カテゴリー別アーカイブ: 社会と政治

社会と政治

将来に悲観的な日本人

7月4日の朝日新聞文化欄「世界で何位?から考える 次世代」に、「今の子どもたちが成長したとき、親世代よりも経済的に豊かになるか?」と言う質問をしたところ、17の国の中で日本がフランスと並んで一番悲観的でした。豊かになるが16%、厳しくなるが77%です。シンガポールとスウェーデンを除き、他の国は厳しくなるとの回答が豊かになるより多いのですが、日本は飛び抜けて、悲観的です。

小島庸平・東大准教授の発言から。
・・・日本で経済の見通しが悲観的なことに違和感はない。政府や日銀の対応も手詰まり感がある。最大の要因の一つは少子高齢化。増え続ける高齢者を、減り続ける現役世代が支える。年金の目減りを見越し、家計は消費や投資をおさえ、貯蓄にまわす。国内の市場拡大は見込めず、企業も投資を控える。ただ少子高齢化は他の先進国も同じ。なぜ日本が特に悲観的かを考えると「世代の問題」に行き当たる。

バブル崩壊後の長期不況に苦しんだ「ロストジェネレーション」と呼ばれる世代がいる。約2千万人いるといわれるロスジェネ世代が就職や結婚、出産といったライフイベントを迎える時期に、バブル崩壊後の不況が重なった。結婚や出産は個人の選択で、多様な方が望ましい。ただ当時の不安定な就業や失業を理由に、結婚や出産を望んでいたのにできなかった人は、少なくなかったのではないか・・・

・・・構造的な困窮を「自己責任」として放置したために、少子化と人口減が後戻りできない状態になり、経済の停滞を招いた。昨年刊行した『サラ金の歴史』では、ロスジェネ世代の経済的な弱者を狙ったサラ金の規制が何度も持ち越されたことを指摘した。
格差を放置したツケを払う形で、停滞に陥ることになった。この経験から学ぶとしたら、格差や不公正さを解消した方が、長い目で見るとこの社会を豊かにする、ということだろう。社会が人々の暮らしに対し、公正に配慮するという期待や安心感があるからこそ、人々は安心して家族を作り、消費できる。もうけることと公正さの追求は矛盾しないと思う。

人口が減少する確度が高い未来で、いかに平等さや公正さを確保するか。目先の景気ではなく、100~200年先を見通して、あえて青臭く理想の社会を描く。そんなグランドデザインを、政治には示して欲しい・・・

感染症対策の科学と政治

6月9日の朝日新聞、飯島渉・青山学院大教授の「中国が続ける「ゼロコロナ」政策の教訓は」から。

――中国が続けてきた政策は妥当でしょうか。
「02年から03年の重症急性呼吸器症候群(SARS)の流行が、医療・衛生行政の改革のきっかけになりました。経済成長の果実を使いながら、医療保険制度の改革を行いました。現在の対策を見ると、社会主義の下での大衆動員による医療・衛生行政との連続性も垣間見えます」
「感染症対策を決定するのは科学であると同時に、むしろそれ以上に政治、文化や社会であることを痛感します。中国では、政治文化としての介入的で、動員的なモデルからの離脱が難しい。ただ、いずこの国も臨機応変な政策転換は容易ではありません」

――中国の現状から、日本や世界各国がくみ取れる教訓は何でしょうか。
「中国の対策の特徴は、『社区』や『小区』と呼ばれる居住単位を基盤とした厳しい行動規制、情報通信技術(ICT)を駆使した住民管理、それを実現しうる共産党の組織力、物資や医療人材を集中させられる経済力です。同時にロックダウンのコストは膨大で、継続は難しい」
「一方、そのあり方は近未来的でもあり、さまざまな健康情報の集約も含め、過度に情報が一元化されています。その方が効率的だという誘惑にかられるのですが、個人の生活において、常に自分の情報をめぐって防疫との『取引』をしなければいけない世界だといえます」
「中国の感染症対策におけるICTの活用は、デジタル化した社会での個人の生活のあり方を考えるきっかけを提供しています。ポストコロナを見据えながら、その過程をていねいに検証する必要があるでしょう」

電子化の進め方、いまだにフロッピーディスクが使われていた。

行政、企業、社会の電子化が叫ばれています。デジタル庁もできました。
ところで、4月に起きた山口県阿武町の臨時特別給付金10万円の振込先間違い(合計4630万円)事件では、まずは町役場から、フロッピーディスクで振込先と金額が銀行に伝えられたと報道されています。それとは別に、紙で間違った振込先と金額が伝えられたとのことです。これについても、大きな問題ですが。

ここで取り上げるのは、フロッピーディスクで送金依頼をしていることです。町役場にも銀行にも、フロッピーディスクを読み取るパソコンなり機械があることです。電気店に行っても、そんなパソコンを売っていないでしょう。若い人は、フロッピーディスクを見たことがないと思います。個人が使っているならともかく、役場や銀行が使っていることは、驚きです。
さらに官庁では、安全のためにパソコンにUSBメモリなどを接続することを制限しています(記憶媒体接続の危険)。そのようなサイバーセキュリティは、どうなっているのでしょうか。
フロッピーディスクで依頼した後に紙で間違った依頼をしたこととともに、これらの事実を究明して、再発防止策をとってほしいです。

デジタル化の旗を振るのも良いですが、このような自治体や銀行をなくさないと、社会の電子化は進まないでしょう。参考、朝日新聞アエラ2022年5月19日「4630万円誤送金で脚光浴びた「フロッピーディスク」 絶滅どころか公的機関でいまだ“現役”の事情

国際公共財インターネット

5月16日の日経新聞オピニオン欄「ネット空間に分断の危機 識者に聞く」は、考えさせられます。
・・・インターネットで国内外の情報を手軽に閲覧できるのは、ネット空間を国際的な公共財としてIT(情報技術)企業や各国政府が協力してきたからだ。それがロシアのウクライナ侵攻や強権的な政治体制の広がりで揺らいでいる。ネット空間は「分断」を避けられるのか、ネット管理の国際団体や識者などに尋ねた・・・

ICANN CEO ヨーラン・マービー氏
民間非営利団体「ICANN」の役割は2つに絞られる。ひとつはコンピューターをインターネットに接続できる環境を保つこと、もうひとつはネット上の住所といわれるドメイン名を使って、人々がお互いを探しあえる状況を維持することだ。これ以外の役割は持ち合わせていない。
ウクライナ政府は2月末にロシア政府発の偽情報やプロパガンダを防ぐため、ロシアに割り当てられた「.ru」ドメインの取り消しなどの措置をICANNに要請した。
深刻な内容と受け止めて真剣に協議し、迅速で明快な回答を心がけた。ただ、技術的に不可能ということもあり、従来の姿勢を貫く形となったのが実情だ。政治的な判断ではない。
インターネットは約35年という短い期間で、世界の利用者がゼロから52億人へと急拡大した。しかも、機能不全に陥ることもなかった。技術的なシステムが機能し続けることは珍しい。非中央集権型の運営方式を採用していることが成功の理由だと考えている。
世界には多くの通信網があり、どのような情報が流れるべきかといったルールはそれぞれの通信網が決めている。ICANNは異なる通信網のコミュニケーションに必要な「共通言語=インターネットプロトコル(IP)」を管理する中立的な存在で、誰かを遮断することは目的ではない。
日常生活の違法行為はネットでも違法であり、こうした明確な悪には対応できる。だが、何が悪なのかといった定義を決めるのは私たちの仕事ではなく、選挙で選ばれた政治家が担うべきだ。ICANNのような技術団体が「だれが悪人か」と判断を下すのは適当ではないと考えている・・・

慶応大教授 村井純氏
インターネットを巡り起きる課題にどう対処するかは、狭義のインターネットと広義のインターネットに分けて考えるべきだ。
「狭義」はIPアドレスとドメイン名で、ICANNが運用を担うネットのインフラ部分だ。「広義」はその上に広がる各種のアプリケーションやサービスで、SNS(交流サイト)やメディアも含む。
課題ごとに対処方法をインフラ側で決めるか、その上に広がる社会で決めるか考えなければならない。
例えばフェイクニュースやコンテンツの海賊版を止めるため、インフラとしてのネットを遮断するのはどうだろうか。その選択はあり得るだろうが、ネットが教育や健康などでも大きな役割を果たしていることにも注意すべきだ。
別の対応方法も考えられる。ネットで流通する情報に、著者は誰なのかという情報をひも付けることだ。情報にトラスト(信頼)を与えて、(トラストがない)フェイクニュースへの対抗とすることは技術的には可能だ。欧州連合(EU)では取り組みを進めようとする動きもある。
解決策をどの層で作るのかは今後しっかり整理した方が良い。例えばサイバー攻撃なら、狭義のインターネットの層で対応している。ネットの専門家が国籍を問わずに情報共有する仕組みが機能している。
ネット空間の統治については、国連のインターネット・ガバナンス・フォーラム(IGF)があるが、国連は政府間の調整機関で、IGFもまだ議論の場にとどまっている。
狭義のインターネットはどの国の政府の管理にも属さないという考えで運用が図られてきた。政府間調整とは異なる、グローバルな統治の場をつくる挑戦は今後さらに必要になる・・・

ゼロリスク信仰を乗り越える

「ゼロリスク信仰」という言葉があります。身の回りの危険は完全に防ぐことはできず、完全に防ごうとすると、行動が制約されたり費用がかかったりします。専門家は危険の程度を客観的に説明するのですが、ゼロリスクを信仰する人たちはそれらの危険を程度と考えず、安全か危険かの二者択一で考え、主観的に危険をゼロにすることを求めるのです。食の安全、原子力事故、感染症などで現れました。

ゼロリスク幻想との決別」(読売クオータリー2021春号2021年7月30日)に、BSE(牛海綿状脳症)での全頭検査、福島県産農作物の放射性物質検査について、安全性が確認された後も検査を続けたことの無駄が指摘されています。

対照的なのが、新型コロナウイルス感染症対策です。
感染拡大を防ぐには、外出しないことが効果的です。当初は全校休校や飲食店などの休業が実施されました。感染を押さえ込む「ゼロコロナ」という考えも一部にはありましたが、それは現実的ではないと分かりました。
すべての外出を規制すると、社会活動や経済活動が停止します。百か零かという二者択一は取ることができず、どこかで折り合いを付ける必要があります。そして、多くの国民は家に引きこもることなく、マスクを付け三密を避けて外出しました。その後も、感染が拡大すると規制が強化され、感染が縮小すると規制を緩めるということを繰り返しています。

これは、ゼロリスク信仰を克服する良い経験でした。感染拡大を防ぐためには行動制限が必要ですが、まったく外出しないわけにはいきません。安全と危険の程度を秤にかけて、どこかで折り合いを付けなければならないのです。
BSE牛や原発事故農作物の検査の場合は、消費者はそれらの検査は供給者に要求すれば良いのに対し(ただしその費用は税金などです)、コロナ感染症予防の行動制限は、全員が自ら判断しなければならないのです。そして、国民はその試練を乗り越えています。