら、宗教家でしょうか(出版物を検索すると、医学部で哲学者が教えている例があるようです)。
後者については、出生前診断結果で、おなかの赤ちゃんに異常が発見された場合に、生むのか生まないのか。寝たきりの家族が苦しんでいる場合に、どこまで延命治療を続けるのか。いずれにしても、専門家に任せるだけではすまず、あなた自身の判断が求められます。原発稼働の問題や戦争については、「私は素人なので、政治家に任せます」という言い逃れもありますが、延命治療や人工中絶については素人であろうがなかろうが判断を迫られます。
生命倫理をどう議論するか。政治と生命倫理
尾関章著『科学をいまどう語るかー啓蒙から批評へ』(新聞報道を自己検証する。4月26日)には、次のような指摘もあります。
遺伝子など医療や生殖の倫理をめぐる問題についてです(p109、p175)。日本に比べ、欧米では政治家のこの問題に関する感度が高いのです。それは政治家だけの意識でなく、有権者の関心を代弁しているのだろうということです。
アメリカでは、1970年代に連邦議会に置かれた技術評価局(OTA)が、遺伝子鑑定による証拠の問題について指摘しました。また、大統領選挙戦で、医療と生命倫理の問題が大きな争点になります。 フランスでは、1994年に生命倫理法を定めました。そのときのことが、紹介されています。「法案審議の際に、議員一人ひとりが自分の立場で討論した。発言も、主語は「我々」ではなく、「私」がほとんどだった」。
臓器移植の際には、提供者をどの時点で死と認めるか、特に脳死が問題になります。日本でも1990年代初めに、脳死臨調が作られました。これは政府の審議会の一つですが、審議会の答申で生と死の境目が決まるわけではありません。臓器移植法は、1997年に作られました。また、臓器移植の際に、「本人同意」をどう確認するかの問題もあります。これは、子どもについて大きな問題になりました。小さな子どもに臓器移植するには、子どもからの提供でないと、大人の大きな臓器では手術できない場合があります。これについては、2009年の法改正で家族の同意でできるようになりました。この法案の採決の状況を、覚えています。他の法律とは違った雰囲気でした。1つの案の可否でなく、4案が提案され採決されました。
この問題は、医者ではなく、政治に大きな議論を提起しています。先端医療や遺伝子解析は、どこまで利用してい良いか。人体を管理して良いのか。延命治療はどこまで行うべきか。人工中絶はどこまで認めるのか。出生前診断で胎児に大きな異常が発見されたらどうするか。本人が望むことなら、何をしても良いのか。それを、誰がどのように決めるかです。
これらは倫理の問題であって、安全や経済や公平といったこれまで政治や法律が扱ってきた社会問題と違った次元にあります。そして、個人個人の考えが異なり、宗教とも近いです。これまで学校では議論されず、また学問や行政とも「離れた世界」で扱われてきました。極端な言い方ですが、「命の大切さ」「個人の平等」という言葉以上の、踏み込んだ議論はされてこなかったのです。戦後日本においては、政教分離という原則で触らずに来たのですが、臓器移植や遺伝子治療で、避けて通れなくなったのです。
すると、これまで政府や国会で議論してこなかったテーマであり、マスコミでも議論してこなかった分野なので、それをどう扱ったら良いかという「作法」が必要になります。
政府内では、どの省が所管するのかという問題になります。医療は厚生労働省ですが、ここで取り上げているのは「生命倫理」です。また学問としては、何学部の範囲になるのでしょうか。個人の内面には立ち入らないというのが、近代民主主義国家の原則ですが、この問題は内面ではありません。憲法が想定していなかった状況、近代民主主義も想定していなかった問題かもしれません。