カテゴリー別アーカイブ: 政と官

行政-政と官

審議会政治の終焉

26日の読売新聞「論点」では、森田朗東大公共政策大学院長が「中教審の採決、審議会政治終焉の足音」を書いておられました。
「多くの審議会はこれまで、委員選任も答申案作成も所管省庁が行うため、各省や利益団体の『隠れ蓑』といわれてきたが、専門的審議の場、利害調整の場として、一定の政治的機能を果たしてきたことは間違いない・・・」「だが、少数意見が強硬に妥協を拒む場合や、今回の中教審の決定に見られたように、多数意見の『ごり押し』が起こる場合には、主張の強固さが示されるより答申そのものの権威が失墜し、審議会が果たしてきた重要な機能が失われることになる」
「こうした事態が生じるようになった原因には、財政危機や構造改革の進行によって関係者間の対立が激化し、これまで可能であった妥協や合意が困難になってきたという事情があろう。その結果、深刻な利害対立を含む課題については、従来の調整システムは機能しなくなり、・・・最終的には首相の決断という政治の場に、解決が持ち込まれるようになった。」
「今日の政治環境の変化をみる限り、審議会の変容は今後も続き、やがて『審議会政治』は終焉に向かうことになろう」
ここでも、審議会政治がこれまでの「官僚による政治」「右肩上がりの時代の政治」であることが指摘されています。会一致は、自民党総務会でもそうであったように、右肩上がりの時代の政治、責任を先送りする政治だったのです。

国民を誤らせる予測

27日の読売新聞「急げ年金改革」(中)「甘い予測、広がる不信」に、これまでの政府による出生率予測の表が載っていました。1976年推計以来6回の推計が、いかに大きく外れたかが一目瞭然でした。ご承知のように実績は急激に低下し続けているのに、予測はいずれもV字型に回復するとしているのです。予測というより、願望ととれます。そして、毎回、大きく外れるのです。結果を見ると、かなり、とほほ・・な予測です。これでは、国民は政府や官僚を信用しなくなるでしょう。

公務員削減は政治家の仕事

21日の経済財政諮問会議議事要旨が出ました。民間委員の提言(農林統計、食糧管理、北海道開発の削減)を受けて、麻生大臣の発言があります(4ページ目)。
「まず、全体として個別の部門別に削減しようという取組は正しい。大前提としてそう思う。シーリングだけで決めるのは限界があり、不要な部分が残るので、このやり方は正しい。
次に、より大きな分野での見直しが、行われなければならない。その原則は、基本的には不要になった事務、あるいは力の入れ方を減らす事務とか、公共事業、産業振興、補助金の配分といったところだと思う。併せて、全体の約7割を占めているのは地方の出先機関なので、これに重点を当てなければいけないが、ぜひここは腹を決めておかなければいけない。これは役人では無理である。政治家で決める以外に手がないから、重点的削減というのは政治家が覚悟を決める。この度胸だけ決めていただかないと話にならない。これだけは最初に申し上げておきたい。」
官僚としては残念ですが、大臣の言うとおりですね。これまではシーリングでやってきました。官僚にはそれしかできまんでしたまた、政治家と言えば「族議員」で、各分野の定員を増やす応援団だったのですが。これからは、予算やその他の分野と同様、痛みを引き受けるのが政治家の仕事になりました。そのとき官僚は、何をするのでしょうか。

審議会政治、審議会の政治学

森田朗先生が、「会議の政治学」(慈学社出版)を出版されました。「重要な政策決定や利害調整が行われている審議会等の会議で、どのように議論が闘わされ、決定が行われているか」、委員や座長を務められた経験から書かれたものです。索引には、裏方、脅し、落としどころ、顔が立つ、ガス抜き、観測気球、ご説明、P、リーク、などなど興味深い専門用語、日本の行政を知る上で必須の業界用語(?)が並んでいます。
官僚である裏方には「常識」のことで、一般社会では「非常識」な審議会の運営が、解剖されています。いかにムダで非効率なことが行われているか。霞ヶ関勤務の記者の方には、必読の文献でしょう(笑い、失礼)。
審議会は第三者に政策決定を委ねることで、多くの場合政治主導とは対極にあります。省庁改革の時もテーマの一つになりました。小生の担当の一つでした。その時の考えは「中央省庁改革における審議会の整理」月刊『自治研究』(良書普及会)2001年2月号、7月号に書いてあります。ご参考までに。

教育改革

9日の朝日新聞「きょうの論点」は、「教育バウチャー制度の是非」で、ワタミ社長の渡邉美樹さんと志水宏吉阪大教授が意見を述べておられました。私は、バウチャー制度導入論者です。
反対論者である志水教授は、「公立学校では均質な教育が受けることができるが、学校選択制でも学校間の格差を生んでいる。バウチャーを導入すれば格差がどんどん広がる」と主張しておられます。それは裏返せば、公立学校では低いレベルで、均質な教育を行っているということでしょう。
もう一つ、私立学校の存在と、既に都会では学校選択が進んでいるという事実、そして多くの子供が塾に行っているという事実を無視しておられます。ちょっとした金持ちで教育に熱心な家庭は、子供を私学に通わせています。そして、私学は公金投入が少ないため、父兄の負担が大きいのです。塾も同じです。それは、金持ちの子供が良い教育を受けることができるという、格差の固定化を生んでいます。
三位一体改革で義務教育国庫負担金(といっても、公立学校教員国庫負担制度です)が議論になっていたとき、もう3年ほど前になるでしょうか。文科省担当の記者が「文科省職員子弟の通っている学校アンケート」を取ろうとして拒否されたことが、新聞に載ったことがあります。匿名なら個人情報に当たらないのにと、思ったのですが。