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生き様-体験談

岡義達先生の政治学を分析する

4月に出た、前田亮介編『戦後日本の学知と想像力――〈政治学を読み破った〉先に』(2022年、吉田書店)は、東京大学駒場で御厨貴ゼミに参加した若手研究者たちの論文集です。御厨先生の古稀にあわせて出版されました。

そこに、澤井勇海執筆「岡義達 行動論・象徴論から演技論へ」が収録されています。前田亮介さんの「序」には、次のように紹介されています。
・・・澤井勇海「岡義達 行動論・象徴論から演技論へ」は、その難解さと寡作ぶりがしばしば秘教的に語られてきた『政治』の作者(岡義武の歳の離れた弟でもある)の政治学の全体像を提示した、おそらくはじめての論考である・・・

私は大学3年の時に、岡先生の政治学の授業とゼミを取りました。『政治』は、最初に読んだときは歯が立ちませんでしたが、何度かくり返し読むうちに理解できるようになりました。古典から最近の新聞記事まで背景にある知識が広く、さらりと引用されているので、それらを知っていないと理解できなかったのです。それさえ分かれば、そんなに難しい文章ではありません。「思い出の本、その2。岡先生「政治」
惜しむらくは、もう何冊か書いてくだされば、もっと理解しやすかったでしょうに。

1991年生まれの澤井さんは、岡先生に直接指導を受けたことはないでしょう。御厨先生を通じてだと思いますが、どのようにして関心を持たれたのでしょうか。

副知事二人、追加で4人

新副知事二人」の記事に、意見が寄せられました。
「ほかに、同時期に一緒に仕事をした二人が、副知事になっています。滋賀県の江島宏治さんが昨年度から、愛知県の林全宏さんが4月から副知事に就任されています」と。失礼しました。

お二人は平成4年4月から、隣の財政課に出向してきていました。
交付税の算定は、交付税課と財政課の二つの課で行います。私は歳出担当課長補佐として、その二つの課の職員と一緒に、さらに各省関係はもう一つの調整室の職員と一緒に仕事をしていました。
この4人以外にも、県や市から来られた方で、副知事や副市長を務めた人もおられます。東日本大震災の際には、千葉・岩手県副知事、三浦・宮城県副知事に助けてもらいました。
副知事副市長でなくても、出世して活躍した方、活躍している人もたくさんおられます。が、一緒に働いた人が4人も同時期に副知事になられるのは、めでたいことです。

新副知事二人

4月は人事異動の時期です。うれしいことがありました。かつて一緒に仕事をした人が2人も、県の副知事になったのです。一人は岩手県の八重樫幸治・副知事、もう1人は沖縄県の池田竹州・副知事です。

八重樫君は平成2年秋から1年間、池田君は平成3年秋から1年間、当時の自治省財政局交付税課に派遣され、仕事をしてくれました。私は、平成2年春から4年末まで交付税課課長補佐でした。
当時は「昭和の働き方」が最盛期でした。深夜残業や休日出勤も、季節によっては普通でした。ふるさと1億円事業の続きなど、交付税の算定もどんどん増えていきました。岡本課長補佐は新しい物好きで、それらの仕事を次々と引き受けてきたのです。岡本補佐は当時35歳。ばりばり仕事をして、職員にもそれを求める「悪い上司」でした。反省しています。
そのかたわら、彼らを含め関係者に制度と動向を知ってもらうために『地方交付税 仕組と機能』の元となる原稿を書き、彼らが悩まないように執務参考の「涙なしの交付税課勤務」も作っていました。忙しい時期を終えると、「日本の頂上で交付税を考えよう」と、職員たちを富士登山に誘いました。

ともに苦労をした(正確には苦労をかけた)職員が出世するのは、うれしいですね。副知事という職も苦労が多い職ですが、かれらなら上手にやってくれるでしょう。
がんばれ八重樫君、池田君。

西尾勝先生ご逝去

西尾勝先生が、お亡くなりになりました。83歳でした。ご冥福をお祈りします。新聞にも書かれているように、行政学の第一人者、そして地方分権を進めた方です。先生がおられなかったら、地方分権改革は進まなかったでしょう、あるいは違った結果になっていたでしょう。情報公開制度や市民参加にも、力を入れられました。「西尾勝先生の時代の証言者

私は東大法学部で、西尾勝先生に行政学を、塩野宏先生に行政法を学びました。当時20歳だった私は先生方を見て、「遠くの山」「とても登ることのできない、絶壁の高山」と思いました。当時、西尾先生は37歳、塩野先生は44歳でした。「西尾勝先生、分権改革の整理

西尾勝先生から「必要があって、岡本君が書いた『進む三位一体改革』を読んだけど、やたらと長かったね」との「おしかり」をいただきました。たぶん、先生が『地方分権改革』(2007年、東大出版会)を書かれる際のことだと思います。私は「先生、すみません。あれは、関係者向けの実況中継だったんです。一冊の本にまとめるときは、そぎ落とそうと考えていたんですが、時機を失してしまいました」とお詫びしました。そんな思い出もあります。「続・進む三位一体改革

カンボジアPKO

読売新聞「時代の証言者」3月は柳井俊二・元外交官です。22日「高田警視が殉職 衝撃」、23日「派遣継続首相の即断」と、1993年5月のカンボジアPKOについて書かれています。日本が初めて取り組んだ、国連の平和維持活動が、このカンボジアです。

・・・《日本人文民警察官5人と護衛のオランダ兵らが乗った国連の車列が5月4日、何者かに襲われた。岡山県警の高田警部補(2階級特進で警視に)が即死、日本人警察官4人が重軽傷を負った》
5月の大型連休の最中で僕は東京を離れていましたが、一報を受け、慌てて戻りました。軽井沢にいた宮沢喜一首相も即、帰京された。日本はPKOから撤退するのか。重たい空気の中、会議が始まりました・・・
・・・カンボジアでのPKOを続けるべきか、撤退するべきか。その夜、官邸で開かれた緊急会議で、宮沢喜一首相が「柳井君、これはどういう事態だろうか」と口火を切りました。
遺憾なことに犠牲者が出てしまったが、停戦合意が崩れたわけでも、日本人を狙ったわけでもない。撤退する状況にはなっていない――。
こう説明すると、宮沢さんは「私もそう思う。ここはがんばりましょう」とおっしゃった。即断でした。
しかし、世論は撤退の大合唱です。閣僚の中にも引くべきだと主張する人がいたし、警察庁幹部も動揺していた。
《高田警視の葬儀は5月10日、岡山県内でいとなまれた。負傷した4人の警察官は、それぞれの地元で療養することになった》
お葬式は、それは 辛つら かったです。それ以上に参ったのが、派遣警察官の奥さんたちが「引き揚げさせてください」「あと何人死んだらいいんですか」と総理府の私の部屋に何回も来られたことです。心配な気持ちは痛いほどわかる。「一層の安全対策を講じます」と理解を求めるしかありませんでした。
カンボジア各地に点在していた文民警察官をプノンペンに集め、活動を中断。その後、安全策を強化した上で戻ってもらいました。
PKO終了後、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の軍事部門司令官だったジョン・サンダーソン豪州軍中将を日本に招きました。「あの時は心配した。日本が撤収していたら、カンボジアPKOは瓦解していたかもしれない」と振り返っていた・・・

このとき、現地の警察官から事情を聞き、動揺を抑えるために、総理の命により村田敬次郎自治大臣兼国家公安委員長がカンボジアに派遣されました。主任の大臣は河野洋平官房長官ですが、官房長官は日本を離れることができないので、国家公安委員長の村田大臣が行くことになりました。私もお供したのですが、それは慌ただしくとても緊張する出張でした。今も、鮮やかに覚えています。私にとって、政治とは何か、政治家とは何かを考える機会でした。「当時の写真

21日「PKO法早く 焦り」に次のような記述があります。
・・・やきもきする中、PKO協力法は92年6月15日に成立しました。社会党は、全衆院議員が抗議の辞表をとりまとめたり、採決では牛歩したり、徹底抗戦しました。あれが党勢退潮の始まりでしょう・・・