カテゴリー別アーカイブ: 社会と政治

社会と政治

ロシア、プーチン体制を支持する中産階級

9月5日の日経新聞夕刊に、斉藤徹弥・編集委員の「長期化するウクライナ侵攻 ロシアの社会構造にも一因」が載っていました。

・・・ロシアがウクライナに侵攻して半年たちました。戦争が長期化する一因にプーチン大統領を支えるロシアの社会構造があります。一般に中産階級は民主化を志向するとされますが、ロシアの中産階級は必ずしもそうではないようです。

旧ソ連や中東欧の中産階級について分析した米国の政治学者ブリン・ローゼンフェルド氏は著書「独裁的な中産階級」で、ロシアのような非民主主義国では、国営企業や公務員など国営部門で働く中産階級は独裁を支持する傾向にあることを明らかにしました。
ロシアでは中産階級の6割が国営部門で働いています。民主国家なら民主化の要になるはずの中産階級がプーチン体制を支えている構図です。歴史社会学の立場からロシアを研究する鶴見太郎・東大准教授は「仮にプーチン氏が交代しても、同じような人物を求める社会構造になっている」と指摘します。
これはソ連崩壊後の30年で形成されました。大統領への信頼度は議会と同様に低迷していましたが、プーチン氏が強権的な体質を強めるにつれ、皮肉にも信頼度は高まってきました・・・

・・・鶴見氏はロシアの社会構造も、欧米諸国と同様なグローバル社会につながる層とローカル社会に生きる層の対立とみます。ローカルな人々による反グローバリズムの動きは、欧米ではトランプ現象などのポピュリズム(大衆迎合主義)を生み、ロシアのような権威主義国では独裁を支えているという見方です。
グローバル社会は一定の条件がそろえば誰でも参入できる普遍的なものです。しかし、途上国などは条件をそろえにくい場合があり、結果的に排除された人々が別の社会を形成すれば二極化してしまいます。
ポピュリズムも独裁も、処方箋はグローバル社会の普遍原則を守りつつ、排除につながらないよう工夫していくことという鶴見氏。「グローバル社会の構造を根気強く少しずつ変えていかなければならない。1世代、2世代で変わる話ではない」としています・・・

ウェブ版の記事には、より詳しい話が載っています。

日本社会の意識がつくる孤立する家族

9月5日の朝日新聞文化欄「元首相銃撃 いま問われるもの」、岡野八代・同志社大学教授の「家族が負う、政治が放棄した責任」から。

安倍晋三元首相への銃撃事件を起こした山上徹也容疑者は、家庭環境への不満や孤立感をSNSにつづっていた。ケア労働と家族の関係に詳しい政治学者の岡野八代・同志社大大学院教授は、事件の背景に「子育ての責任は家族が負う」という日本の家族観があると指摘する。

――事件の背景には「閉じられた家族」の問題があると主張されています。どのような意味ですか。
まず伝えたいことがあります。日本では事件が起きたとき、その社会的背景について言及すると、「容疑者を擁護している」との批判がでてきます。しかし、個人の罪を司法が裁くことと、その背景にある問題を論じることはまったく別です。社会的背景を考えることは市民一人ひとりの重要な責任ですし、政治家には政治的責任について考える義務があると思います。

日本では家族のことは家族任せとし、他の家族にはなるべく介入しない社会が築かれてきました。報道を見ると、山上容疑者の母親は旧統一教会(世界平和統一家庭連合)の活動にのめり込み、子どもたちの世話もできなくなった。それなのに、家族は固く閉ざされ、外からの支援が受けられなかった。家族は、子どもや高齢者といった社会で最も弱い人を抱える集団であることも多い。その家族に対し、すべて自分たちで責任をとれというのは、政治のありかたとしていびつです。

――自己責任論が子育てに対する家族の責任を強めることになるのですか。
未成年は経済的に誰かに依存して養育・教育されるので、自己責任論は例外なく家族責任を重視することになります。山上容疑者は、家族の外に支援を求めることができず、孤立を深めた。彼は崩壊した家族や、母親が作った負債に責任などとれないわけです。
自己責任論の問題は、本来とることができない責任を個人にとらせようとすることです。彼一人が思い詰めることのないよう、学費の支払いや悩みを聞くような社会的支援があるべきでしたが、国は責任を放棄していた。自己責任論には政治責任を免除する効果があり、それこそが問題の核心です。

政治と宗教、統一教会問題

日経新聞は、8月31日から「旧統一教会と政治」を連載しました。
統一教会については、さまざまな問題が指摘されています。一時は、オウム真理教などとともに報道もされたのですが、近年は取り上げられなかったように思います。

連載第4回(9月4日)の見出しは「「宗教=タブー」からの脱却」です。
戦後日本では、戦前の反省や憲法での規定により、宗教は政治や言論界では触れられなくなりました。「政教分離」の一言で片付けられてきたように思います。
他方で、家庭を破壊してしまうような活動、心の世界ではなく経済活動が優先されているような活動もあるようです。オウム真理教は、社会秩序を破壊するような活動にまで至りました。

宗教や心の問題は、安易に政治が関与すべきものではありません。それを前提としつつ、今回の事件をきっかけに、社会に問題を引き起こす事態や個人の生活を破壊するような事態については、信教の自由として保護すべきものではないことを議論してもらいたいです。

佐伯啓思先生、民主主義を支える人びとの信頼

8月27日の朝日新聞オピニオン欄、佐伯啓思先生の「社会秩序の崩壊と凶弾」から。私は連載「公共を創る」で、社会を支える信頼関係の重要性を主張しています。

「民主主義とは言論による政治」といわれるが、ここにはひとつの前提がある。それは、言論による合意形成という手続きを人々が信頼する、言い換えれば暴力を排除するという前提だ。これはまた次のことを意味する。それは、論議される問題の重要性や理解において、人々の間にある程度の共通了解があり、仮に意見の対立があっても、その根底には人々の間の相互信頼がなりたっている、ということだ。
民主的社会は、基本的にこの種の前提に基づいて政治秩序を維持してきた。だから、「民主主義」「言論の自由」「法の支配」「公私の区別」「権利の尊重」などは相互に連結した普遍的価値とされたのであり、それを総称して「リベラルな価値」といってよい。
従来、「リベラルな秩序」の実現こそが社会の進歩をもたらすとみなされ、リベラルな価値は先進国ではおおよそ受け入れられてきた。ところが今日、日本だけではなく世界的にも、あきらかに「リベラルな秩序」が崩壊しつつある。どうしたことであろうか。

少し考えればわかるが、リベラルな価値は、理念としては結構であっても、それだけで社会秩序を作れるわけではない。自由の背後には自制がなければならず、民主主義の背後には政治的権威の尊重が必要であり、法の背後には慣習や道徳意識がなければならない。権利の背後には義務感や責任感が不可欠である。
これらは目にみえるものではなく、暗黙のうちに保持されてきた価値だが、社会秩序を維持する上で実は決定的な意味をもってきた。リベラルな秩序の実現は、リベラルな価値の普遍性によって担保されるのではなく、現実社会の具体的様相のなかで、人々が、「目にみえない価値」を頼りにして営む日常の生によって実現されてゆく。
実際に「目にみえない価値」を醸成し維持するものは、人々の信頼関係、家族や地域のつながり、学校や医療、多様な組織、世代間の交流、身近なものへの配慮、死者への思い、ある種の権威に対する敬意、正義や公正の感覚、共有される道徳意識などであろう。

かつて政治学者の高坂正堯氏は、国家は「力の体系」「利益の体系」そして「価値の体系」からなるといった。安倍氏はとりわけ政治力や経済力に関して日本の国力を強化しようとしたし、着実に一定の成果をあげた。
ところで私は、「価値」には二つの側面があると思う。法や政治的理念などの「公式的価値」と、文化や習慣といった「非公式的価値」である。「リベラルな価値」は前者であり、ここでいう「目にみえない価値」は後者である。「保守の精神」は、一方では国家の安全保障にかかわるが、他方では日本の「目にみえない価値」の維持をはかるものでなければならない。

グローバルな大競争の時代にあっては、政治は、リベラルな普遍的価値という「公式的価値」を高く掲げ、技術革新を推進し、社会を流動化し変化させなければならないだろう。だがそのことが、日本社会が保持してきた「非公式的価値」を蝕むことにもなるのである。安倍政治の成果が、逆説的に「保守の精神」の衰弱という帰結をもたらしたとしても不思議ではない。社会の土台や、人々の精神の拠り所が崩壊しつつあるのだ。
それは、われわれの社会生活の土台であり、精神生活の核となる。それらは、あまりに急激な変化にさらされてはならないのであり、その意味で、「目にみえない価値」を重視するのは「保守の精神」なのである。それがなければ、リベラルな価値など単なる絵にかいた餅に過ぎなくなるであろう。そして安倍氏殺害の容疑者にあっては、この「目にみえない価値」を醸成する安定した生活や精神の拠り所が失われていたようにみえる。

個人の不満を吸い上げていない民主政治

8月12日の朝日新聞オピニオン欄、山腰修三・慶應大学教授の「安倍元首相銃撃 民主主義という参照点から掘り下げて」から。

・・・また、「事件は世界平和統一家庭連合(旧統一教会)に恨みを抱いた容疑者が引き起こしたものであり、安倍氏の政治信条への異議申し立てではないのだから、民主主義とは関係がない」との反論もあるだろう。だが、これも7月18日付の朝日のインタビューでの政治学者・宇野重規氏の言葉を借りるなら、あまりに「表層的」である。
宇野氏によると、個人の不満を吸い上げる政治的な回路が機能不全を起こし、本来社会全体で解決すべき問題が、あたかも個人の問題であるかのように捉えられるようになった。政治と切り離され、漂流するこうした不満が今回のように暴力の形で噴出してしまったのであれば、それは「民主主義の敗北」にほかならない。今回の事件を読み解くうえで重要な指摘である。

近年、世界的な民主主義の退潮が繰り返し指摘されてきた。日本だけがこの潮流と無縁であることなどありえない。トランプ現象のような分かりやすい形で大規模に展開しなかっただけで、人々の不満や要求を政治につなげる回路は着実に衰退してきた。
日本では安倍政権下の官邸主導によってさまざまな政策が実現する一方で、民意を代表しているはずの国会での議論が軽視された。思い返せば、今世紀初頭の小泉純一郎政権下の経済財政諮問会議を通じた「改革」をメディアも世論も大いにもてはやした。だが、それもまた政党や国会を迂回し、一部の専門家やビジネスの論理を政治に反映させる手法であった。
一般の人々の不満や要求を政治につなげる回路たるべき組織や制度が徐々に衰退し、民意は漂流を始めている。人々は選挙も伝統的なマス・メディアも、自分たちを代表していないと考えるようになった。

かつての大衆社会論に基づけば、中間集団を喪失した大衆は、政治的な無関心と熱狂との間を揺れ動く存在となる。こうした状況は現代社会において、今回のような暴力だけでなく、ポピュリズムや陰謀論が活性化する条件を形成することになる・・・