憲法を機能させる、その2

憲法を機能させる」の続きです。
もう一つ問題なのは、憲法学者です。基本的人権や民主主義の「講壇的議論」でなく、実際に起きている事件を取り上げ、憲法の趣旨を説くべきです。この点に関して、『法律時報』2018年8月号に、棟居快行・専修大学教授が「優生保護法と憲法学者の自問」を書いておられました。

・・・ハンセン病(元)患者の隔離施設の問題は、長きにわたり日本国憲法下でも人権保障の光が及んでいない空間が存在してきたことを日本国民に知らしめた。すなわち、ようやく今世紀になっての2001(平成13)年5月11日、熊本地裁が立法国賠についての全否定的な判例・・・をかいくぐる画期的な判決を下し、時の小泉政権が同判決を受け入れて控訴を断念するという決断をしたことにより、世論の知るところとなったのである。遺憾にも、私を含む憲法学者の大半は、研究の相当部分を占めるその人権論にもっとも救済を必要とする人々への致命的な死角があることについて、ハンセン訴訟の新聞記事等に接するまで自覚していなかった・・・
・・・ハンセン病施設のような「塀の中」だけが、物理的心理的に不可視化されていたのではない。近時、かつての強制不妊手術に対する国賠訴訟の提起などで世間の耳目を集めるに到った旧優生保護法・・・についても、憲法学者が率先して問題提起をしたというわけではない・・・
・・・ちょうど憲法学においても90年代は、憲法第13条の「幸福追求権」の内実としての自己決定権が「人格的自律権」といった用語とともに脚光を浴び、そこには「産む自由、産まない自由」ないし「リプロダクションの権利」も含まれることなどがさかに論じられた時期であった。しかしながら、こうした理論的関心は基礎理論ないし比較法的関心に終わりがちであり、「各論」の一つという位置づけであれ優生保護法への取り組みは主流とはならなかった・・

・・・このような優生保護法の選別と集中の発想は、権力的手段によってでも日本国憲法の人権理念を浸透させることが近代立憲主義憲法学のつとめであると考えるところの、戦後憲法学の人権観にも通底する。優生保護法も日本国憲法も、極度に単純化していえば、いずれも「上からの近代化」の産物として同根なのである。
この節のタイトルの問い「なぜ見えなかったのか」の答えは、こうしてみると明らかである。日本国憲法自身が、生きとし生ける現実の弱き者ら、遺伝性の疾患が発病した者や障害者らをロールモデルとして、その輝ける人権規定を用意したのではない。近代憲法の一員として日本国憲法は、現実の存在とは区別された抽象的な人間像、換言すれば人権が帰属するにふさわしい適格性を備えた「強い個人」を想定する(少なくとも戦後憲法学はそう考えてきた)。憲法が保障する人権は、各人が権力に対峙し、政治過程のみならず司法審査の場でそれを駆使して戦い抜くことで、その実効性を高めてゆく。権利行使が覚束ないような自律的判断能力にもとる弱者は、そもそも人権行使の本来の主体ではなく、人権保障の反射的利益を享受するにとどまる受け身の存在にすぎない。このように周縁化された「弱い個人」は、もともと理想的な人権享有主体ではないのだから、医師の専門的判断と一定の手続保障との組み合わせを要件に、優生保護法によりリプロダクションの権利まで否定されてしまうとしても、それはやむをえない。自己決定権は自己決定能力を前提とするが、逆に当該能力を欠損する者については、自己決定権は認められない─。

このような怜悧な考え方をいとわない戦後憲法学にとっては、優生保護法の存在(日本国憲法とほぼ50年間にわたって共存してきた!)は、少なくとも人権保障の屋台骨を揺るがす事態ではない。人権保障はそもそも、公民として公共空間で政府批判の言論を繰り広げる「強い個人」のためのものだからである。かくして、優生保護法による弱者の蹂躙は憲法学の視界の外に追いやられたばかりか、憲法が予定する人間像とは異なるという直感の下に、「専門外」の異質な現象であるとして不可視化されてしまったのである・・・

重要な指摘です。法律学においても、欧米に学べば良いという時代は過ぎ、日本国内での問題に取り組むべきでしょう。70年以上改正がない憲法の解釈学をしていても、またそれを聞いている学生も、つまらないです。国内での具体事例を法律学から取り上げ、必要な法律改正・憲法改正を提起して欲しいです。

棟居先生のこの論考は、いつか紹介しなければと思いつつ、コピーしたままで眠っていました。ようやく、載せることができました。原文はもっと長いです。登録するとインターネットで読むことができます(それを知らずに、論考を複写し、コツコツと手で入力していました)。