「社会と政治」カテゴリーアーカイブ

社会と政治

日本のポピュリズム

朝日新聞6月20日のオピニオン欄、「「風」の正体」。
橋下徹・前大阪市長の発言から。
・・・「風」を頼りに一定の政治勢力を築いたという自負のある僕だから言い切れますけど有権者の風を的確に捉えることなどできません。追い風と思えば一瞬にして逆風になる。「風の正体」をもっともらしく分析しても無駄ですよ(笑)。
ただ、こんなに難しい民意の風でも、実体験上その姿をおぼろげながら感じたところがあります。
まずは、相手や現状に対して有権者が不満を増幅させているときに、自分の方に支持が来る。政権交代は野党が積極的に評価されるというよりも、与党が不評を買ったときに起きる。そのチャンスを捉えるしかない。時の運です・・・

大嶽秀夫・京都大学名誉教授の発言から。
・・・ 日本のポピュリズムは争点を単純化して、本来は利害調整の場である政治の世界を善と悪の対決の場に仕立てる手法です。都知事の小池さんも都議会自民党を都政改革の抵抗勢力に見立て、都議選に向けて対立候補を擁立しています。まさにポピュリズムと言えます。どっちが勝つかという話だから、観客としてスポーツ選手を応援する感覚にも似ている。何よりも抵抗勢力と闘っている政治家は格好いい、頑張っているというイメージが有権者にはあるんです・・・

原文をお読みください。

戦後はいつ終わるか

朝日新聞6月29日のオピニオン欄は、小熊英二さんの「今なぜ反体制なのか」でした。
・・・日本以外の国では、「戦後」とは、敗戦直後の10年ほどを指す言葉だ。日本でも、敗戦から約10年の1956年に「もはや『戦後』ではない」という言葉が広まった。ところが「戦後×年」といった言葉は、今でも使われている。
それはなぜか。私の持論を述べよう。「戦後×年」とは、「建国×年」の代用なのだ。
現在の国家には、第2次大戦後に建国されたものが多い。中華人民共和国、インド共和国、ドイツ連邦共和国、イタリア共和国などは、大戦後に「建国」された体制だ。これらの国々では、体制変更から数えて「建国×年」を記念する。
日本でも大戦後、「大日本帝国」が滅んで「日本国」が建国されたと言えるほどの体制変更があった。だが、その体制変更から数えて「『日本国』建国×年」と呼ぶことを政府はしなかった。
しかし「建国」に相当するほどの体制変更があったことは疑えない。それなのにその時代区分を表す言葉がない。そのため自然発生的に、「建国×年」に代えて「戦後×年」と言うようになった。だから戦争から何年たっても、「日本国」が続く限り「戦後」と呼ばれるのだ。
では、どうなったら「戦後」が終わるのか。それは「日本国」が終わる時だ・・・

私も、いつになったら、次に何が起こったら「戦後」が終わるか、考えてきました。何をもって、区切りとするかです。「もはや戦後ではない」は、1956年の経済白書で宣言されました。戦争が終わって11年です。
私は、かつて、戦後半世紀の日本の発展を区切る際に、『新地方自治入門』(p125)などでは、3期に分けました。「高度経済成長期」「安定成長期」「バブル崩壊後」です。これは、貝塚啓明先生に助言をもらって、つくりました。参考「経済成長の軌跡」。
ここでは、そもそも出発点を1955年においていました。それまでを「戦後復興期」としました。また、さまざまな統計数値がそろうのが、この頃からなのです。その10年を入れると、4期です。もし2期に分けるなら、高度経済成長期までと、その後で区切るのでしょう。最近では、第4期(実質第5期)として、「復活を遂げつつある現在」をつけています。

これは、経済成長率で区切ったのですが、日本社会を大きく区切る際には、有用だと考えています。しかし、このような区切りでは、「長い戦後」の中、あるいはその延長の中を、区切っているだけです。
小熊さんの指摘は、正しいと思います。ところが、そのような考え方では、政治体制が大きく変わる、日本国憲法が大幅に書き換えられるまで、「戦後」は続きます。

小熊さんの原文は、この後に戦後日本の体制をめぐる対立について論じておられます。そちらも重要な指摘、というか、それがこの文章の主旨なのです。原文をお読みください。

オランダの歴史

桜田美津夫著『物語オランダの歴史』(2017年、中公新書)を読みました。偉大な小国の500年の歴史が、コンパクトにまとめられています。随所にそうだったんだと、いろんなことを教えられます。
ところで、オランダの歴史と言えば、岡崎久彦著『繁栄と衰退と―オランダ史に日本が見える』(1991年、文藝春秋。文春文庫に収録)が出版されたときに、興味深く読みました。

桜田さんの本も、新書版に良くまとめてあるのですが、欲を言えば、オランダの盛衰をもう少し書いて欲しいです。17世紀に、小さな国土で先進国、大国だったのが、その後追い抜かれて、トップの座から転落しました。その要因を知りたいのです。
その際には、オランダだけでなくイギリスやフランスなど他国や新大陸、植民地についても書かなければならないでしょう。しかし、一国の歴史を、その国内のことだけで記述するには限界があります。「物語オランダの歴史」の限界でしょうか。

京都迎賓館2

先日、京都迎賓館の素晴らしさを書きました(5月1日)。西欧の物まねでなく、日本の素晴らしさを外国の人に分かってもらえる点です。これは、建物単体を建設しただけは無理です。

その良さを分かってもらえるだけの、「日本文化への理解」が必要です。判断者は、世界の人たち、特にこれまで「世界標準」をつくってきた西欧の人たちにです。
19世紀には、日本趣味(ジャポニズム)が広がりました。浮世絵や伝統工芸、そして植物です。しかし、「一部の趣味」でしかなかったようです。
日清・日露戦戦争以降、日本が国力をつけ、さらには戦後の経済成長で世界でも日本の位置が認識されました。もっとも、それも「非白人国が、追いついてきた」ということだったでしょう。

他方で、日本料理をはじめとする日本の伝統文化が、理解されるようになりました。フジヤマ・ゲイシャでない、日本の生活文化です。
和食は、フランス料理・ヌーベル・キュイジーヌに大きな影響を与えました。刺身、寿司、天ぷらだけではありません。ナイフとフォークでなく、箸を使って食べる外国人も普通になりました。そして、お酒です。日本酒のおいしさが、分かってもらえるようになりました。
さらに、和風旅館のおもてなしも、理解されるようになりました。ここは、しつらえや料理、そしておもてなしで、日本の生活文化が総合された場です。

建物や道具などいかに立派なものをつくっても、それが単体では、日本文化の理解にはなりません。日本の経済的存在感が、世界の人に「西欧ではない優れた文化」があることを認識してもらえる背景にあります。
そして、和服を洋服に替えましたが、すべてを西洋風に変えるのではなく、日本の伝統文化を守ったことが、世界に紹介することができる、そして誇ることができる生活文化を残したのです。それがなければ、いかに経済力を持っても「エコノミックアニマル」としか思われないでしょう。

2020年東京オリンピック・パラリンピックの公式エンブレムも、和風の良い意匠だと思います。
尊大になってはいけませんが、西欧文化だけが世界標準でないこと、日本文化も良いことを、世界に紹介し続けるべきです。もちろん、他の国にも良い伝統文化があります。

団体への加入率の変化

昨日紹介した、中北浩爾著『自民党』に、興味深い表が載っています。「有権者の団体加入率の推移」p196です。「明るい選挙推進協会」調査から、先生が作成されたものです。一部を抜粋します。

数字は左から、1980年、90年、2000年、2009年、2014年で、%です。
自治会  65、68、48、35、25
農業団体 10、11、5、3、4
労働組合 12、8、5、6、6
経済団体 6、7、4、3、2
非加入  18、18、32、40、43

この40年の間に、日本社会が大きく変化したことが、読み取れます。特に、自治会加入者の減少と、どこにも属していない人の増加が激しいです。
このような「緩慢な変化」は、ニュースにはなりません。私たちが気づかないうちに、静かに進行している変化です。しかし、社会や政治を規定する、あるいは社会問題を生む大きな要素です。