カテゴリー別アーカイブ: 連載「公共を創る」

連載「公共を創る」第130回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第130回「求められる「構造的な改革」」が、発行されました。

現在の日本社会の不安は、経済成長を達成した後の停滞と、成熟社会がもたらす孤独から成っていると考えられます。それらを乗り越えるためには、これまでの政策手法や行政活動の単なる延長では対応できません。社会の在り方や国民の通念を変えていく必要があり、それは日本社会にとって明治維新と戦後改革に次ぐ第三の改革、第三の開国であると主張しました。
第一の改革である明治維新では、身分制が廃止され、職業選択の自由が認められました。第二の改革である戦後改革では、基本的人権の尊重や国民主権が定められました。いずれも「この国のかたち」を大きく変更するものでした。今回はそれらとは違った次元での、「この国のかたち」の変更が求められています。
変えなければならないのは、憲法や法律ではなく、慣習や社会の仕組みであり、それは「日本独自の」と呼ばれ、これまでの日本の発展と安心を支えてきたものでもあるのです。そこに、第三の改革の難しさがあります。

第三の改革が進まないことについては、官僚の責任もあるのですが、政治分野の指導者や有識者の怠慢も指摘することができるでしょう。危機感と構想力の欠如です。改革の必要性は多くの人が主張しますが、実を結んでいません。バブル経済崩壊からは30年、21世紀に入って既に20年を経ても、なお経済は停滞したままで社会の不安も払拭されていません。
新自由主義的改革と言える1980年代の「中曽根行革」、中央省庁改革と地方分権改革を成し遂げた90年代の「橋本行革」以降も、政治家や有識者、報道機関はこぞって「改革」を主張しました。しかし、わが国が抱える基本的問題について、個別改革の羅列でない、構造的な改革案は提示されていないように思います。
行政改革や規制改革、企業の経営や現場でのさまざまな改革も必要ですが、それらだけでは社会の活力と安心は戻らないでしょう。より深層にまで及ぶ社会と意識の「構造的な改革」が必要なのです。状況に大きな改善が見られないのは、それを提示できていない有識者や政治指導者層の失敗でもあります。

これで「社会と政府」をめぐる議論のうち、「政府の社会への介入」を終えます。8月29日に書いたように、構成を少々変更します。次回から、政府による社会への介入方法について考えていきます。

連載「公共を創る」第129回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第129回「日本における政治・社会参加の現状考察」が、発行されました。

現在の社会における不安を減らすため、社会参加や他者とのつながりをつくることの重要性について述べています。前回は個人にとってのつながりの重要性を説明しました。今回は、社会の側から見た、各構成員と他者とのつながりの重要性を考えます。
この連載では、暮らしやすい社会を考える際、「社会の財産」を分類して、自然資本(自然環境)、施設資本(インフラ)、制度資本(サービス)のほかに、関係資本(人の信頼やつながり)、文化資本(住民が持つ能力や気風)の重要性を指摘しています。他者との信頼関係、さまざまな中間集団、助け合いといった地域の慣習、政治を支える精神など、関係資本と文化資本は他の資本と違って目には見えませんが、その存在は安心して暮らすために重要な要素です。そして、施設資本や制度資本が行政や企業によってつくられる「もの」であるのに対し、それらは住民の日々の行動と意識の中でつくられる「関係」であり、維持される「場」であると言えます。

「みんなちがって、みんないい」という言葉をよく耳にします。人それぞれに考え方が違います。それはお互いに認め合う必要があります。しかし「だから別々に暮らしましょう」では、社会での共同生活は成り立ちません。違いを前提とした上での、共同作業が必要なのです。「私の勝手でしょ」が成り立たない部分があることを認識し合い、社会参加していくことが必要なのです。言い換えるとするなら、「みんな違って、みんなで助け合って、みんないい」でしょうか。

他者とのつながりをつくること、社会参加することは、各人にとって負担にもなります。社会関係資本も民主主義も、一度つくればできあがる制度でなく、常に努力し続けなければならない運用なのです。

連載「公共を創る」第128回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第128回「政治・社会参加で「つながり」を得る」が、発行されました。
社会の不安をどのようにしたら解消できるのか、私たちと行政は何をしたらよいのかを考えています。政治参加と社会参加の重要性を述べてきました。今回は、その背景と理由について説明します。

これからの行政を考え、安心社会をつくるという議論の中で、なぜ社会参加を考えなければならないのでしょうか。
それは、成熟国家になった日本で国民が抱えている不安は、これまでの政府活動の延長では解決できないからです。すなわち、国民の不安である格差と孤立を生んでいるのは、行政サービスの不足ではなく、社会の在り方、私たちの暮らし方、通念だと考えるからです。そして、この課題を解くカギが社会参加ではないかと考えています。

かつての日本社会の仕組みや国民の通念は、農村社会や発展途上時代には適合し、成功を導きました。しかし成熟社会になってからは、私たちの暮らし方とずれが生じ、それが種々の問題を生んでいるように見えます。
かつての「ムラ社会」では、人々は家族、親族、地域、職場といった場所でいや応なしにこの線に絡め取られました。ところが法制や社会の変化、経済成長のおかげで、これらの束縛から解放され、自由に生きることができるようになりました。しかし「つながりはなければ良い」というものではなかったのです。自由になった個人は改めて他者とのつながりをつくり、「ムラ社会での安心」から「他者と共存する信頼づくり」へ、「与えられた付き合い」から「自分でつくる付き合い」へ変えていかなければならないのです。

連載「公共を創る」執筆状況

恒例の、連載原稿執筆状況報告です。
第130回(9月29日掲載予定)の原稿を書き上げ、右筆にズタズタにされて、編集長に提出しました。これで、8月締めきり分の原稿を、遅れずに提出することができました。問題は、その先です。

第4章「政府の役割再考」2「社会と政府」は当初、(1)「社会を支える民間」、(2)「政府の社会への介入」、(3)「政府の役割の再定義」で構成して、その次に3「近代憲法構造の次に」で締めようと考えていました。
ところが、(2)「政府の社会への介入」が思いのほか長くなったので、いったん切ることにしました。そして(2)の後半に予定していた内容を、(3)「社会をよくする手法」と独立させることにしました。

で、次の原稿は、その中の構成を考えなければなりません。いくつか素材は集めてあるのですが、それらを並び替えるとともに、全体を調整しなければなりません。これは結構大仕事で、重要なのです。先日から着手しているのですが、他の原稿も抱えていて、進みません。

また、その後の構成を、3「政府の役割の再定義」、4「社会は創るもの」に変更することにしました。まあ、書いて行くうちに変わることもありますが。

連載「公共を創る」第127回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第127回「政治・社会参加の重要性」が、発行されました。
前回に引き続き、税金に関心を持ってもらう話を続けます。イタリアでは個人所得税の千分の8を宗教団体に、5を非営利団体に、2を政党などに納めることができます。スウェーデンでは、毎年の年金納付額が所得の一定割合に固定され、それが積み重なって本人の年金受給権が増えていくことを確認できます。

なぜ、このような政治参加や社会参加、そしてその国民の意識を議論するのか。それは、現在の日本社会の不安は、社会の仕組みと国民の暮らし方や意識によって生じているからです。そして、政府、行政による公共サービス提供では、解決しないのです。

ところで、政治学と行政学は政府の役割について、経済学と財政学は市場の役割と政府の関与について大きな蓄積があるのですが、社会については、社会学が分析はするのですが、どのように改善すべきか、政府や私たちはどのように変えるべきかの議論はあまりしません。
社会学は、哲学のような深遠な議論をするものから、格差や孤独なの身近にある具体問題を扱うものまで、様々なものを含んでいます。その全体像を系統的・分類的に示すことは難しいでしょう。私が期待するのは、社会学のうち「実用の学」と思われるものを集めて、分類し、それらを全体的に議論することです。政治学、経済学(の一部)が「実用の学」であると同様に、社会学にもそれを期待したいのです。「公共社会学」という学問分野の考え方もあるようです。それが発展することを期待します。