読売新聞「時代の証言者」3月は柳井俊二・元外交官です。22日「高田警視が殉職 衝撃」、23日「派遣継続首相の即断」と、1993年5月のカンボジアPKOについて書かれています。日本が初めて取り組んだ、国連の平和維持活動が、このカンボジアです。
・・・《日本人文民警察官5人と護衛のオランダ兵らが乗った国連の車列が5月4日、何者かに襲われた。岡山県警の高田警部補(2階級特進で警視に)が即死、日本人警察官4人が重軽傷を負った》
5月の大型連休の最中で僕は東京を離れていましたが、一報を受け、慌てて戻りました。軽井沢にいた宮沢喜一首相も即、帰京された。日本はPKOから撤退するのか。重たい空気の中、会議が始まりました・・・
・・・カンボジアでのPKOを続けるべきか、撤退するべきか。その夜、官邸で開かれた緊急会議で、宮沢喜一首相が「柳井君、これはどういう事態だろうか」と口火を切りました。
遺憾なことに犠牲者が出てしまったが、停戦合意が崩れたわけでも、日本人を狙ったわけでもない。撤退する状況にはなっていない――。
こう説明すると、宮沢さんは「私もそう思う。ここはがんばりましょう」とおっしゃった。即断でした。
しかし、世論は撤退の大合唱です。閣僚の中にも引くべきだと主張する人がいたし、警察庁幹部も動揺していた。
《高田警視の葬儀は5月10日、岡山県内でいとなまれた。負傷した4人の警察官は、それぞれの地元で療養することになった》
お葬式は、それは 辛つら かったです。それ以上に参ったのが、派遣警察官の奥さんたちが「引き揚げさせてください」「あと何人死んだらいいんですか」と総理府の私の部屋に何回も来られたことです。心配な気持ちは痛いほどわかる。「一層の安全対策を講じます」と理解を求めるしかありませんでした。
カンボジア各地に点在していた文民警察官をプノンペンに集め、活動を中断。その後、安全策を強化した上で戻ってもらいました。
PKO終了後、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の軍事部門司令官だったジョン・サンダーソン豪州軍中将を日本に招きました。「あの時は心配した。日本が撤収していたら、カンボジアPKOは瓦解していたかもしれない」と振り返っていた・・・
このとき、現地の警察官から事情を聞き、動揺を抑えるために、総理の命により村田敬次郎自治大臣兼国家公安委員長がカンボジアに派遣されました。主任の大臣は河野洋平官房長官ですが、官房長官は日本を離れることができないので、国家公安委員長の村田大臣が行くことになりました。私もお供したのですが、それは慌ただしくとても緊張する出張でした。今も、鮮やかに覚えています。私にとって、政治とは何か、政治家とは何かを考える機会でした。「当時の写真」
21日「PKO法早く 焦り」に次のような記述があります。
・・・やきもきする中、PKO協力法は92年6月15日に成立しました。社会党は、全衆院議員が抗議の辞表をとりまとめたり、採決では牛歩したり、徹底抗戦しました。あれが党勢退潮の始まりでしょう・・・