「政治の役割」カテゴリーアーカイブ

行政-政治の役割

コロナウィルス対策、私権制限を避ける日本

8月26日の日経新聞経済教室、福田充・日本大学教授の「特措法、平常時との分離は問題 コロナと緊急事態法制」から。
・・・新型コロナに対して改正特措法に基づき緊急事態宣言を発出する際にも、日本政府はちゅうちょした。実際にこれまで使用されたことがなかった特措法に基づく緊急事態宣言には、感染拡大を抑止するために私権を制限する項目があったからだ。この私権制限に対する社会的な反発や反対を恐れた政府は、緊急事態宣言の発出に極めて慎重な態度をとり、全国の知事や日本医師会の要請など社会から求められる時をまって、緊急事態宣言を4月に入ってようやく発出した・・・

・・・日本政府が当初ちゅうちょしたことも理由がないわけではない。私権を制限する緊急事態宣言は「伝家の宝刀」と呼ばれ、日本の法制度の中で最も私権を制限するレベルの法制度だ。こうした私権を制限する法制度は安全保障でも、国民保護などテロ対策でも、かつてはタブーだった。
しかし新型コロナにより、新感染症パンデミックという危機が国家安全保障・国際安全保障の対象であるということが、日本国民の中でも定着したと考えられる。それは東日本大震災のような自然災害、福島第1原発事故のような大規模事故、地下鉄サリン事件のようなテロリズム、北朝鮮のミサイル事案や尖閣諸島問題のような戦争紛争につながる安全保障問題などと同様の位置付けだ。こうした考え方は危機管理の「オールハザード(全災害)・アプローチ」と呼ばれる。
危機事態では国民への協力要請や私権制限が伴う対応を求められる状況が発生する。それは自然災害でも大規模事故でもテロリズムや戦争などでも同様だ。このように平常時の法制度と危機事態での法制度のあり方を切り分けて考える思考法を日本人も取り入れねばならない時期に来ている。

重ねて特措法には様々な不備がある。首相が緊急事態宣言を発出するのだが、実際に市民に外出自粛要請や休業要請、学校休校要請をするのは各都道府県であり、その責任や権限の範囲が不明確だ。またこうした社会的措置があくまでもお願いレベルの要請であるため、その効力に問題が発生する可能性、そしてその結果発生する経済的損失に対する補償がセットになっていないという問題もある・・・

コロナ危機への政権対応

8月21日の日経新聞経済教室、谷口将紀・東京大学教授の「コロナ危機への政権対応 官邸主導の誤用、混乱招く」から。
・・・官邸主導とは、与党と官僚それぞれに対する首相のリーダーシップを意味する。もしかつての党高政低(与党の政府に対する優位)のままだったならば、族議員に押されて「お肉券」や「お魚券」が現実化したかもしれない。官僚主導が続いていたら、法務省の抵抗を前に、感染拡大国・地域に滞在歴のある外国人の入国拒否は遅れていただろう。むしろ官邸主導「にもかかわらず」、あるいは官邸主導の「誤用」に基づく不出来というほうが適切なように思われる。
筆者の見るところ、安倍政権の新型コロナ対応には3つのつまずきがある・・

第1に同じ危機対応でも自然災害のノウハウは蓄積されていたのと比べ、感染症対策については備えが不十分だった。
第2に政治決断にはやるあまり、専門的知見やエビデンス(証拠)に基づく政策決定を軽視するきらいがある。特に専門知識の活用方法、つまり有識者との役割分担に丁寧さを欠く。
第3にアベノミクス「3本の矢」を貫徹させられなかったツケだ・・・そして肝心のアベノミクス第3の矢、成長を軌道に乗せる社会経済構造改革については、少なくとも十分な成果を得られていない・・・

憲法を機能させる、その2

憲法を機能させる」の続きです。
もう一つ問題なのは、憲法学者です。基本的人権や民主主義の「講壇的議論」でなく、実際に起きている事件を取り上げ、憲法の趣旨を説くべきです。この点に関して、『法律時報』2018年8月号に、棟居快行・専修大学教授が「優生保護法と憲法学者の自問」を書いておられました。

・・・ハンセン病(元)患者の隔離施設の問題は、長きにわたり日本国憲法下でも人権保障の光が及んでいない空間が存在してきたことを日本国民に知らしめた。すなわち、ようやく今世紀になっての2001(平成13)年5月11日、熊本地裁が立法国賠についての全否定的な判例・・・をかいくぐる画期的な判決を下し、時の小泉政権が同判決を受け入れて控訴を断念するという決断をしたことにより、世論の知るところとなったのである。遺憾にも、私を含む憲法学者の大半は、研究の相当部分を占めるその人権論にもっとも救済を必要とする人々への致命的な死角があることについて、ハンセン訴訟の新聞記事等に接するまで自覚していなかった・・・
・・・ハンセン病施設のような「塀の中」だけが、物理的心理的に不可視化されていたのではない。近時、かつての強制不妊手術に対する国賠訴訟の提起などで世間の耳目を集めるに到った旧優生保護法・・・についても、憲法学者が率先して問題提起をしたというわけではない・・・
・・・ちょうど憲法学においても90年代は、憲法第13条の「幸福追求権」の内実としての自己決定権が「人格的自律権」といった用語とともに脚光を浴び、そこには「産む自由、産まない自由」ないし「リプロダクションの権利」も含まれることなどがさかに論じられた時期であった。しかしながら、こうした理論的関心は基礎理論ないし比較法的関心に終わりがちであり、「各論」の一つという位置づけであれ優生保護法への取り組みは主流とはならなかった・・

・・・このような優生保護法の選別と集中の発想は、権力的手段によってでも日本国憲法の人権理念を浸透させることが近代立憲主義憲法学のつとめであると考えるところの、戦後憲法学の人権観にも通底する。優生保護法も日本国憲法も、極度に単純化していえば、いずれも「上からの近代化」の産物として同根なのである。
この節のタイトルの問い「なぜ見えなかったのか」の答えは、こうしてみると明らかである。日本国憲法自身が、生きとし生ける現実の弱き者ら、遺伝性の疾患が発病した者や障害者らをロールモデルとして、その輝ける人権規定を用意したのではない。近代憲法の一員として日本国憲法は、現実の存在とは区別された抽象的な人間像、換言すれば人権が帰属するにふさわしい適格性を備えた「強い個人」を想定する(少なくとも戦後憲法学はそう考えてきた)。憲法が保障する人権は、各人が権力に対峙し、政治過程のみならず司法審査の場でそれを駆使して戦い抜くことで、その実効性を高めてゆく。権利行使が覚束ないような自律的判断能力にもとる弱者は、そもそも人権行使の本来の主体ではなく、人権保障の反射的利益を享受するにとどまる受け身の存在にすぎない。このように周縁化された「弱い個人」は、もともと理想的な人権享有主体ではないのだから、医師の専門的判断と一定の手続保障との組み合わせを要件に、優生保護法によりリプロダクションの権利まで否定されてしまうとしても、それはやむをえない。自己決定権は自己決定能力を前提とするが、逆に当該能力を欠損する者については、自己決定権は認められない─。

このような怜悧な考え方をいとわない戦後憲法学にとっては、優生保護法の存在(日本国憲法とほぼ50年間にわたって共存してきた!)は、少なくとも人権保障の屋台骨を揺るがす事態ではない。人権保障はそもそも、公民として公共空間で政府批判の言論を繰り広げる「強い個人」のためのものだからである。かくして、優生保護法による弱者の蹂躙は憲法学の視界の外に追いやられたばかりか、憲法が予定する人間像とは異なるという直感の下に、「専門外」の異質な現象であるとして不可視化されてしまったのである・・・

重要な指摘です。法律学においても、欧米に学べば良いという時代は過ぎ、日本国内での問題に取り組むべきでしょう。70年以上改正がない憲法の解釈学をしていても、またそれを聞いている学生も、つまらないです。国内での具体事例を法律学から取り上げ、必要な法律改正・憲法改正を提起して欲しいです。

棟居先生のこの論考は、いつか紹介しなければと思いつつ、コピーしたままで眠っていました。ようやく、載せることができました。原文はもっと長いです。登録するとインターネットで読むことができます(それを知らずに、論考を複写し、コツコツと手で入力していました)。

憲法を機能させる

政治発言をしてはいけないのか」の続きです。私が危惧するのは、次のようなことです。
意見を戦わせることは結構なことです。しかし、「意見を言うな」というのは、民主主義の敵です。それは、憲法違反にもなります。その点では、インターネットでのいじめも、基本的人権の大きな侵害です。
そして、これらに憲法違反の行為対して、ジャーナリズムは取り上げていますが、社会も憲法学者も、おとなしすぎるのではないか、ということです。

法律違反を取り締まるのは警察の仕事ですが、その前に、これらの行為が重大なる基本的人権違反であることを社会として取り上げなければなりません。しかし、行政にはこれらに専門的に取り組んでいる役所がありません。
連載「公共を創る」で述べているように、明治以来の官庁は、公共サービスとインフラ整備、産業振興を主に取り組み、他方で逸脱者は警察の仕事でした。個人の生活、人と人との関係、暮らしのありようなどは、行政は直接には関与しませんでした。近代憲法の原則「私生活には、国家は入らない」を守ってきたとも言えます。しかし、そうも言っておられず、近年は子ども子育て、男女共同参画など、役所が組織を作って本格的に取り組んだ事例もあります。そのような所管組織が必要なのかもしれません。

ここには、私がしばしば言及している、官庁(行政)の欠点が見えます。
・供給側あるいは供給側支援の役所が多く、生活者である国民の側に立った役所が少ないこと。
・高校生が退学すると、次に相手にする役所は警察であって、その途中の役所がないこと。
この項続く

田中俊一先生、政治家と科学者の距離

8月20日の朝日新聞オピニオン欄、田中俊一・前原子力規制委員長のインタビュー「政治と科学 一にも二にも透明性」から。

―原子力規制委員会の組織理念には、第一に「独立した意思決定」が掲げられています。しかし実際には、政治から独立していなかったという批判もあります。
「十分に独立できていたし、今もしていると思いますよ」
―なぜそう言えるのですか。
「議論のプロセスを完全に透明にしたからですよ。すべての会議を完全にオープンでやった。日本の行政では画期的なことです」
「公開するのは勇気がいる。でも、専門的な議論とそれに基づく判断のプロセスを隠しても意味がない。完全にオープンになっていれば、むしろ後からいろいろ言われずにすみます。独立性を担保する一番の方法ですよ。そういう意味では、規制委員会は独立していたと思うし、判断が政治家に左右されることはなかった」

―新型コロナ対策では、安倍晋三首相の記者会見に専門家が同席しました。科学と政治の距離が近すぎるとは感じませんか。
「距離が近いこと自体は別にかまわないでしょう。専門家の判断が独立していることと、政治との距離は別の問題です。むしろ距離が近くないと話が通らない。テレビのワイドショーで評論しているだけの人たちと変わらなくなってしまう」
―しかし、政治との距離が近くなると、独立性を保ちにくくなりませんか。
「そんなことはない。新型コロナの専門家会議で問題があるとすれば、非公開でやって、議事録も作成しなかったことです。議論のプロセスが公開されていれば、政治との距離がどうだろうと、独立性は保てていたはずです」
この項続く