「ものの見方」カテゴリーアーカイブ

頭という限りあるキャンバス

飯田 芳弘 著『忘却する戦後ヨーロッパ』を読みながら(忌まわしい過去を忘却する戦後ヨーロッパ)、次のようなことも考えました。
「思考の枠」「頭は限りのあるキャンバス」ということです。これだけでは、何を言っているかわかりませんよね。

『忘却する戦後ヨーロッパ』では、独裁政権が倒れたあと、忌まわしい過去を忘れるために「忘却の政治」がとられます。しかし、その際には、積極的に「忘れる」という行為は取られません。他の政治課題が優先され、過去の断罪が脇に追いやられるのです。
多くの場合、「忘れよう」「許そう」とは主張されません。新国家建設(共産主義崩壊後は、たくさんの国が生まれました)、経済再建・経済発展などが優先課題になり、これらの課題は後回しになり、取り上げられなくなります。もっとも、国際社会からの要求もあり、その範囲では対応せざるを得ません。

すなわち、複数の政治課題がある場合に、同時にすべてを処理することはできません。ある期間に取り組むことができる思考には、限りがあるのです。
画用紙・キャンバスを想像してください。白地なので、何でも描くことができます。しかし、1枚の紙に書くことができる図柄には、限界があります。たくさん描きたい動物があっても、大きな象とシマウマを書くと、他の動物は描くことができません。そして、細かく書き込もうとすると、時間が無くなります。次の紙に描くしかありません。

新聞紙面も、わかりやすいでしょう。毎日、ニュースが伝えられます。しかし、その日の一番大きなニュースが大きな紙面を占めて、他のニュースは隅に追いやられます。ほかの日だったら、1面に来るニュースも、大災害の翌朝だと、載らないこともあります。そして、翌日には、次の朝刊が配達されます。

「思考の枠」「頭は限りのあるキャンバス」とは、このように、人が一時に考えることができる項目には限りがあることを、言いたいのです。これは、個人の脳とともに、政治空間や新聞紙面も同じです。
すると、何を重要項目として取り上げるか。これが、本人、政治家、編集者の重要な判断項目になります。嫌なことを取り上げないことも、同様です。「話をそらす」ことです。
他方で、「忘れてはならない重要な課題」は、その時には取り上げられなくても、忘れることなく考え続ける必要があります。そして、他に重要課題がない時に、取り上げるように準備しておく必要があります。

仏像を見る、仏像に見られる2

仏像を見る、仏像に見られる」の続きです。多川俊映・興福寺貫首著『仏像 みる・みられる』から。

・・・この阿修羅像には知名度では及びませんが、白鳳の薬師仏の頭部、いわゆる仏頭もすばらしいお像で、この仏頭こそ、本書の問題を解くカギだと思います。つまり、身体が失われているだけに、その仏眼、仏の視線がより強く私たちにせまってきます。まさに仏頭とは仏眼であり、仏像とはとどのつまり、仏眼にすべてが集約されるのだと思います。先ほど述べたように、トルソー仏像の法要から興福寺に戻って、仏頭の前に立った瞬間、――仏像って仏眼なんだ。と、それはある種の啓示といってよいものでしたが、同時に実は、「仏眼所照」というコトバも鮮やかに思い出されました。これは、仏眼が照見する対象のことです。つまり、「仏の視野の中にいる自分」あるいは「仏に見守られている自分」というものを私自身見出した瞬間だったのです。

このように、仏像とそれをみる私たちとの関係は端的に、「みる・みられる」という関係であり、「みている」のですが、同時に「みられてもいる」という関係なのです。「みる」一方では、この双方向がもつある種の緊張感はなく、双方向の関係だからこそ、人生にかかわる意義もそこに見出すことができるのだと思います。たとえば、私たちの日常でも、自分が関心をもってみているその人が、自分をみてもくれない――、そういう相手からのはたらきかけがなければ、その人間関係が進展しないのと同じです・・・p190~

・・・以上、仏像を見ることは仏像(仏眼)にみられることでもあり、なお、その「みられてもいる」という感覚がいつしか「見守られている」という身体感覚に転換していけば、それはある種究極の、仏像のみかたといってもよいかと思います。と同時に、仏像という対象に集中することによって、わが散心を常心へと方向づけ、少なくともひと時、心穏やかな時空に身を置くことができるであろうことをみてきました。しかし、仏像のみかたには、実はもう一つ奥があります。それは端的に、私たちを見守っておられる仏眼、つまり、仏や菩薩のもののみかた・人を見る目に学ぶということです・・・196~

なるほど。仏像を見ると言いつつ、私たちは、仏さんの目を見ていたのです。
あの山田寺仏頭が、なぜ私を引きつけるのか。それは、そのまなざしに引きつけられていたのです。火災に遭って、頭部だけ、しかもあばたになっておられても、私を引きつけるのは、あのまなざしだったのです。
仏さんが何を見ているか、私は仏さんの目を通して何を見ているか、仏さんはあの目を通して私の何を見ておられるか。仏頭を見ることによって、私は私の心を見ていたのです。
それを導く仏頭の目。その目を彫った仏師は天才ですね。

仏像を見る、仏像に見られる

多川俊映・興福寺貫首著『仏像 みる・みられる』(2018年、角川書店)が、勉強になりました。私たちが仏像を見る際の「気持ち」、すなわち、仏さまを見るとなぜ厳かな気持ちや落ち着いた気持ちになるのかを、明晰に説明しておられます。長年の謎が、解けました。

・・・古い仏像には、身体を欠いたいわゆる仏頭というのがある一方、頭部を欠いたトルソーのような御像もあります。つまり、仏眼が有るのと無いのという二つの例で、仏像というものを考えてみたいと思います。随分前まだ青年僧だった頃、筆者は、頭部を欠いたトルソー仏像を本尊にした法要に式衆として参加したことがありました。その仏像は奈良時代の作例で、衣文は実に流麗であり、全体の雰囲気もなかなか神秘的で、それは美しい御像でした。しかし、いざ法要になり礼拝し着座しても、なにか心が一向に落ち着きません。慣れない場所での法要でしたので、多生の違和感や緊張感はありました。しかし、それもふつうなら最初のうちだけで、その後だんだん心がしっくりと落ち着いてくるのですが、その時ばかりは、それこそ最後の最後まで、その違和感は消えませんでした。これは一体、どうしたことなのか――。

しかし、興福寺に戻ってきて、白鳳の仏頭を拝した瞬間、その原因がすぐにわかりました。――くだんの法要の本尊には、お顔がなかった! トルソーのようなお像でしたから、そんなことは最初からわかっていたはずなのですが、仏頭の前に立った瞬間、――仏像って仏眼なんだ。と、それこそ目からウロコでした。私たちは、礼拝のためであっても・鑑賞のためであっても、いずれであれ、この目で礼拝の対象・鑑賞の対象をみます。しかしそのさい、私たちがいわば一方的に見ているのですが、それは、その仏像の表情を看取してもいる。端的にいえば、みているのだけれど、同時に、みられていもいる。――つまり「みている」のと「みられていもいる」という双方向性のなかで、心がおのずからしっくりとしてくるわけです。そういうことが、トルソー像の場合、みてもいなし・みられているといういわばリアクションもない。――これでは、心が定まらないのも道理です・・・p181~

ここに出てくる白鳳の仏頭は、山田寺仏頭と呼ばれるものです。私が日経新聞コラム「仏像」で書いたあの仏頭です。この項続く

社会はブラウン運動4 指導者の意図も行き当たりばったり

社会はブラウン運動」第4回です。
社会を導くのは指導者です。歴史を作る際に、一般人より影響力を持ちます。しかし、国民が思い思いの意図で動くとともに、政治指導者も自分の思うように、意図を実現できるものではありません。
彼も、競争相手との競合があり、国民の支持を取り付ける必要もあります。民主主義だけでなく独裁国家であっても、政治指導者は国民の支持を取り付けるため、さまざまな「演技」をしなければなりません。

さらに、指導者たちも、一定の目標を持って政治を進めたのではないようです。その場その場での判断を積み重ねた結果、歴史に残る業績が残ったようです。彼らに変わらない信念があるとしたら、権力を維持し拡大することでしょう。
もちろん、ある政策を実現するという信念を持っている場合もあるでしょうが、社会のすべての要素について、目標を持つことは不可能です。しかし、権力者がある政策を実現しようとして権力を握ると、一部のことにだけ関心を持つだけではすみません。
競争相手との競合については、三谷博先生の『維新史再考』を紹介した際に、歴史がジグザクに進むと説明しました。「歴史をつくるもの、『維新史再考』2

強力な独裁者であったナポレオンもヒットラーも、信念であのような国家をつくり、対外戦争を続けたというよりは、その場その場で国民の支持を取り付け、政権を維持することを優先したとみえます。そのために、戦争を続けなければならなかったのです。
共産主義革命を担った指導者は、その信念を実現しようとしたのでしょう。しかし、レーニンや毛沢東が権力奪取を優先し、さらにその後継者たちは共産主義より権力維持を優先しました。

現代においても、トランプ大統領の政策や発言は、ある政治哲学に基づいているのではなく、自らが目立つことと国民の支持を取り付けることを優先しているように見えます。その際には、これまでの世界の指導者が考えてきた自由貿易体制をより強固にするのではなく、それをひっくり返すことで、国民の人気を得ようとしています。 既存のリベラルな主張やオバマ政権の路線をひっくり返すことで、国民の支持を取り付けようとしています。

さて、このブラウン運動の連載は、歴史はある法則に従って進んでいるのではなく、ジグザクに動くという話です。その基礎には、人の動きはブラウン運動的であるという話でした。
事前の大方の予想を裏切ってトランプ大統領当選したのは、それを支持した国民がいたからです。これまでの先進諸国の歴史の動きは、自由貿易体制の進化でした。それに反発する彼の主張が、一時の「エピソード」に終わるのか、アメリカがますますその方向に動くのか、世界全体がその方向に変化するのか、それは時間が経たないとわかりません。
ただし、社会は自然と流れているのではなく、参加者である人たち特に政治家やオピニオンリーダーによって方向を変えることもできます。(この項終わり)

社会はブラウン運動3 構成員の純度

「社会はブラウン運動」の第3回です。
前回「個人の動きもばらばら」で述べたように、各個人は、趣味も価値観も人それぞれです。それに従ってばらばらに動く個人を、政治や学校や会社は、同じ方向に動かそうとします。力ずく(強制)、計算(お金の力)、魅力(信仰や文化)によってです。

組織になると、共通の目的を持った人たちが集まっているので、その目的に向かって行動します。もっとも、この場合も参加者の「純度」には、ばらつきがあります。
例えば、大学生を勉強のために大学に入っていると考えると、間違います。勉強が好き で授業に出ている人と、勉強が好きだけど独学を好む人。さらには、勉強は嫌い だけど大学に籍を置いて、アルバイトに励む人、運動会に青春を捧げる人、寝ている人・・・。
みんなが、大学の授業に出席して勉学に励むとは限りません。それぞれに、動機が違うのです。

会社でも役所でも、みんながみんな、仕事に熱心だとは限りません。「職場にすべてを捧げる」という人もいれば、「給料さえもらえれば」という人もいます。「仕事をしたいが、私のやりたい仕事をさせてもらえない」という人や「介護と子育てが大変で・・・」という人もいます。「昨夜飲み過ぎて」という人も。
上司は時々、これを勘違いします。「なぜ、職員は出来が悪いのか」と。みんなが、課長のように仕事熱心ではありません。その中で仕事熱心だから、課長になったのです。全員が課長にはならない、なれないのです。

社会になると、政治指導者が国民を指導して、ある方向に持って行こうとします。また、世論なるものができて、ある方向に進めようとします。しかし、ある目的で集まっている集団ですら不純物を含むのですから、社会になるともっと純度は落ちます。
それぞれが、自らの動機に従って「欲望」を実現しようと活動します。その際には、政治指導者の意図に沿っている場合もあれば、沿ったふりをしている場合や、反する動きをする場合もあります。この項続く