カテゴリー別アーカイブ: 歴史

細谷雄一先生、歴史認識とは何か、2

細谷雄一著『戦後史の解放Ⅰ 歴史認識とは何か』p36。
・・・日本の歴史教育における問題点は、歴史理論を学ばないということである。つまりは、広範な資料に基づいて、徹底的に研究を深めていけば、普遍的に受け入れ可能な「歴史的事実」にたどり着けるというナイーブな歴史認識が広く見られ、またそのような「歴史事実」は他国の国民とも共有可能であるという楽観的な想定がある。そのような想定こそが、これまで日本が他国との間で歴史認識問題をこじらせていった一つの原因ではないだろうか。そもそも、歴史学といっても、各国によって教育を通じて教えられるナショナル・ヒストリーは異なり、また時代によっても歴史理論の潮流は大きく変化している・・・
として、有名なカーの『歴史とは何か』を引用しています。続きは、原文をお読みください。

大学生の頃、「自然科学には唯一の正解がある(実はそうでない場合もあるらしいのですが)が、社会科学では唯一の正解はない、人によって解釈が違う」ということを教わって、目から鱗が落ちたことを思い出します。よって、自然科学では、問題を解く場合は正解を求めることです。しかし社会科学では、多くの人が納得する答を見いだすこと、納得しない人がいるときにはどのように折り合いを付けるかが、問題の解決です。
日中韓に歴史認識の違いがあることを、この数年、日本国民は学習しました。「話せばわかる」「研究すれば同じ答えにたどりつく」とは限らず、「話し合ってもわかりあえない」「研究しても同じ答にたどりつかない」こともあるのです。認識の違いを超えて、ドイツとフランスが和解して、発展のために折り合いを付けていると同じように、日中韓の間で認識の違いを認めつつ、どのように折り合いを付けるか。近年の日本政府は、「戦略的互恵関係」という表現を使っていました。

戦後70年、日本の転換点

朝日新聞オピニオン欄が「戦後70年、日本の転換点は?」を特集しています。8月2日は、読者が選んだ転換点のアンケート結果が載っていました。1940年代や50年代という回答もありましたが、これは戦後改革と位置づけるとして、その後の半世紀近くをどこで区切るか。それはまた、戦後日本と現在の日本を、どのように評価するかという「価値判断」の反映となります。
20年近く前(1990年代後半、仮に1995年としましょう)に、宮沢内閣の大臣秘書官同窓会で議論になりました。総理秘書官のT先輩が、「それは60年安保だ」とおっしゃったので、私は「それは古すぎまっせ」と反論したことを覚えています。その時点で、戦後50年でした。1960年で区切ると、前半15年で後半35年になります。私は、「高度成長が終わったオイルショック(1973年)ではないですか」と申し上げました。これだと、前半が28年で、後半が22年でした。さて、その議論をしてから、さらに20年が経ちました。
2003年に書いた『新地方自治入門』でも、その考え方に立って、戦後日本社会と、日本政治、そして地方行政を評価しました。紹介文に、次のように書いています。
・・・私は、戦後の日本の地方自治体は、ナショナル・ミニマムと社会資本整備という課題を、実に良く達成したと考えています。日本の経済成長の成果の上に、行政機構や地方財政制度がうまく機能したからです・・・
・・・これまでの課題がほぼ達成された今、地方行政は次なる目標を探しあぐねています。また、現在の地域の課題に必ずしも的確に答えていないと思います。
地方行政そして日本の政治は、目標を転換するべき時がきています。それはまた、日本経済・日本社会・日本人の思考の転換でもあります・・・
経済成長の軌跡も、その観点から、区分しました。しかし、このような区分も、経済偏重になっているのかもしれません。繰り返しになりますが、どこで区切るかは、何を指標に区切るかが鍵であり、それは現在の日本社会をどのように位置づけるかによります。これまでの延長線上にあるのか、変えなければならないのか。変えるとしたら、何が課題か、です。
私のこれまでの考えでは、戦後日本の課題は経済成長であり、それを達成した1970年(大阪万博)、あるいはその延長でバブル崩壊の1991年までが前半です。そして、次なる目標を定めかねているのが、後半です。70年間を「戦後日本」と規定するのは、政治家や歴史家、そして私たちの怠慢でしょう。しかし、次なる目標を決めかねている、現在の日本社会を測る物差しを決めかねていることが、区切りを決められない原因です。

歴史学は面白い、2

川北稔著『私と西洋史研究』の続きです。
谷川稔著『十字架と三色旗―近代フランスにおける政教分離』(2015年、岩波現代文庫)が、宗教と社会との関係や社会と政治との関係について、勉強になります。
フランス革命以前のフランスでは、キリスト教(カトリック)が国教でした。生まれた際の登録、結婚の認定、死と葬儀も教会が担当していました。教育もです。宗教と言うより、習俗であり、行政機構であり、住民統合の機関です。それを、フランス革命が否定します。まずは聖職者を公務員とし、次に聖職を放棄させます。教会は閉鎖され、キリスト教に代わる新しい「理性の祭典」や学校教育・社会教育が作られます。壮大な文化革命です。その後、王政復古などを経て、キリスト教は復活しますが、もはや国教に戻ることはありませんでした。しかし、19世紀末から20世紀初めにかけて、教育現場を中心に、宗教色を排除するために、政府の介入とそれに対する抵抗など、大きなエネルギーが注がれます。このあたりの実情は、ぜひこの本をお読みください。各村々では、大変なできごとだったと思います。
それらを経て、現在の政教分離=ライシテが成立します。三色旗(フランス国家)と十字架(キリスト教)との共存に、折り合いを付けるのです。ところが現代では、マグレブや中東からの移民がイスラム教の習俗を持ち込むことについて、対立が生じています。女性がかぶるベール(ヘジャブ)を、学校に着用してよいかどうかです。今度は、三色旗と三日月(イスラム)との衝突です。
「政教分離」とは、近代民主主義憲法が保障する原理の一つですが、国と社会によって成り立ちが異なります。先進諸国では、フランスが最も厳格でしょう。イギリスでは女王が国教会の首長であり、アメリカでは大統領が聖書に手を置いて宣誓します。日本では、戦前の国教であった神道からの分離が問題でした。これまた、かつてはそして民衆の生活現場では、習俗でした。そして、靖国神社の問題があります。
宗教と政治、そのような習俗と政治をどのように折り合いを付けるか。教科書に、唯一の正しい回答は書いてありません。それぞれの国が、解決する=どのように折り合いを付けるかを決めていくしかないのです。この過程が、日本の民主主義に必要です。先進諸国を教科書にしても、書いていないこと。それを、日本国民がどのように解決していくかです。

歴史学は面白い

川北稔著『私と西洋史研究』の続きです(歴史は書き換えられるもの。2015年6月26日)。
私は、新しい遺物や古文書が発見されて、新しい学説がでて、歴史の見直しが行われるのだと、思っていました。そして、西欧史なら西欧で古文書が出てこない限り、日本で研究していても新説は出てきそうにもありません。ところが、古文書を新しく読み解くという行為は必要ですが、新しい文書が発見されなくても、歴史は書き換えられるのです。「学説は数十年で書き換えられるもの」という発言は、衝撃的でした。
他方で、極めて単純にすると、戦後日本での西洋史研究は、大塚史学を脱皮すること、そして西欧でも変化しつつあった「政治の歴史から社会の歴史への転換」であったのでしょう。
歴史学が変化していること、その意味については、このホームページでも、近藤和彦・東大名誉教授を紹介したことがあります。「歴史学って、こんなに変化しているのだ、面白いんだ」と、感激しました。そこで、川北先生の本や福井憲彦著『歴史学入門』(2006年、岩波テキストブック)を読み、E・H・カーの『歴史とは何か』(邦訳1962年、岩波新書)を再読しました。
『歴史学入門』には、次のような目次が並んでいます。もう、英雄と戦争の歴史ではないですね。
1 歴史への問い/歴史からの問い
6 グローバルな歴史の捉え方
7 身体と病と「生死観」
9 人と人とを結ぶもの
11 政治と文化の再考

もっと詳しく紹介すればよいのですが、ご関心ある方は、それぞれの本に当たってください。
ちなみに、近藤先生の本を読んだ感想を、私は「政治の役割」に分類しました。「覇権国家イギリスを作った仕組み」(2014年7月27日~)。私には、社会統合など社会の課題を、どのようにイギリスが解決していったか、それが勉強になったのです。
ところで、近藤先生のホームページ「オフィスにて」2014年8月29日は、「全勝さんのページ」です。次のように書いてくださっています。
・・・岡本全勝という方がホームページを持っていらして、じつに精力的に発言なさっています(ということに、ようやく最近に気付きました)。政治と行政のど真ん中で発言なさっているエリート官僚のお一人でしょうか。大学でも教えておられるようです。
その全勝さんが、なんと『イギリス史10講』について、全9回の連載でコメントをくださいました。こういう「公共精神の立場から国家百年の計を考え行動」なさっている「経国済民の士」(p.206)の目に止まったというのは嬉しいことです。その論評は、わが業界の若い院生や研究者とは異なるレヴェルで、実際的にしかも知的に行われていて、これも有り難いことです・・
私も、気づくのが遅くて、申し訳ありません。

通史が書けない

川北稔著『私と西洋史研究』の続きです。
「岩波講座世界歴史」(全31巻、1969~1974年。これは私も買いました。高校生でした)が出た後、「世界史への問い」(全10巻、岩波書店、1989~1991年)がトピックス別の編集になります。「岩波講座世界歴史」(全29巻、1997~2000年)も、通史では書けなかったそうです。
・・・なぜ通史でできないかというと、歴史家のやっていることがみんなトピックスになってしまって、まとまりようがないという、そこに尽きると思います。先ほども少し言いましたが、時代区分とかというようなことが飛んでしまっている。時代区分ができないということは、ストーリーとして流れないということです。歴史が分断・分解されてしまって、一つのまとまりとして理解できなくなる・・・何かのトピックスについて、こういう状況でここが変わりましたという表面的な説明はできるんでしょうが、世の中全体がこういうふうに変わったから、こう変わったというふうには説明されない。世の中全体がこう変わったんだという説明をしようとすると、なんでそうなったのかを言わなければならなくなるから、みんなそこに触れないようになっているのです・・・(p199)。
私が、1995年に、当時の自治省財政局の補佐たちと「分権時代の地方財政運営講座」(全7巻、ぎょうせい)を編集した際に、岩波の「日本通史」を参考に、テーマ別の論説方式をとったことを思い出しました。私が担当したのは、第1巻『地方財政の発展と新たな展開』です。編集代表には、湯浅利夫・財政局長の名前を借りました。このシリーズは歴史書ではありませんが、戦後50年が経過し、地方行財政が一定の到達点に達したこと、そして新たな展開を求められているという問題意識から、各補佐にテーマごとに掘り下げてもらおうと企画したものでした。