カテゴリー別アーカイブ: 体験談

生き様-体験談

本家の再活用5

本家の再活用4」の続きです。明日香村商工会の紹介映像「岡本邸プロジェクト Vol.6特殊伐採前編」に続き、「特殊伐採後編Vol.7」が、公開されていました。

この樹木というか森は、屋敷の西側、飛鳥川沿いの斜面と低地にありました。現在川沿いの道路になっている場所も森で、川に面していました。「この地図・グーグル地図にリンク」では、赤い印が本家の母屋、左(西側)に信号がありますが、この信号との間が、今回伐採された木です。

屋敷からは一段低く、さらに下がって川になっています。対岸は崖になっていて、城になぞらえると飛鳥川が堀で、外から人が来ることはできませんでした。その状態なら森の中で、問題なく切り倒せたのですが。
子どもの私たちには、森と川は格好の隠れ家、遊び場所でした。タケノコも掘りました。川には小さな魚がたくさんいて、夏には蛍が飛び交いました。飛鳥川と呼ばず、大川と呼んでいました。

私が中学の頃に、村の中心部の交通渋滞を緩和するために、そこを埋め立て、高い護岸を作って道路を通しました(地図では155号線と表示されています)。交通は良くなったのですが、風情がなくなりました。
大学教養学部で万葉集の授業を受けた際に、稲岡耕二先生とその話になり、「もったいないことをしましたねえ」とおっしゃったことを覚えています。

門の前の東西方向の道路(本家の100メートル東にある村の中心の十字路から来て、飛鳥川に出る道路)は、そのまま飛鳥川に沿って進み、橘寺の近くで川を渡りました。地図では「万葉歌碑」の印がある細い道です。車一台が通れる道ですが、これが飛鳥時代からの幹線道路でした。
木の橋が架かっていたあたりが、川幅が狭く、かつ地盤が良かった(岩です)ので、適地だったのでしょう。その橋の下で、夏は泳ぎました。今も、橋の前後はその道路が残っています。次の橋は、かなり下流に行かないと架かっていません。
橿原方面(近鉄岡寺駅)から村へと向かってくる道路は、今は、その橋の北側の高市橋で川を渡り、先日まで使われていた村役場の前を通ります。しかし、この道路は比較的新しい道路で、私が子どもの頃は「新道」と呼んでいました。

本家の再活用4

本家の再活用3」の続きです。明日香村商工会の紹介映像「岡本邸プロジェクト Vol.4事前見学会前編」「Vol.5事前見学会後編」「Vol.6特殊伐採前編」が、公開されていました。
改修工事が始まりました。夏に帰郷したときに、弟から工事予定のあらましを聞いていました。
屋敷内には、大きな木が何本もあります。そのまま倒すと、周囲に被害が出るのです。私も東京の家の近所でその作業を見たことがありますが、これを切るには高度な技術が必要です。

私は父の新宅で育ちましたが、小学生まで昼はほとんどこの本家で育ちました。映像を見ると、あそこに手を付けているなとか、このように作業するのだとわかります。
いささか、感慨深いものがあります。壊す部分もありますが、再活用してもらえる部分もあって、ありがたいです。

50年前、50年後

週末に、もうじき1歳になる孫の乳母車を押して、散歩をしています。ふと思いました。この子が30歳になるときには、2052年、50歳では2072年、80歳になると2102年です。

私が今68歳です。50年前に大学に入り、卒業後は官僚を務めてきました。50年というと半世紀。長く感じますが、過ぎてみると短かったです。同じ50年でも、未来は長く感じ、過去は短く感じるようです。
採用されたとき23歳の青年にとって、事務次官や局長は雲の上の人であり、えらい年上でした。でも当時の次官や局長は55歳くらいです。今になると、68歳の私からは、「55歳は、まだまだ若いなあ」と思ってしまいます。

人間は、自分を中心に、自分の物差しでしか見ることができないのでしょう。
100年前は、遠い昔です。例えば今年は、関東大震災(1923年)から100年です。私は1955年生まれなので、遠い昔のこと、しかも戦前の出来事でした。亡くなった父は1921年生まれですから、父にとっては記憶がないにしても、同時代のことでした。

ひどい上司と憎めない部下と2

ひどい上司と憎めない部下と」の続きです。今日は、小道具編です。

課長補佐の私は、ある時期は国会議員への説明で議員会館を飛び回り、講演会などもこなしていたので、席を空けることも多かったのです。そこで、部下たちが相談したい資料を私の机に提出しておいてもらって、あとで目を通すこともありました。
小学校の時に先生に捺してもらった「よくできました」というゴム印を覚えていますか。「よくできました」ゴム印。遊び心もあり、それを捺して書類を返却していました。文房具店で買ってきたゴム印は5種類が入っていて、「たいへんよくできました」「よくできました」のほかに「もうすこしです」や「がんばりましょう」などもありました。

最初の頃は、「たいへんよくできました」か「もうすこしです」を捺していたのですが。ある職員(県から派遣されていた職員)が私に説明しながら、「補佐、これを捺しましょう」と言って、勝手に「たいへんよくできました」を自分で捺しました。憎めない職員です。今は副知事をしています。
その後いつの間にか、「たいへんよくできました」以外のはんこは、行方不明になりました。そして、残った「たいへんよくできました」を、職員が自分で捺すようになりました。

もう一つ小道具の話です。
私はプロ野球、近鉄バッファローズのファンで、机の上に小さなマスコット人形などを飾っていました。ある日出勤すると、机の下に落ちていて、しかも壊れています。
「なんやこれは」と言うと、あの係長が「補佐の厳しさに耐えかねて、自ら身投げをしたのではありませんか。かわいそうな人形です」と、真面目に説明してくれました。

「こやつが遊んでいて、あるいは鬱憤晴らしで壊したな」と推測しましたが、そこまで堂々と言われると、反論のしようがありません。職員が壊れる前に、人形が身代わりになってくれたのです。
多分、他の職員は笑っていたでしょうね。
彼らのおかげで、仕事は大変でも、風通しの良い職場だったと思っています。

ひどい上司と憎めない部下と

先日、30数年前に一緒に働いた後輩2人と、久しぶりに意見交換会をしました。当時、私は30代半ばの自治省財政局交付税課課長補佐で、2人はまだ20代半ばで係長とその手前でした。その頃の思い出話で、盛り上がりました(この頃の話は、何度か書いたことがありますが、あらためて)。

この頃の私の仕事ぶりは省内でも鳴り響いていて、この2人も周囲から「岡本補佐に仕えて、大変だね」と、ねぎらいの言葉をかけてもらっていたとのことです。
土曜日の朝に彼らに指示を出し、月曜日朝にできていないと「昨日休んだやろ」と言ったとか。もちろん笑いながらですよ。月曜午後には、「まだできてないの。昼飯食っただろう」と言ったとか。
上司以上に彼らは大物で、「まだですよ~」と、笑って受け流していました。

2人は素質もあり、将来の幹部に育てるために、他の人より重い負荷をかけたのです。もちろん、彼らの疲労度を勘案してです。私も彼らの職位のとき、しょっちゅう泊まり込んだ経験がありますから、「無理の程度」はわかっています。彼らに聞くと、「明け方までは仕事をしたけれど、家には帰りました」とのこと。
24時間戦えますか~ビジネスマン、ビジネスマン~」という栄養剤の宣伝が流行ったのは、昭和63年です。「そんなこと、できっこないわ」と、私は自分の経験で思っていました。1日か2日はできるとしても、生産性は落ちるし、長続きはしません。

当時は週休2日に移行する時期でしたが、忙しい時期の私には休日という概念はなかったです。ただし季節労働者で、暇なときもありました。そうでないと、体が持ちません。私は休日出勤はしましたが、平日は早く帰るようにしました。
と言っても、意見交換会に出かけていたのです。部下にとって、「上司元気で留守が良い」を理解していたので。もう一つの栄養剤の宣伝、高田純次さんの「5時から男」を実践していました(笑い)。私が退庁してから、彼らが盛り上がっていた話は、次回にします。

次のようなやりとりも、有名でした。
私が彼らに指示を出す際に「私は忙しい。返事は簡潔にせよ。しかし私は民主的だから、押しつけはしない。次の2つの答えの中から選んで良い。一つは『はい』だ、もう一つは『わかりました』だ」と言ったとか。
部下の一人は「はいはいはい~、わかりましたよ~」と、グレながら返事をしていました。私が許した選択肢を逸脱してはいないのですが、不服従をきっぱりと顔に出していました。
この話には、後日談があります。私が交付税課を離れて数年後に、後輩から聞きました。「全勝さん、最近は選択肢がもう一つ増えたんです」と。で「3つめは何?」と聞くと、「喜んで」ですと笑いながら教えてくれました。ある飲食店で、注文を聞いた店員が客に答える際の言葉だそうです。
ここだけ読めば、ブラック職場に見えますね。