カテゴリーアーカイブ:行政

生活保護引き下げ、違法判決

2025年7月18日   岡本全勝

6月28日の朝日新聞1面、「生活保護引き下げ、違法 最高裁「厚労相の裁量逸脱」 物価下落のみ考慮、誤りと指摘」から。

・・・国が2013~15年に生活保護費を大幅に引き下げたのは違法だとして、利用者らが減額決定の取り消しなどを求めた2件の訴訟の上告審判決が27日、最高裁第三小法廷であった。宇賀克也裁判長は、引き下げを違法と判断し、減額決定を取り消した。原告側の勝訴が確定した。
一方で判決は、原告側が求めた国の賠償は認めなかった。判決は裁判官5人のうち4人の多数意見で、宇賀裁判官は賠償も認めるべきだとする反対意見をつけた。

引き下げに先立つ12年の衆院選では、野党だった自民党が保護費削減を選挙公約に掲げて政権復帰した。国は13年以降、生活保護費を約670億円削減した。
この削減では、生活保護費のうち、食費などの生活費にあたる「生活扶助」の基準額が3年の間に平均6・5%、最大10%引き下げられた。引き下げ額を決めた厚生労働相は、物価の下落に合わせて保護費を減らす「デフレ調整」を行った。
判決は、生活扶助の額は従来、世帯支出など国民の消費動向をふまえて決められていたのに、今回の調整では、「物価下落のみ」が指標とされたと指摘。指標を変えることは、専門家による社会保障審議会の部会で検討されておらず、専門的知見との整合性を欠いているとして、判断過程を誤った厚労相に「裁量の逸脱や乱用があった」と結論づけた。

訴訟では、一般の低所得世帯と生活保護世帯の均衡を図るとした「ゆがみ調整」の是非も争われたが、判決は、統計などの専門的知見と整合しないとはいえず、不合理ではないとした。
判決は、国の賠償責任について、生活扶助の指標を変える議論が過去にあった点などを踏まえ、認めなかった。
宇賀裁判官は反対意見で、「最低限度の生活の需要を満たすことができない状態を(原告らは)強いられた」として精神的損害を賠償すべきだと指摘した・・・

日本の行政の国際化

2025年7月16日   岡本全勝

砂原庸介教授「行政学の国際化」」の続きです。それに触発されて、次のようなことを考えました。

連載している「公共を創る」は、昭和末から令和までの間に、官僚が高い評価から落ちる過程を、一官僚の目から考えているものです。一言で言うと、「追いつき形の行政が大成功だった。ところが、目的を達成して、次の目標を見つけていない」ということです。
そこでは、歴史的(時間の経過、社会の変化)に説明していますが、国際的な視点は十分には書けていません。私にそれだけの知見がないからです。
先進国は、お手本がない状態で、社会の課題を解決してきました。日本の行政は、その「態度」や「仕組み」を輸入しなかったのです。そして、先進国と「同じ土俵」に乗りませんでした。

それは、日本の行政学にも当てはまるでしょう。先進国の行政や行政理論を輸入したのですが、国際的な行政学(学界)には参加しなかったようです。輸入が主な仕事だったので、輸出をしませんでした。昨年秋に、日本の行政を英語で紹介する『Public Administration in Japan 』が発刊されましたが、1983年以来のことだそうです。
また、輸入に偏ったことで、日本の行政と行政機構の批判的分析もおろそかになったようです。砂原教授の「ブラック霞ヶ関」問題も、行政学者による取り上げは少ないようです。

国際協力機構(JICA)の依頼で、発展途上国政府幹部に日本の発展を話す機会が増えてきました。「なんで私が?」と思いましたが、適当な学者も、官僚も、書物もありません。ここでも指摘できるのは、日本の行政は先進国を見ていて、後発国を見ていなかったのです。日本の発展を教えることで、もっと後発国に貢献できたと思うのですが。
「日本の行政と官僚は世界一」なんてことを自慢していて、官僚も学者も「夜郎自大」に陥っていたのですね。

霞が関、国会対応業務時間

2025年7月15日   岡本全勝

7月1日に、内閣人事局が、国会対応業務に関する調査結果を公表しました。詳しくは原文を見ていただくとして。
「最終の答弁作成着手可能時刻の平均」は18時32分、「全ての答弁作成が完了した時刻の平均は25時48分です。昨年までと、大きくは改善されていません。
質問が出そろうまで、多くの官僚は待機を余儀なくされます。そして、多くの官僚は質問が当たらず(空振りになり)、無駄な時間を過ごすのです。この調査結果は平均ですから、中にはもっと遅いものもあったはずです。

早期に退職する若手官僚や職場の現状に不満を持つ官僚の不満は次の三つでした。連載「公共を創る」第157回。
・ 生活と両立しない長時間労働がいつまで続くのか
・ 従事している仕事が国家・国民の役に立っているのか
・ この仕事で世間に通用する技能が身に付くのか

このような状況が変わらないと、官僚を目指す若者は少なく、採用されても早期に退職するでしょう。国権の最高機関において、このような事態が生じているのです。
国会議員たちは、どのように考えているのでしょうか。まずは、質問通告の遅かった議員名と質問概要を、公表することができませんかね。それに不満な議員は、理由を説明すれば良いでしょう。議員個人に責任がないなら、仕組みを変えてください。

砂原庸介教授「行政学の国際化」

2025年7月14日   岡本全勝

季刊『行政管理研究』2025年6月号に、砂原庸介・神戸大学教授の「日本の行政は他国の行政に学べるか―あるいは行政学の国際化」が載っています。私が常々思っていたことが、鮮明に書かれていました。霞ヶ関の官僚や行政学者には、ぜひ読んでもらいたい論考です。
少し紹介します。私の関心からなので、本論と外れているところもあるので、ご了承ください。

・・・翻って、現在の日本官僚制を見ると、喫緊の問題の象徴は「ブラック霞が関」という言葉であろう。政治主導のもとで官僚制は自律性を失い、政治的な調整に奔走して疲弊する状況である。批判されてきた権威性は薄れ、よく言えば民主的なコントロールが強まる一方で、グローバル化が進んで複雑さを増す社会状況に対応するための専門性が十分でないと考えられる。世界中で進んでいるデジタル化、とりわけ大量のデータを利用したAIの意思決定への活用、といった点でも、残念ながら後れを取っていると評価される。

誤解を恐れずに強い言葉を用いるなら、現状の日本官僚制の位置づけは戦後直後に近いところがあると考えるべきなのかもしれない。時代の変化の応じた組織の見直しや、個人のモチベーション・スキルの管理は行われず、デジタル技術を用いた効率化も十分とは言えない。公共サービスの水準が高いとすれば、個々の職員の過度な業務負担に依存しており、それが「ブラック」であるとして職業としての魅力が失われている。他国の良いやり方を見習いながら、組織の能力を上げて、効率的な行政を実施するための改革への要請が強まっていると考えられる・・・

・・・言うまでもなく、この問題は日本の行政学(者)にとっても他人事ではない。日本の行政が独自路線を歩むのと同じく、日本の行政学の研究蓄積も、世界的な行政学の文脈からは切り離されている。近年でこそ、日本で教育を受けてきた行政学研究者が英文トップジャーナルで論文を刊行することも出てきたが、国際的な存在感という点では、以前からアメリカ行政学の強い影響下にある韓国が有するそれとは比べるべくもない。他国の行政(学)の蓄積が、日本の行政学の中にも十分に受容されていないのだ。
それぞれの国に、それぞれ独自の行政や行政学があることには大きな意義がある。しかし、日本でも特権的なエリートが高い責任感を持って国家を運営するというスタイルは維持できず、いまや行政への民主的なコントロールは強すぎるくらいである。その中で、行政の改善を図っていくためには、多くの人を納得させるような、客観的なデータに基づいた根拠が求められる。そのような改善の経験を他国と共有し、自国の行政から得られた知見を他国に発信することは、行政の責任に含まれると言っても良いのではないだろうか。

行政学(者)もその責任を分有していることは否めないだろう。行政の活動を測定するためのデータをどのように収集するか、といったところから行政への関わることなしには遂行が難しい研究も少なくない。国際的な議論の文脈に接続しながら、日本官僚制の組織をどのように改善していくか――象徴的には「ブラック霞が関」にどう取り組むか――は、行政だけの課題だけでなく、行政学にも問われている課題なのである・・・

官僚が議論する場がない

2025年7月12日   岡本全勝

連載「公共を創る」は、副題が「新たな行政の役割」です。地方行政に限らず、日本の行政のあり方を議論しています。さらには、日本社会の特徴や問題を生む背景にも、議論が及んでいます。それが、行政に対応と変革を迫っているからです。

掲載誌は、時事通信社の「地方行政」です。地方公務員や地方行政関係者にも読んでもらいたいのですが、国家公務員や国家行政に関心ある方に読んでもらいたい内容になっています。ところが、地方行政にはいくつか専門誌があるのですが、国家行政には見当たりません。なので、「地方行政」に載せてもらっています。

私は長年、国家行政を議論する媒体がないことを問題だと考えてきました。それぞれの省庁や局には、白書や広報誌や専門誌があり、政策を議論できるのですが、国家行政を横断的に議論する場がありません。例えば国家公務員のあり方についても、関係者の議論の蓄積がないのです。行政管理については、季刊『行政管理研究』がありますが、範囲は狭いです。
「官僚が発言をしなくなった」という批判もありますが、議論できる場、意見を発表できる場もないのです。

これには、国家行政機構の形にも、原因があります。「分担管理原則」の下で、内閣の仕事、政策は各省(各局)に振り分けられています。それらを統合する仕組み、組織がないのです。人事も統一する組織がなく(採用と給料表は人事院でしたが)、各省任せでした。ようやく、内閣人事局ができました。
経済発展期には、各局がそれぞれを伸ばせば(部分最適)、全体が良くなる(全体最適)担ったのです。それを全体で調整したのが予算(大蔵省)でした。自治体には企画部や企画課がありますが、国では各省、各局にそのような組織はあっても、内閣にはありません。