カテゴリー別アーカイブ: 社会と政治

社会と政治

続・クールビズ

3日の読売新聞が、「基礎からわかるクールビズ」を特集していました。
「岸田一郎さんは『クールビズが始まる以前から、『ノーネクタイでもきちんとした格好はできる』という意識が男性たちの間に広がっていた。国のお墨付きを得たので、今後、定着していくのではないか』と話す」
「『何をしてもいい』という自由を与えられると、戸惑ってしまうのが日本人の特徴とされてきたが、『最近の日本人は変わってきた』と岸田さん。『今は多様化、個性化の時代。半数は戸惑っていても、半数は歓迎しているのでは』と分析する」。
コシノヒロコさんの談。「日本のビジネスや政治の世界では、おしゃれを考えることは『男らしくない』と、妻任せにする人も多い。しかし、自分の魅力も知らずして、国や社会のことを考えられるのかしら」
「男たちがネクタイを取った点は進歩ですが、『ただネクタイや上着を取ればいい』という横並びの発想やTPOを考えない着こなしに見えるのが残念です」。

日本の文化

烏賀陽弘道著「Jポップとは何か」(岩波新書、2005)が、面白かったです。Jポップ(演歌でもアイドルでもない、若者ポピュラーソングとも言うのでしょうか)は、私にはフルートの演奏対象にもならず、そもそも理解し難く、縁がないのですが、日本社会を勉強するために読みました。
宇多田ヒカル以外の歌手の英語歌詞は、英語としては成立せず、ネイティブが聴いて鑑賞には堪えないこと。宇多田ヒカルを含めて、海外ではまったく売れていないこと。日本人が日本人だけで、インターナショナルなような気になっていること。
ポピュラー音楽の輸出がほぼゼロ(売れているのはアニメソング)に対し、日本市場では輸入が圧倒的に多いこと。そして、日本製の音楽は、国内市場だけで成り立っていること。拙著で書いた「まれびと志向」や「情報の単一市場」p320が、極端な形で現れているのですね。
その他にも、日本のカラオケ参加人口は約5,000万人で、音楽鑑賞人口4,500万人より多い。CD生産額は最高6,000億円に対し、カラオケ料金は7,800億円。カラオケボックス利用者の6割が30歳以下に対し、酒場でのカラオケは7割が30歳以上。「カラオケは、自己表現の消費」など。日本社会を考えるいい教材です。

経済成長がもたらしたもの・私たちが忘れてきたこと

朝日新聞は13日の夕刊から「戦後60年の投資図、第2部・イメージ空間」の連載を始めています。13日は「歌謡曲」でした。
「歌謡曲史を振り返ると不思議なことに気がつく。曲のタイトルから東京に限らず、町や土地の名前が消えていくことだ。『長崎ブルース』『京都の恋』『よこはま・たそがれ』。70年前後には、個性的なイメージを競いあう各地の町をうたう多くの流行歌が生まれた」「しかし、町の名前をタイトルに含む歌は、70年代の途中から姿を消していく」
「 『背景には、日本中が均質な消費空間におおわれ、歴史をもつ地域の風土が崩壊した変化がある』と消費社会研究科の三浦展氏は見る」「日本中が画一的な郊外の風景になってしまった。その結果、地域の固有の記憶は失われ、土地が匿名化した」

人生の表現

「服装はその人の生き方だ」と書いてから、「住宅は住む人の思想だ」ということを思い出しました。建築家の渡辺武信さんが「住まい方の思想-私の場をいかにつくるか」(中公新書、1983年。中公新書にはあと数冊書いておられます)で主張しておられました。そこには、住宅がハードウエアでなく、住む人と家族の生き方を反映すべき、あるいは反映するものであることなど、考えさせられることが書いてあります。
もっとも、住宅の設計は、私たちの人生にとって、そう何度もあることではありませんが、服装は毎朝選ばなければならないので、よりつらいですね。
また、「生き方の選択」という点では、自由時間の過ごし方も、そうでしょう。麻雀をする、ゴルフに行く、パチンコをする、本を読む、ごろごろしている。それぞれが、その人の生き方の表現です。でも、服装の選択は、衆人に評価されることが、自由時間の過ごし方よりつらいです。

(周りが変わると)
「で、おまえは何を着て行っているのか」という質問があります。5月には、「岡本さんは、6月から何を着るのですか」という問いも、たくさんありました。「ふだんでも、変わった服装をしているので、軽装になったら、どんなとんでもない服装になるのか」という期待だそうです(笑い)。また中には、「おまえはへそが曲がっているから、みんなが軽装になったら、普通の服装になるのではないか」とおっしゃる方もおられました。
申し訳ありません、期待を裏切って。これまで通りの服装で行ってます。スーツの日もあれば、色が違う上着の日もあり、ネクタイは基本的にしています。何が変わったかというと、これまでこの服装(+クレリックシャツ)は、紺のスーツ軍団の中で目だったのに、今はちっとも目立たなくなりました(笑い)。もう少し暑くなったら、半袖ノーネクタイにしようと思っています。

続・夏服騒動

前回書いた「夏服騒動」は、たくさんの反響がありました。その続きです。
(霞が関の社会学)
霞が関・永田町では、夏服騒動が続いています。「逮捕されるまで、俺はネクタイを外さないぞ」と言った官僚がいるとか(逮捕された人が、自殺防止にネクタイを外され連行される姿がテレビで映ります。そのことを指しています)、奥さんと久しぶりにシャツを選びに行ったとか、話題には事欠きません。「毎日、着ていく服を選ぶのが大変だ」という声が多いです。
ネクタイを締めていると、「どうしてネクタイをしているんですか」と聞かれる「アカ狩り=非同調者捜し」があります。外していればいるで、「あの服装はださいよね」といった「品評会」もあり、社会学の良い研究対象になっています。

(ネクタイ外せば、クールビズ?)
「上着脱ぎ、ネクタイ外せば、クールビズ」と思っていたら、そうではなさそうだ。ということがわかったのが、この10日間の学習効果でしょうか。ふだん着ているシャツは、ネクタイを外しただけでは、かっこよくないのです。
みんな、あらためて、ネクタイの効用を認識しています。その1は、ネクタイをしていると、視線が顔でなく、ネクタイに注がれること。そして、「ぼやけた顔への注目が低くなる」ことです。ところが、ネクタイを外すと、視線はすべて顔に行ってしまいます。その2は、太ったお腹が、そのまま見えてしまうこと、です。これが、昨日、野田聖子議員と議論した結論です(笑い)。
ネクタイは、実用の面ではほとんど機能がない布きれです。それが、これだけ長期間、また世界中の男たちに採用されてきたのは、単なる慣習でなく、それだけの機能があるのですね。

(服装の思想)
ノーネクタイ運動が日本の社会を変えるということを、前回書きました。「個性を殺して回りに同調すること、自分で考えずに指示を待つこと。この二つに慣れた男たちに、革命を迫っているのです」と。10日の朝日新聞「三者三論、クールビズ定着するか」での、成実弘至助教授の主張も参考になります。
「ネクタイを外しただけでは、かっこよくない」となると、これからはどのような服装を選ぶか、各人の「服装に関する考え方」=「服装の思想」が問われることになります。「人は外見で評価してはいけない」という警句があるのは、しばしば、「人は外見で評価される」からです(拙著「明るい係長講座」)。
「紺のスーツにネクタイ」は、サラリーマンの制服であり、これを着ている分には安心でした。「スーツとネクタイ」という制服がなくなって、各自が服装を考えなければならなくなりました。そして、その服装は、周囲の人から評価されます。大げさに言えば、その人の「生き方」としてです。
夏向きの素材、値段という制約、TPOの制約のなかで、どれだけかっこよくできるか。社会に調和しつつ、個性を出すこと。とんでもない服装は、社会からの逸脱になります。ホテルなどには、入れてもらえないでしょう。ダサイ服装は、センスが疑われます。「たかが服」と、バカにはできないのです。奥さんたちのセンスも問われます。