カテゴリー別アーカイブ: 政治の役割

行政-政治の役割

政治家の出身階層

6月11日の日経新聞オピニオン欄に、小竹洋之・コメンテーターの「米国政治を覆う「カネの津波」」が載っていました。

・・・格差大国の米国では、上位1%の富裕層が所得の21%、純資産の35%を握る。もちろん政界にも、恵まれた人たちが多い。
米金融情報サイト「24/7ウォールストリート」が歴代大統領45人の純資産(ピーク時)を2023年の価値で推計したところ、100万ドル(約1億6千万円)以上のミリオネアが8割の36人にのぼった。トランプ前大統領は首位の37億ドル、バイデン現大統領は27位の900万ドルである・・・

世界比較も載っています。
・・・経済協力開発機構(OECD)加盟37カ国の下院議員(一院制を含む)をカーンズ氏らが調べたところ、日本のブルーカラー出身者の割合は4番目に高かった・・・
アメリカとフランスが2%程度、イギリス、イタリア、ドイツが5~6%程度で、日本は12%です。

大学と現実政治

6月3日の日経新聞教育欄、佐藤仁・東京大教授 コロンビア大気候大学院客員教授の「米コロンビア大学と反戦デモ 教養教育が培う現実感覚」から。日本の大学では、現実政治に触れることを避け、教育でも欧米の過去の政治を教えることが多いのです。

・・・2024年1月にコロンビア大学で客員教授として教え始めたときに、驚いたことが2つあった。一つは教授会の議題に「困難な対話」という見出しでパレスチナ問題について学生とどう対話すべきかが含まれていたこと。時事的な論争とは半ば無縁の東京大学の教授会とは大きく違っていた。ふたつ目はガザで殺された大学教授や芸術家などの名簿が教室の廊下に張りだされていたことだ。
コロンビア大は1960年代のベトナム戦争のとき以来、繰り返し学生デモの象徴的な拠点になってきた。それらのデモが、タバコ産業や化石燃料、民営刑務所などの分野からの大学の投資の引き揚げなど、大学から具体的な譲歩を引き出していた。
今年4月中旬以降、コロンビア大の反戦運動は多くの逮捕者を出すほど過激さを増した。学生たちは、イスラエルへの投資の引き揚げ、特に軍需産業とかかわりのある企業との決別を大学に求めた・・・

・・・興味深いのは、コロンビア大が、コア・カリキュラムと呼ばれる全米で最も保守的な教養教育を維持してきた大学であることだ。それは、アリストテレスの「ニコマコス倫理学」やマキアベリの「君主論」といった西欧の歴史、哲学、文学から選び抜かれた古典を、すべての学生に読ませる教学体系である。
西欧中心主義への批判にさらされながらも、100年以上続いてきたこのシステムの運営責任者は、学生の反戦デモを支えてきたジョセフ・ハウリー准教授である。パレスチナ支援を訴える彼は、古代ローマ史を専門とするユダヤ教徒でもある。
コア科目の一つ「現代文明論」は、「現代の未解決課題に対峙できる学生を育てること」を目的とする。20人以下の少人数でコーランや聖書から、マハトマ・ガンジー、ミシェル・フーコーといった思想家のテキストを様々な分野の教員が担当して議論する。
学生に現代世界をつくり出した議論の幅に触れさせ、自分とは異なる意見を理解する力を養うと同時に、自分自身のアイデアを更新する機会を提供する。ものごとを白黒のいずれかで判定するのではなく、自分と他者の間に広がる立場の幅の中に解を見つける想像力を鍛えるのである。

実は多くのデモが平和裏に行われたことを忘れてはならないし、教養教育は社会運動のためにあるわけではない。
しかし、保守的なカリキュラムを誇るコロンビア大が鋭い現実感覚をもった構成員による社会運動の拠点になってきたことは、大学が知の生産拠点である以上に、社会変革の拠点にもなりうることを示している。古典を過去の遺物としてではなく、生きた知識として教える伝統が、学生たちに正義感と現実感覚を醸成してきたのではないか・・・

政策の検証

「公的な私文書」の続きです。連載「公的な私文書を生かす」の最終回6月1日の「歴史を糧に、未来へのよりどころに 公文書館、外交史料館が担う重責の記事」に、遠藤乾・東京大学大学院法学政治学研究科教授が意見を書いておられました。

・・・一般に政治家や官僚は、3重の検証をくぐる。かつて英国に3年滞在した際、最も羨ましかったのは、その3重の検証がきちんと作動していたことだ。
第1は、批判ジャーナリズムである。これは、現場から現状と問題点を同時代的に伝える。ときに画一的な報道に陥る米国に比べて、英国の水準は高い。
第2は、半年から数年内に行われる政策検証である。例えばユーゴ紛争の1年後、オックスフォード大学では点検セミナーを開いていた。時の外相、NATO司令官、EUや国連の行政官、NGO活動家などを連続招聘し、問題点を洗い出す。自由闊達な議論は、呼ばれた実務家が嘘をつかず、その発言を研究者が引用しないというルールで可能になっていた。
しんがりを務める第3は、歴史家による検証である。これは最終的な審判といってもよい。英国をはじめ欧米諸国には、政策決定の過程を公文書の形で残し、ほぼ30年の時を経て公開する仕組みが整っている。日本でも、福田康夫元首相が主導し、公文書管理法ができた。

戦後の日本では、ながらく思想(史)系の知識人が時代を括り意味づけてきた。欧州では、歴史家の比重が高い。公文書がひも解かれ、そこから出てくる歴史解釈でようやく、政治家や行政官の評価が定まってゆく。だから歴史論争はいつも激しく戦われ、自然と実務家は歴史の審判を意識する。
日本の政治家や官僚は、この歴史の審判をこそ、意識すべきだ。その場限りでなく、後世に照らし恥ずかしくない行政や外交を展開しているか。その方向に向かうために公文書関連の法律ができた。しかし、法律になることと、それがきちんと整備され、さらにそれを後づけではあれ気にする文化が根付くことのあいだには距離がある。今後、かなりの年月と各方面の努力を要するだろう・・・

この3つの検証は、わかりやすいです。政治家も幹部官僚も、これを意識しながら判断をする必要があります。日本でも、第2の検証がでできませんかね。
私は、「閻魔様の前で申し開きができるか」を行動の指針としていました。

公的な私文書

朝日新聞夕刊連載「現場へ」、6月17日から21日は、藤田直央・編集委員による「「公的な私文書」を生かす」でした。
・・・遺品を片づけていると、段ボール箱に文書がどっさり。とりわけ首相経験者や側近の遺族には悩ましい問題だ。戦後を見つめ直す上で第一級の史料があるかもしれないが、どう扱えばいいのか。
政府の文書ではない、そんな文書を私は「公的な私文書」と呼び、中身を報じてきた・・・

詳しくは連載記事を読んでいただくとして。政治家の日記などは、誰と会っていたのか、どのような話をしていたのか、どのような情報源からどのような情報を得ていたか、どのように判断したのかなど、政治と行政に関わる記録が残っているでしょう。それは、研究者にとっては重要な資料になります。
ところが残った日記や残した資料は、そのままでは扱いに困ります。私生活に関わることなど公務に関係ないことも書かれているでしょう。そして思い違いや、自分に都合のよいことだけが書かれていることもあるでしょう。そのままでは、公文書としては扱えないのです。「公的な私文書」なのか「私的な公文書」なのでしょうか。
保管するとしても、国立公文書館も困るでしょうね。公開するとしても、どのようにするのか。課題はたくさんあるようです。

かつてコメントライナーに、公文書と行政文書との違いを、「「行政文書」は正確か」で書きました。でも、この2つは、行政機関が扱った文書です。個人の私的な記録とは異なります。それをも勘案すると、大まかには次のように分類できるのではないでしょうか。そして、それぞれに扱いを変える必要があります。
「かつての公文書」=役所において決裁を受けて正確性が担保されている文書
「行政文書」=行政関係の文書であるが、中には職員のメモなどもあり、すべてが正確とは言えない
「公的な私文書」=行政に関することも含まれているが、個人が保管している文書。私生活に関すことなど、行政に関係しない内容や不確かな内容も含まれている。どの範囲内を対象とするかも不明。

政府が打ち出すたくさんの経済再生構想

6月17日の日経新聞経済教室は、オックスフォード大学のヒュー・ウィッタカー教授の「日本経済復活の条件 ひしめく構想、相互補完カギ」でした。

・・・Society(ソサエティー)5.0、デジタルトランスフォーメーション(DX)、グリーントランスフォーメーション(GX)から「サステイナブルな資本主義」「新しい資本主義」「デジタル田園都市国家構想」に至るまで、2015年以降、日本経済の再構築を目指す複数のイニシアチブ(構想)が散見される。
しかし私たちはそれらをどのように理解すればいいのか。単に日本が「失われた30年」から脱出しようとする叫びなのか。それとも日本を新たな道に導き、新しい何かを生み出し始めているのか。さらには2030年代という目標地点までに、首尾一貫した新しい経済モデルを生み出す可能性が日本にあるのだろうか・・・

こんなにいろいろ打ち出していたのですね。私も聞いたことがあるような・・・。国民、経済界の人たちは、どの程度理解しているのでしょうか。