カテゴリーアーカイブ:行政

復興の現状の評価、2

2026年3月10日   岡本全勝

復興の現状の評価」の続きです。NHKの記事は、次のように続きます。
・・・一方、道路などのインフラや公共施設の整備について評価を尋ねると
▽評価するが21.3%
▽やや評価するが54.5%
▽あまり評価しないが18%ちょうど
▽評価しないが6.2%となり
7割以上が評価するという結果になりました。

「評価する」と「やや評価する」と答えた人にその理由を複数回答で尋ねると
▽「災害に対する安全性が高まったから」が44.1%
▽「生活の利便性が向上したから」が43%ちょうどなどとなりました。

一方、「あまり評価しない」「評価しない」と答えた242人にその理由を複数回答で尋ねると
▽「地域のニーズとあっていないから」が最も多く35.1%
▽「将来の人口減少を想定していないから」が34.7%
▽「整備が不十分だと感じるから」が29.3%
▽「維持管理費用が心配だから」が24%ちょうど
▽「あまり利用されていないから」が23.1%
▽「災害対策が不十分だから」が19.4%
▽「必要以上の整備だと感じるから」が17.8%でした・・・

インフラ復旧について評価が高いとともに、大きすぎることの問題も認識されているようです。作った施設の維持費については、各報道機関も伝えています。例えば、NHK「被災地に重くのしかかる“復興維持費”の現状は」(3月9日)

復興の現状の評価

2026年3月9日   岡本全勝

NHKウェブサイトに「震災15年アンケート 復興“思い描いたより悪い” 3割近く」(3月8日)が載っています。

・・・東日本大震災の発生から15年となるのにあわせて、NHKが被災地に暮らす人にまちの復興の現状を尋ねたところ、3割近くの人が「思い描いていたより悪い」と答えました。まちのにぎわいや商業施設の充実度などを理由に挙げていて、専門家は「経済や暮らしの面での復興は時間がかかり、ニーズの変化も把握しながら支援を続ける必要がある」と指摘しています。
NHKはことし1月下旬から先月上旬にかけて、岩手・宮城・福島の沿岸と原発事故による避難指示が出された地域などに住む18歳以上の人を対象に、インターネットでアンケートを行い1000人から回答を得ました。
このなかで、まちの復興の現状について、思い描いていた姿と比べるとどうか尋ねたところ
▽「思い描いていたより悪い」が最も多く27.3%
次いで
▽「思い描いていたとおりだ」が25.1%
▽「思い描いていたより良い」が19.4%
▽「わからない」が28.2%でした。

どのような点が思い描いたより悪いか複数回答で尋ねたところ
▽にぎわいが44%ちょうど
▽商業施設の充実が36.6%
▽暮らしやすさが33.3%
▽医療・福祉が33%ちょうどなどと、
経済や暮らしの課題が挙げられました・・・

私はこの結果を見て、少し満足しました。「「悪い」が多いのに、満足している」という意味ではないので、誤解しないでください。
東日本大震災までの政府の災害復旧事業は、インフラや公共施設の復旧に限られていました。しかし、過疎地域では、それだけではまちのにぎわいは戻らないことに気がつき、私たちは産業と生業やコミュニティーの再開まで支援を広げました。
この住民意向調査では、にぎわい、商業施設、暮らしやすさなどが評価の対象となり、それらについての評価が低いのです。インフラ復旧だけでは、暮らしが戻らないことが認識されたことを、私は喜んだのです。課題がわかれば、対策も打つことができます。もちろん、すべてを政府が引き受けることはできませんが。(この項続く)。

政権への委任拡大 空洞化する民主政治

2026年3月6日   岡本全勝

2月18日の朝日新聞夕刊、藤原帰一教授の「政権への委任拡大 空洞化する民主政治」から。

・・・日本に限った現象ではない。かつてアルゼンチン出身の政治学者ギジェルモ・オドンネルは、多元的民主主義の条件を備えながら権力のチェック・アンド・バランスが失われてしまった政治体制の類型として、「委任型民主主義」という概念を提起した。ラテンアメリカ諸国で民主化が進展していると信じられていた時代のなかにあって、民主政治の発展は当然のものではないと指摘したのである。
オドンネルがこの概念を提起した1994年から30年が経ち、委任型民主主義、すなわち民主政治の外見のもとにおける政府への委任と権力の集中はラテンアメリカなどの新興民主主義国ばかりでなく、欧州や米国においても政治の日常になってしまった。ナチス・ドイツにおける全権委任法のような授権法を経ることがなくても民主政治は空洞化するのである。

日本の政治ではもともと行政権力に委任された権力の幅が大きい。政権与党と野党との間において公平・公正な競争が制度的に保障されてきたと言うこともできない。そして2026年総選挙によって、政府への委任がこれまでになくひろがるだろう。私は日本が独裁に向かっているとはまだ思わないが、チェック・アンド・バランスと政治的競合がこれまでになく弱体化することは避けられないと考える。

では、なぜ高市首相が支持を集めたのだろうか。フランスの政治学者ベルナール・マナンは、主著「代表制統治の諸原理」(初版は1995年刊行)において欧州における代議制は民主主義の一形態としてではなく、本来は民主主義とは異なるはずの貴族支配と結びつくことで生まれたことを論じ、代表制民主主義の誕生を、その内部の緊張を含めて多元的に考察した。
その主著の終章で、マナンは観客民主主義という独特な概念を提起している。かつての選挙研究は有権者の社会的・経済的・文化的背景によって政治的選好を説明できたが、現在では社会・経済・文化的背景が変わらなくとも選挙結果が変わるようになった。それを説明する要因としてマナンが注目したのが、政治におけるパーソナリティーの役割の拡大だった。政治家は有権者に直接呼びかけ、世論はイベントやコミュニケーション戦略によって左右され、コミュニケーションのエキスパートが政治活動家や政党の官僚に代わる役割を果たすのである。

観客民主主義といっても、観客が政治を左右するわけではない。選挙における選択のイニシアチブは有権者ではなく政治家が握っているからである。観客民主主義における有権者は自分の利益や心情を政治に伝える主体ではなく、政治家がコミュニケーションによって操作する客体に過ぎない。代表制民主主義における政治権力への委任はさらに拡大することになる・・・

健常者に気を遣う障害者の視点

2026年3月1日   岡本全勝

2月17日の朝日新聞、近藤銀河さんの「「特別」なら許されるマイノリティー」から。

・・・高市早苗首相のSNSの投稿は衝撃的だった。彼女の夫のために公邸がバリアフリーに改装された、という報道を受け、その事実を否定しつつ「仮に貴重な税金を使って改修工事をする必要があるのであれば、私達は公邸に引っ越しませんでした」としていた。
健常者に対して気を使い、マイノリティーが堂々と主張できるはずの――けれど主張すれば批判を浴びるような――権利を引っ込める姿勢は、私の日常の中で選びたくないのに繰り返し浮かびあがってくる選択肢だった。それを政治のトップが口にしている。

私の日常を少し説明しよう。
外出のために車椅子を使って生きていると、たくさんの善意に出会うけれど、時には善意を断らないと自分を守れないことがある。
一番よく遭遇する例が、長い階段で「背負ったり車椅子を運んだりできるよ!」という申し出だ。運んでもらったり、背負ってもらったりすることは強い身体的な労作を伴う。車椅子だけを運んでもらって、自分は時間をかけてゆっくりはうように登らないといけないこともある。
そうした善意の申し出を受け入れたあと、私は人知れず数日、時には1週間ほど倒れ込む。そしていつも、悩む。差し伸べられた――優しいけれど取れば自分が痛みを背負うことになる――手をどうすればいいのかと・・・

・・・強く支持される政治家が示すマイノリティーの姿は、ほとんどの場合そのマイノリティー性以外では徹底的に規範に従順な姿だ。少なからぬ女性議員が差別的な姿勢を示すのはまさにそうした例だろう。それは明白なメッセージとなる。「あの人は〇〇だけどさ、他の〇〇とは違う、特別だからいいんだよ」と言われるような存在。マイノリティーはそれを目指して努力せよ、と。
私もそうした声に日々、従おうとしてしまう。無理なことでも平気な顔で「出来ます」と言ってしまい、後で数日寝たきりになってしまう。そんな自分にがくぜんとする。なぜそんなに健常者と同じように振る舞おうとしているのか、と。そんなこと出来やしないのに。

マジョリティーにとってあるべき姿を守るマイノリティーになるのか、そこから動き出してさらに社会の想定から外れた「マイノリティーの中のマイノリティー」になるのか。私はいつも悩んでいる。すでに理想的な姿から外れきっているのに、と。
けれど、健常者が想像する障害者像の内側に踏みとどまる限り、私は迷惑をかけないから許される存在としてのみ許容される。「何も気にしなくていいです、大丈夫です」と言い続ける限り合理的な調整はなされない。あとに続く人もまた苦しむことになる。
だから、いつも吐きそうになりながら少しだけの勇気を出して、物申したり出来ないと断ったりする。頑張らないで社会に存在するために頑張る。なんてむごい矛盾だろう。でも特別でなくても生きられるために今はそうするしかないと歯を食いしばる(時々は諦めているけど)・・・

政府に「公文書等」はあるが「公文書」はない

2026年2月25日   岡本全勝

変な表題ですね。でも、次のようなことなのです。役所が扱う文書について定めた法律に、「行政文書」「公文書等」は出てくるのですが、「公文書」という言葉は出てこないのです。もし間違っていたら、すみません。

コメントライナー2023年5月11日号に「「行政文書」は正確か」を書きました。昔は、現在の「行政文書」という言葉はありませんでした。職員が作った文書は、「公文書」といわれる保存を前提とした重要な文書(決裁を受けた文書)と、それ以外の執務の過程で作ったメモなどに区分されていました。「行政文書」という言葉は、1999年に制定された「情報公開法」で作られました。同法では、行政文書には公文書とそのほかの文書の両方が含まれることになりました。ここで、法律上は「公文書」という言葉がなくなり、役所で作る文書と扱う文書は「行政文書」という言葉に変わりました。

ところが、「公文書等」という言葉は残ったのです。「公文書等の管理に関する法律」は、「行政文書管理法」という名称ではありません。
第1条 この法律は、国及び独立行政法人等の諸活動や歴史的事実の記録である公文書等が、健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源として、主権者である国民が主体的に利用し得るものであることにかんがみ、国民主権の理念にのっとり、公文書等の管理に関する基本的事項を定めること等により、行政文書等の適正な管理、歴史公文書等の適切な保存及び利用等を図り・・・
第2条第4項 この法律において「行政文書」とは、行政機関の職員が職務上作成し、又は取得した文書(図画及び電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られた記録をいう。以下同じ。)を含む。第十九条を除き、以下同じ。)であって、当該行政機関の職員が組織的に用いるものとして、当該行政機関が保有しているものをいう。ただし、次に掲げるものを除く。
第8項 この法律において「公文書等」とは、次に掲げるものをいう。
一 行政文書
二 法人文書
三 特定歴史公文書等

行政機関の保有する情報の公開に関する法律
第1条 この法律は、国民主権の理念にのっとり、行政文書の開示を請求する権利につき定めること等により・・・
第2条第2項 この法律において「行政文書」とは、行政機関の職員が職務上作成し、又は取得した文書、図画及び電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られた記録をいう。以下同じ。)であって、当該行政機関の職員が組織的に用いるものとして、当該行政機関が保有しているものをいう。ただし、次に掲げるものを除く。

正確には、「公文書館法」は公文書を題名に使っていて、と第2条に「公文書」という言葉も出てきます。ただし定義はありません。
第1条 この法律は、公文書等を歴史資料として保存し、利用に供することの重要性にかんがみ、公文書館に関し必要な事項を定めることを目的とする。
第2条 この法律において「公文書等」とは、国又は地方公共団体が保管する公文書その他の記録(現用のものを除く。)をいう。

国立公文書館法」も、公文書という名称を使っています。

なお、刑法には「公文書偽造等」という言葉があります。第155条の見出しです。ただし、法文には出てこず、定義もされていません。
(公文書偽造等)
第155条 行使の目的で、次の各号に掲げるいずれかの行為をした者は、一年以上十年以下の拘禁刑に処する。
一 公務所若しくは公務員の印章若しくは署名(以下この章、第百六十五条及び第百六十七条において「印章等」という。)を使用して公務所若しくは公務員の作成すべき文書若しくは図画(以下この章において「文書等」という。)を偽造し、又は偽造した公務所若しくは公務員の印章等を使用して公務所若しくは公務員の作成すべき文書等を偽造する行為・・・