カテゴリー別アーカイブ: 体験談

生き様-体験談

本家の再活用7

本家の再活用6」の続きです。先日、同窓会に帰ったときに、見に行ってきました。木が伐採、剪定され、また雑草が抜かれて、きれいになっていました。建物の改造は作業中でした。

今回の取り組みの名前が「明日香スタンド(旧岡本邸)」となったようです。「Vol.10 竹テントワークショップ・初日」と「Vol.11 竹テントワークショップ・2日目」が公開されています。いろんな方が、参加してくださっているのですね。ありがとうございます。

竹は放っておくと、どんどんはびこります。第10回で切り出している竹は、敷地の西南あたりのようです。小さな川が東(大字島庄(しまんしょう))から流れてきていて、隣との境になっています。飛鳥川沿いを埋め立てて道路を作る前は、ここで飛び石で川を渡り、大字橘に行く道がありました。

小学校の同窓会

今日10月22日は、小学校の同窓会に行ってきました。明日香村立高市小学校です。石舞台の隣にありましたが、その後、統合されて今はありません。同窓会はこれで3回目の開催ですが、前2回は私は都合で参加できませんでした。

私は6年生の6月に、父の意向で橿原市立晩成小学校に転校し、中学校も橿原市立八木中学校を卒業しました。住民票だけを移す「越境入学」です。なので、小学校の同級生みんなと会うのは、57年ぶりになります。もちろん近所の友達とは、転校しても顔を合わせていました。
小学生から高齢者に。みんなすっかり変わっていましたが、顔を見ると子どもの時の面影があり、名前が分かりました。みんな、当時のことを良く覚えていて、「××をやったよね」といった話題で盛り上がりました。「テレビに出ているのを、見てたよ」とも。
幹事の皆さん、ありがとうございます。

小学校は、1学級でした。名簿によると、男子23人、女子20人の43人です。今日は16人が出席しました。
今も覚えていますが、出席番号が、1番山下君から始まり、藤島君、西川君、谷川君、私・・という順です。何の順番だろうと不思議に思うでしょう。生まれた日でもなく、身長順でもありません。
大字岡から始まり、その番地の順です。そのあとは、細川谷、稲淵谷・・と集落順に続きます。だから、今でも覚えているのです。
結果として、先生が家庭訪問する順になっています。集団登校の際はこの班で集まっていき、運動会も大字で分かれていました。町の学校に転校したら、出席番号があいうえお順で、世の中にはこのような合理的な並べ方もあるのだと感心しました。

0011ナポレオン・ソロ

イギリスの俳優、デヴィッド・マッカラムさんが亡くなったと、報道が伝えていました。
中学生の頃、深夜に放送された「0011ナポレオン・ソロ」を、楽しみに見ていました。「スパイ大作戦」もそうでした。11時過ぎだと思うのですが、そこまで勉強したら、深夜のテレビを見ることが許されたのです。

スパイもので、話の展開、知恵の出し方、小細工の仕方、結末。時には非現実的なものもありましたが、面白くて引き込まれました。そして、かっこよいのです。
スパイ大作戦の冒頭の画面は良く覚えています。テープレコーダーから「おはよう、フェルプス君・・・」と指示が来て「君もしくは君のメンバーが捕えられ、あるいは殺されても、当局は一切関知しないからそのつもりで。なお、このテープは自動的に消滅する」という声とともに、テープレコーダーは火を噴いて壊れるのです。いくつかは、筋書きを覚えています。

10月12日の朝日新聞夕刊「三谷幸喜のありふれた生活:1153」は「恐れ入谷のマッカラム」で、マッカラムさんと「ナポレオン・ソロ」を取り上げていました。

本家の再活用5

本家の再活用4」の続きです。明日香村商工会の紹介映像「岡本邸プロジェクト Vol.6特殊伐採前編」に続き、「特殊伐採後編Vol.7」が、公開されていました。

この樹木というか森は、屋敷の西側、飛鳥川沿いの斜面と低地にありました。現在川沿いの道路になっている場所も森で、川に面していました。「この地図・グーグル地図にリンク」では、赤い印が本家の母屋、左(西側)に信号がありますが、この信号との間が、今回伐採された木です。

屋敷からは一段低く、さらに下がって川になっています。対岸は崖になっていて、城になぞらえると飛鳥川が堀で、外から人が来ることはできませんでした。その状態なら森の中で、問題なく切り倒せたのですが。
子どもの私たちには、森と川は格好の隠れ家、遊び場所でした。タケノコも掘りました。川には小さな魚がたくさんいて、夏には蛍が飛び交いました。飛鳥川と呼ばず、大川と呼んでいました。

私が中学の頃に、村の中心部の交通渋滞を緩和するために、そこを埋め立て、高い護岸を作って道路を通しました(地図では155号線と表示されています)。交通は良くなったのですが、風情がなくなりました。
大学教養学部で万葉集の授業を受けた際に、稲岡耕二先生とその話になり、「もったいないことをしましたねえ」とおっしゃったことを覚えています。

門の前の東西方向の道路(本家の100メートル東にある村の中心の十字路から来て、飛鳥川に出る道路)は、そのまま飛鳥川に沿って進み、橘寺の近くで川を渡りました。地図では「万葉歌碑」の印がある細い道です。車一台が通れる道ですが、これが飛鳥時代からの幹線道路でした。
木の橋が架かっていたあたりが、川幅が狭く、かつ地盤が良かった(岩です)ので、適地だったのでしょう。その橋の下で、夏は泳ぎました。今も、橋の前後はその道路が残っています。次の橋は、かなり下流に行かないと架かっていません。
橿原方面(近鉄岡寺駅)から村へと向かってくる道路は、今は、その橋の北側の高市橋で川を渡り、先日まで使われていた村役場の前を通ります。しかし、この道路は比較的新しい道路で、私が子どもの頃は「新道」と呼んでいました。