カテゴリー別アーカイブ: 歴史

ゴルバチョフ氏の理想と限界

9月7日の朝日新聞夕刊、塩川伸明・東京大学名誉教授の「ゴルバチョフ氏、言葉の力を信じ」から。

ミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領が世を去った。退陣から30年を経た今では現実政治的には「過去の人」だが、「現在に近い時代の歴史」という観点からは依然として最大級の重要人物である。
歴史上の重要人物の常として、彼の評価には極度に高いものから低いものまで、大きな幅がある。ソ連の民主化と世界の平和に尽力した偉人、何の展望もなしに思いつき的な「改革」を進めて国の混乱を拡大した大馬鹿者、決断力を欠き、右往左往しているうちに政敵に排除されてしまった弱い政治家、その他その他である。

彼がソ連共産党書記長に選出された1985年3月の時点では、その後の大変動を予期していた人は皆無だった。彼自身、当初想定していたのは、体制の抜本的な変革ではなく、限定的な体制内改革だった。そのようにして出発した「ペレストロイカ」は、言論自由化の影響もあって、時間とともにエスカレートし、ある時期以降は事実上全面的な体制転換を視野に入れるようになった。彼の一つの特徴は、言論自由化に伴う改革構想のエスカレートを抑止しようとせず、むしろ自らそれに適応しようと努めた点にあった。
彼がそういう態度をとった一つの要因として、彼が言葉の力を信じるタイプの人間だったということが挙げられる。そのことは内外知識人たちの間に大きな反響を呼び、理想主義的な観点からの期待感を広めた。結果的には、「言葉ばかりが多すぎて、実力の伴わない弱い政治家」という評判をとるに至ったにしても、とにかくそれが彼のスタイルだった。

彼も権謀術数と完全に無縁だったわけではないが、他の政治家たちとの相対比較でいえばマキャベリズムに欠けるところがあり、それがエリツィンに敗北する要因となった。政権末期のゴルバチョフが構想していたのは、もはや集権的でも共産主義でもない、分権的で社会民主主義的なソ連の後継同盟だったが、その構想はソ連解体で潰えた。

般若心経「ぎゃてい、ぎゃてい」

9月9日の肝冷斎に、「般若心経」の最後の「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提娑婆賀」(ぎゃてい、ぎゃてい、はらぎゃてい、はらそうぎゃてい、ぼじそわか)が載っていました。
仏式の葬式や法事の際にお坊さんが唱えられるのを聞いて、子どもの頃から、不思議な言葉だなあと思っていました。日本語にはない響きです。

で、インターネットで調べてみました。マントラの一つ。
意味は、「行こう、行こう、真実の世界に行こう、みんなで共に行き、仏の悟りを成就しよう」。サンスクリット語を漢訳せず、漢字で音写したもので、漢字に意味はないとのこと。
マントラは、サンスクリットで「文字」「言葉」を意味する。真言と漢訳され、大乗仏教、特に密教では仏に対する讃歌や祈りを象徴的に表現した短い言葉を指すとのことです。

子どもの頃に、家族で奈良薬師寺に初詣に行ったことがあります。高田好胤さんが、堂内で法話をしてくださり、最後に、みんなで合唱させられました。
それが、「行こう行こう幸せの国に行こう。みんなで行こう」というようなものでした(記憶は不確かです)。声が小さいと、再度合唱させられました。みんなの大きな声が、堂内に響き渡りました。そして、お参りした功徳があったような気がしました。これだったんですね、納得しました。

「先の大戦」をどう呼ぶか

8月31日の朝日新聞オピニオン欄は「77年…あの戦争の名は」でした。
「「先の大戦」「第2次世界大戦」「15年戦争」「大東亜戦争」「太平洋戦争」「アジア太平洋戦争」……。戦後77年たっても戦争の名前が定まらない。どう考えたらよいのだろう。」

波多野澄雄・筑波大名誉教授の発言から。

「先の大戦」や「あの戦争」と呼ばれている戦争について日本国民が呼称を共有できているのかといえば、できていないと思います。私は歴史教科書の検定に携わった時期もありますが、標準的には「太平洋戦争」という呼称が使われる一方、「大東亜戦争」「アジア太平洋戦争」も併記される状況でした。

あの戦争はそもそも、単純な一つの戦争ではありません。四つの戦争からなる複合戦争だったのです。
まず1937年に始まった日中戦争があります。41年には日米戦争と、東南アジアを主舞台とする日英戦争が始まりました。終戦前後にはソ連との日ソ戦争も起きています。少なくとも四つの大きな戦場があったうえ、異なる戦場間を移動した兵士は少数に限られていた。それが、戦争イメージが一つに収斂しにくかった一因だと思います。
41年12月に対米英戦を始めた直後、日本政府は戦争の呼称を決めています。それ以前から続いていた対中戦争と新たに始めた戦争、両方を合わせて大東亜戦争と呼ぶと閣議決定したのです。しかし敗戦後の占領下で、大東亜戦争という呼称の公式使用は禁じられました。代わって使われた呼び名が太平洋戦争です。

しかし太平洋戦争は米国視点から見た名です。アジア太平洋戦争という呼称は普及していません。ならば、あえて大東亜戦争という呼称を正面から見据える議論があってもいいのではないかと、私は近年思うようになりました。
「大東亜戦争という呼称を使うことは、あの戦争を解放戦争として正当化することだ」と言われてきましたが、「大東亜戦争の一面は侵略戦争だった」という語り方があってもいいはずだと思うのです。日中戦争はどう見ても日本の侵略戦争でしたから。
大東亜戦争という呼称で考えることのプラスの意味は、「日本が主体的に実現しようとしていたものは何か」「継承すべき遺産は何か」を考える機会になることです。
あの戦争は「望ましい国際秩序をめぐる戦い」でもありました。西洋近代とは異なる原理を持った「大東亜新秩序」を東アジアに作るとの目標が日本には一応あり、米英側には「リベラルな秩序を守る」意味があったのです。
実際の大東亜新秩序には「指導する日本と従属するアジア」という関係を押しつける面もありました。しかし、対等な関係を築こうと試みた一部の指導者もいたのです。
大東亜戦争という呼称を用いながら、侵略などの負の側面も見据えた議論を深めていく。それができる環境が国内外に今あるかと問われれば否定的ですが、結論や評価を急ぐべきではありません。戦争への考えを深める作業は、時間がかかることなのです。

1920年代、両大戦間期の「改造」思潮

8月21日の朝日新聞文化欄、「1920年代とは、どんな時代だったか」。山室信一・京都大学名誉教授の「1920年代、両大戦間期の「改造」思潮」から。

デジタル技術で新型ウイルスの情報が瞬時に伝わり、グローバルに結びついた経済がロシアのウクライナ侵攻で動揺している。現代と似たような事態に直面した時代が20年代だ。第1次大戦(14~18年)を経て、世界の一体化が急速に進んだ。戦争で人の移動が増え、スペイン風邪が世界規模で流行(18~21年ごろ)。通信社は文字や写真を電送できるようになった。身体感覚や時間感覚が変化し、意図しなくとも、個人が世界の動きに連動するようになった。

世界が同時性をもって変化した背景には「改造」の思潮があった。英語の「リコンストラクション」だ。英国の哲学者バートランド・ラッセルが16年に反戦の立場から著した『社会改造の原理』が世界で読まれた。20年代にかけて、戦災や災害から復興し、社会を改めようという空気があった。
政治的には、敗戦国ドイツが専制君主国家だったとして、世界で自由や民主主義への改造が支持され、20年に国際連盟、28年に不戦条約が生まれた。日本では「大正デモクラシー」を迎え、25歳以上の男性に選挙権が与えられた。

日本が戦争に向かう背後にも「改造」があった。第1次大戦は国家の人や財を全て動員する総力戦。欧州戦線の情報に刺激された日本陸軍は、総力戦の備えを始めた。18年には早くも軍需工業を動員する法律ができ、25年からは学生に軍事教練を課した。大学で反対運動が起きるが、同年成立の治安維持法で取り締まられた。30年代に急に戦争へ走るわけでなく、20年代から準備が進んでいた。

国立公文書館「江戸城の事件簿」

国立公文書館で、「江戸城の事件簿」という展示が行われています。面白いです。お勧めです。
赤穂浪士の原因となった松の廊下の刃傷は有名ですが、江戸城ではそれ以外にも、何度も大名たちが刀を振り回しています。切りつけた大名と切りつけられた大名はその後どのように処分されたか、居合わせた武士たちはどうしたか。
城内でいじめに遭った武士が、同僚に刃物を向けます。さて、その処分はいかに。
江戸城に迷い込んだ猫と犬がいたそうです。どうして入ることができたのでしょうね。では、それをどのように処理するか。これが大ごとです。そんな記録が残っているのです。

岡崎守恭著『大名左遷』(2022年8月、文春新書)を本屋で見つけたので、読みました。江戸時代に入って、各地の大名は、幕府から何かと名目をつけられて、改易(お取りつぶし)、転封(国替え)を命じられます。1代で5回も国替えを命じられた殿様もいます。私の故郷明日香村のお殿様は、高取藩植村公でした。司馬遼太郎さんの「おお大砲」にでてきます。その話と植村家も取り上げられています。

江戸城で刃傷沙汰を起こし、大名から転落した後、老中まで復活した水野家の話は、かつて、福留真紀著『名門水野家の復活―御曹司と婿養子が紡いだ100年』(2018年、新潮新書)を読んで、へえと思いました。