カテゴリー別アーカイブ: 体験談

生き様-体験談

省庁改革本部の同僚

2月18日の日経新聞「交遊抄」は、米女太一・アサヒ飲料社長の「民間からの出向組」でした。
・・・20年以上前、それまでアサヒビールで人事や営業に携わっていたが、民間からの出向として内閣の中央省庁等改革推進本部事務局で働くことになった。そこで出会ったのが日本商工会議所理事の荒井恒一さんだ。当時、私たちは霞が関の官庁組織を再編する仕事に携わっていた。法制局で法案を審査してもらうと、多くの指摘が返ってくる。へとへとになってデスクに戻ると、隣で黙々と仕事をしていたのが荒井さんだった・・・

2001年に実施された省庁改革の準備のために、省庁改革本部事務局が作られたのは、1998年6月でした。各省と民間から、職員が集められました。米女さんも、その一人です。
私は、富山県総務部長から、事務局の減量担当参事官に赴任しました。米女さんとは、班は別でした。私たち官僚でも、この仕事はきつかったので、民間からの出向者は、もっと苦労したと思います。
私の減量班も、20年経った今も年に数回集まっています。コロナでしばらく開催できず、コロナが収束するのを待っています。

人を評価することは、自分を評価されること

若い時に、職員の採用面接を担当したことがあります。職員採用の責任者である先輩から、「しっかり見てくれよな。採用予定者を幹部面接に出すと、今度は私の人物眼が査定されるのだから」とハッパをかけられました。なるほどと思いました。

私は採用されて最初の配属先が、徳島県財政課でした。いくつかの部局を担当して予算を作ります。次の配属は自治省財政課で、これは交付税の単位費用をつくる査定も仕事でした。その後、鹿児島県財政課長、自治省交付税課長補佐、総務省交付税課長と、予算査定に長く携わりました。
予算査定を続けていくうちに、これも同じだと気がつきました。
初めのうちは、膨大な要求を受け(当時はまだシーリングがありませんでした)、それを切るのが仕事だと思っていました。先輩や同僚に「要求ないところに査定なし」「疑わしくは罰する(予算をつけない)」といった「勇ましいセリフ」を教えられ、実行していました。
しかし、だんだんと釈然としなくなりました。「削るだけなら、電卓に0.9を入れて、要求額に掛けていけば収まるではないか」とです。

できばえの良い予算とは、知事に喜んでもらい、県民にも喜んでもらえる予算です。そして、要求部局に喜んでもらえないとしても、納得してもらえる予算です。
それは、数字だけでは見えません。要求側と何度も意見交換をして、その事業の効果を調べるだけでなく、相手側の本音を聞くことも重要でした。簡単に言えば、要求通りにつけるのなら、議論はなくてもすみます。つければ、喜んでもらえます。

重要なのは、要求通りにつけることができない場合に、どのように納得してもらうかです。
先輩たちが「日頃の人間関係が重要」「事前に現場を見ておくことが重要」といった教えのほか、「君の全人格的闘いだわな」と助言をくれました。
査定官は、予算査定結果という予算書で評価されるとともに、査定の過程で人格識見を評価されているのだと気づきました。
このような経験と見方の積み重ねで、「蟻の目と鷹の目」「全勝Aの後ろに全勝Bがいて、Aを監視する」「閻魔さまの前で、どう説明するか」「周囲の人は私をどう見ているか」といった、私のものの見方ができました。

朝日新聞インタビュー「ミスター復興が語った後悔と成果」

12月10日の朝日新聞宮城県版に、私のインタビュー「ミスター復興が語った後悔と成果」が載りました。

・・・総務省の官僚だった岡本全勝さん(65)は、東日本大震災直後から政府の被災者支援策をとりまとめ、復興庁で事務次官を務めるなど、この10年近くずっと被災地にかかわってきた。9月に退任した霞が関の「ミスター復興」に聞いた。

――今回の復興政策の特徴はなんでしょう。
「国土の復旧」から「暮らしの再建」へと、政府の災害対応の守備範囲を大きく広げたこと。行政哲学の大転換だった(図参照)・・・

――異例の措置の一つが復旧・復興事業で被災自治体の財政負担をなくしたこと。その結果、過大なまちづくりや施設整備になったと指摘されています。
地方負担ゼロも、それが当たり前という空気の中で(11年秋に)決まった。私も最初そう思ったが、しばらくしてよくなかったかなと。住民が減り、かさ上げや高台移転計画が過大になっても、市町村は自己負担がないため、縮小するインセンティブがない。ある首長は「人口が減る前提では議会に話はできない」と言った。住民意向調査を繰り返すことで、計画を縮小させていった。
身の丈に合った計画にするため、5%でも負担してもらうべきだった。財政力のない市町村は率を下げ、それでももたない所は特別交付税で救済すればいい・・・

後悔というより、次に向けての教訓なのですが。
図の他に、私の「表情豊かな?」写真も数枚付いています。場所は復興庁、窓の外の背景は国会議員会館などです。

卒業記念の寄せ書き

11月30日の退任の際、職員たちが見送ってくれたのですが、記念にと、手提げ袋も一つもらいました。家に帰って、開けてびっくり玉手箱です。30センチ四方ほどの色紙が、たくさん入っていました。それぞれの色紙に、5センチほどの卵形の紙がたくさん並んでいて、その卵形の一つひとつが、各人の寄せ書きなのです。

1 その数305名です。よくまあ、これだけ多くの人から集めてくれましたね。
2 現在復興庁に勤めている職員もいますが、ほとんどが、かつて一緒に働いた人たちです。各省から来ていた職員、民間から来てくれていた職員、自治体職員のほか、国会議員、知事、市町村長もおられます。地方や海外からも。失礼ながら忘れていて「そういえば、この人もいたなあ」と思い出す人も、たくさんおられます。9年間の仕事でしたから。
3 作成してくれた職員に聞くと、インターネット上に「ヨセッティ」なる寄せ書きサービスがあり、それを使ったとのことです。これをメールで関係者に送りました。あわせて、「前任者などにも転送をお願いします」として「拡散」したのだそうです。
なるほど、それで遠く地方や海外の人まで参加できたのですね。寄せ書きが自筆だけでなく、活字のものが多かったのは、スマートフォンなどから返信してくださったからでしょう。
4 その後、初期の頃に復興庁に在席し、今は霞が関を離れている人に会ったので、「あんたも書いてくれたんだね」と話しました。「いや~、霞が関界隈では、この連絡メールが飛び交っていたのではありませんか」と笑っていました。

これだけの数になると、読むだけでも大変です。そして、書かれた言葉とその方と一緒に働いた頃を思い出して、なかなか読み終わりません。
ありがとうございます。

復興庁顧問退任

11月30日で、復興庁顧問を退任しました。9月半ばに、内閣官房参与、福島復興再生総局事務局長を退任し、顧問として残務整理をしていました。それにめどがついたので、退任を認めてもらいました。「執務室の片付け
役所の組織は、一人が欠けても動くようにできています。私がいなくなっても、復興政策は進みます。ただし、住民や関係者に迷惑がかからないように、円滑に業務を引き継ぐこと、業務が進むように筋道を立てておくことが、去る者の責務です。

大震災対応に従事してから、9年8か月です。また、42年半の公務員生活から卒業しました。常勤職員から非常勤職員へと、徐々に「足抜け」を進めていたのですが、やはりいささかの感慨がわいてきます。先輩たちも、それぞれに感じたことでしょうが。

まずは、健康で勤められたことを、感謝しなければなりません。また、支え導いてくださった皆さんにも、感謝しなければなりません。
そして、珍しい仕事をいくつも担当させてもらったことも、神様に感謝しなければなりません。ある人は、「50年に一度の、運の良い官僚だね」と言ってくださいました。続けて「それは、50年に一度の運の悪い官僚と言うことだけど」とも(苦笑)。それぞれの仕事で、社会の役に立てたならうれしいです。

その時々の官僚の「生態」や考えたことは、このホームページで書き連ねてきました。書いた内容は、今となっては、ほとんど覚えていないのですが。
40年間の振り返りは、おいおい整理したいと思います。ところがその前に、締めきりが迫っている連載原稿や、その他の原稿があって、当分無理ですわ。