演歌から見た日本社会論

5月21日の朝日新聞オピニオン欄「演歌は日本の心、か」は勉強になりました。
スージー鈴木さん(音楽評論家)
・・・演歌が日本の大衆音楽における伝統だと言えば言えないこともないでしょう。ただし明治以降の「伝統」です。
明治維新後の日本に西洋音楽が入ってきました。長調ならドレミファソラシの7音音階、半音も入れて12音音階。この音階は、当時の日本人には複雑でした。
そこで第4音のファ、7音のシ(短調ならレとソ)を使わない5音音階、いわゆる「47(ヨナ)抜き」がつくられます。これは西洋音楽の日本的解釈、いわば土着化で、西洋の音階に慣れない日本人にとって実に歌いやすい。ある研究によると、1928年から45年までの流行歌は約75%が47抜き音階だそうです・・・
・・・60年代、ビートルズが登場、日本の大衆音楽に絶大な影響を与えます。ビートルズの落とし子とも言えるグループサウンズ(GS)が、7音音階をフルに使う、あか抜けた曲で、若い人たちの間で大人気となります。でも5音音階に慣れ親しんだ人たちはついて行けない。「洋風」のGSに対抗するための論理が、復古派による「演歌は日本人の心」という説です。ぴんからトリオや殿さまキングスの「ド演歌」が復古派の需要をすくい取り、成功しました。
しかし70年代後半、明治以来100年以上、続いた5音音階の時代は終わりに近づきます。松任谷由実や桑田佳祐が7音、12音を巧みに使い、洋楽並みの複雑な音階で大衆を支配したのです。一種の「革命」でした・・
大澤聡さん(批評家)
・・・「演歌の伝統」と言う場合の伝統とは何でしょう。伝統はつくられるものです。さかのぼれば、たいてい歴史が浅かったり作為だったりという事実が判明します。では、なぜ伝統の創造が可能なのか。いつ必要とされるのか。むしろ見るべきはこの2点です。
1点目ですが、これは私たちが忘れっぽいという点に尽きます。私は日本の言論の歴史を研究していますが、「言論の影響力が衰退している」といったタイプの言説はどの時代にも見られます。
戦後、丸山真男や清水幾太郎らの思想家が活躍した時代があった。今では、言論の黄金時代と考えられています。けれど、当時の新聞や雑誌をひっくり返すと、実は大知識人の不在が嘆かれている。セットで昭和戦前期が称揚されています。
そこでその時期を調べてみると、今度は大正期の文明批評家の総合性が理想視され、同時代の知識人の専門化が批判されている。夏の道路の逃げ水のように、「良い時代」はどんどん前の時代に逃げていってしまうわけですね。
「昔は良かった」式の昔は実態を伴いません。伝統はこれに近い。現在や近過去は記憶も鮮明なのでアラが目につきます。でも、2世代前となるともう思い出せない。そもそも知らない。だから、良い記憶や情報だけを合成して理想像をつくりあげやすい。ノスタルジーの基本構造ですね。「演歌は伝統」も同様の論理で理解できるでしょう・・・
すばらしい日本社会論、日本文化論になっています。ごく一部を紹介しました。原文をお読みください。
大学の研究者や評論家がヨーロッパの思想や音楽論を輸入して、議論することを否定しませんが、カラオケに興じている多くの「大衆」とは別の世界です。大衆文化を抜きに、社会や思想を論じるのは、日本社会論や文化論ではないですよね。多くの「日本の思想」と銘打って行われている議論は大衆を忘れていると、私は考えています。