カテゴリーアーカイブ:政治の役割

政権交代に左右されない社会保障議論とシステム

2012年10月21日   岡本全勝

10月20日の読売新聞解説欄は、石崎浩編集委員らによる「社会保障改革。国民会議、始動早急に」でした。
・・そもそも1年で出来ることは極めて限られている。政治的党派を超えて取り組んだ好例とされるスウェーデンの年金改革は、7年かけた・・だからといって、国民会議には何も期待しない、と突き放すべきではないだろう。改めて「社会保障改革の方向性を確認する」だけでも、重要異な意味があるからだ。
それを理解するには、政権交代をはさんだ議論の系譜を見なければならない。
野田政権が目指す社会保障・税一体改革は、自公政権で麻生内閣が設置した「安心社会実現会議」の路線を受け継いでいる。
それまでもさまざまな会議が提言を重ねてきたが、安心会議は与謝野馨・経済財政相(当時)が主導し、野党だった民主党のブレーン的存在の宮本太郎・北大教授をあえて中心メンバーに迎え入れたことで、大きな転換点となった。
そこで打ち出された方針の柱は、▽社会的助け合いを強化するための「公」の新たな担い手を育てる▽雇用を中心に据えて社会保障を全世代型に再構築する▽消費税で財源を確保する▽安心社会実現円卓会議を設置する―というもの。後に、鳩山政権が掲げた「新しい公共」、菅政権が唱えた「一に雇用、二に雇用」などを先取りしていた。
民主党政権に交代した後、宮本教授は改めて「社会保障改革に関する有識者検討会」の座長に就き、安心会議とほぼ同じ内容の報告書を出す・・
民自公3党が政権交代をはさんで合意形成した一体改革を円滑に実施していくためにも、国民会議を早急に設置し、地に足の着いた議論を始めるべきだ・・

宮本太郎・北海道大学教授は、次のように述べておられます。
・・戦後、日本社会は安定した雇用の確保を基軸とし、雇用と連携させて社会保障制度を構築してきた。そのかたちには、もっとプライドを持って良い。国民会議の議論では、改革課題と併せて、これまでの日本の社会保障から継承するべき理念も再確認し、与野党に提示する必要がある。
今の与野党は互いの主張をぶつけ合っているが、政権交代のたびに年金や医療のシステムがひっくり返るのでは、国民はたまらない。国民会議では、政権が交代しても揺らぐことのない土台を固める議論をすべきだ・・

記事には、2000年の小渕内閣での「社会保障構造のあり方について考える有識者会議」から、2011年の菅内閣での「社会保障改革に関する集中検討会議」まで、7つの会議が表に整理されています(麻生内閣での「安心社会実現会議」の記録)。

お任せ民主主義。政治というできの悪い芝居の見物、その2

2012年10月8日   岡本全勝

「國分さんは以前から、行政が政策を実行していく過程に一般の人々も参加できるようにするべきだ、と主張されています」との問に対しては。
・・それは民主主義の制度の問題ですね。民主主義の枠内で私たちにできるのは、数年に一回、選挙に行くことぐらいです。選挙は、市長のような行政の長を選ぶものもありますが、おおむね立法権に関わっています。立法府たる議会に送り込む政治家を選ぶ手続きですから。
しかし、実際に私たちに関わる政治のほとんどは、省庁や市役所といった行政権力が担っている。なのに、それらは単に決められたことを行う執行機関と見なされているから、市民は決定過程に関われない。たとえば役所が「ここに道路を作ります」と言ってきたら、それにあらがうのは本当に大変です。行政権力の決定に公式に関われる筋道がないからです。民主主義というなら、市民が行政権に関われる制度がなければいけない。難しいでしょうが、それを考案していくことが急務です・・

鋭い指摘です。選挙で議員や首長を選ぶことだけが、民主主義の実行ではありません。また、議会に陳情をしたり、デモをすることで、直ちに主張が実現する訳でもありません。
ところで、この議論の延長で、要求が実現しないと「政府が悪い」とラベルをはる人がいます。新聞記事にも、しばしば見られる構図です。これらは、政治家や行政に「後は任した」という、お任せ民主主義の表現でしょう。
「要求と拒否」「賛成と反対」だけでは、別に主体があって、本人は実現過程に参加していません。政府の主人公は国民であることを忘れています。「真に国民の立場に立った政治家の出現を望む」といった主張も、同類でしょう。
そしてしばしば、任せた相手は、役所=官僚や公務員であって、「住民の立場に立たない役所が悪い」「官僚が悪い」という結論になります。これは、まだ官僚が信頼されていることの裏返しともみることができるので、批判されつつも日本の官僚集団は存続します。

他方、公の意思決定に参加することは、時間と労力の負担が必要です。この一例が、被災地でのまちの復旧計画策定です。高台に移転するのか、現在地で復旧するのか、土地区画整理をどのようにするのか。役所に任せず、自分たちで決める話し合いが、続いています。役所に一任して、不満を言っているのは簡単です。しかしそれでは、いつまでたっても結論が出ません。
全国的政策は、その決定過程に参加することはなかなか負担が大きいですが、身近なことなら、容易です。地域のことを自分たちで決める。「地方自治が民主主義の学校」と言われる所以でしょう。
お任せは、お気楽で責任も生じません。評論家の立場を維持できます。他方、参加は、負担が生じ、責任も生じます。
もちろん、全ての公の事項の決定に参加することは不可能です。どの事項を政治家と公務員に委ね、どの事項に参加するか。また、どの段階で参加するか。その割り振りが重要になります。

お任せ民主主義。政治というできの悪い芝居の見物

2012年10月6日   岡本全勝

10月2日の朝日新聞オピニオン欄、國分功一郎さんの「経済成長の時代、全ては暇つぶし。政治も消費された」から。

・・日本は特に、政治を退屈しのぎにしてきた国だと思います。以前から、日本は先進国であるのに政治意識が高まらない、例外的な「臣民型」の国だという評価がありました。政治参加の意思も抗議運動への理解もない、と。・・
日本がなぜ例外であり続けたかといえば、やはり経済が大きい。60年代以降、日本だけは経済が右肩上がりで社会システムも安定していた。その中で怪物的な消費社会を作り出し、あらゆるものを消費の対象にした。政治もその一つになった・・

「マスコミは政治報道に力を注ぎ、人々も投票所に足を運んできた。それが退屈しのぎの消費に過ぎなかったのでしょうか」という問に対しては。
・・すべてがそうではありませんが、そもそも与野党がなれあって、事前に強行採決や乱闘の手順を料亭で決めていたような時代があったわけで、国会自体が出来の悪い芝居だったのではないでしょうか。
マスコミはそれを「政局」としておもしろおかしく報じ、飲み屋での政治談議に話題が提供される。政治はそんな退屈しのぎぐらいになれば十分だったんでしょう。その暗黙の前提となっていたのが、放っておいても誰かがうまくやってくれる、という政治への白紙委任的な態度です・・

鋭い指摘ですね。経済や社会がうまくいっているのなら、お任せ民主主義でも、良かったのでしょう。
後段、できの悪い芝居を、「政局」として報道していたという批判に対して、マスコミ(各紙の政治部)は、どのように反応するでしょうか。
この項続く。

勢力均衡や覇権主義でない国際秩序

2012年10月2日   岡本全勝

G・ジョン・アイケンベリー著『リベラルな秩序か帝国か―アメリカと世界政治の行方』(上下、邦訳2012年、勁草書房)が、とても勉強になりました。
日経新聞での教授の主張を読んで(8月11日の記事)、興味を持ちこの本を読みました(途中で他の本に手を出したとはいえ、読み終えるのに1か月半かかっています)。教授の主張を、極端に簡単に紹介すると、次のようなものです。
第2次大戦後の世界政治を規定した、アメリカのグランド・ストラテジーは、2つあった。
一つは、冷戦、対ソ関係であり、勢力均衡、核抑止、政治的イデオロギー的競争による「封じ込め政策」です。
もう一つは、1930年代の経済苦境と政治的混乱、それから発生した第2次大戦を再び起こさないことであり、経済の開放性、政治の互恵性、多国間で管理する国際関係といった「リベラル民主主義的な秩序」です。
前者は、ソ連を「敵」とし、リアリズムに立ちます。後者は、1930年代の失敗を「敵」とし、リベラリズムに立ちます。

私たちは、戦後の国際政治というと、前者の米ソの東西対立を思い浮かべます。しかし教授は、それよりも、後者の多国間によるリベラルな秩序を重視します。それは、冷戦が終わってソ連封じ込めが必要なくなったときに、新しい国際秩序が生まれず、引き続き従前の国際秩序が続いていることで証明されています。共通の敵がなくなったのに、西側先進諸国は同盟関係を崩さず、また国際機関を壊さず、軍備競争にも戻りませんでした。
振り返ると、アメリカ主導による多国間によるリベラルな国際秩序は、冷戦が始まる前から形成され始めていたのです。国際連合、IMF、ガット(後にWTO)などです。そして冷戦がなくなった今、この秩序が前面に出てきたのです。
ドイツも日本も、いえロシアも中国も、この秩序に乗っていて、これに挑戦しようとはしません。アメリカの戦後構想は、成功したのです。
この項続く

社会保障を含めた生活保障を進めるために、宮本太郎教授、その3

2012年9月25日   岡本全勝

「具体案はありますか」という問に対しては。
・・私自身は、社会保障を強めて雇用と連携させるアクティベーション(活性化)と呼ばれる方向をめざすべきだと考えています。非正規の若者が技能や知識を伸ばす多様な機会をつくる。女性の就労につながる保育・修学前教育を手厚くする。NPOや社会的起業で高齢者の仕事をつくることも活性化の手法です。
他方、ある程度の支援はするが、個人と家族の自己責任を重視し、伝統的な家族の価値を打ち出すワークフェア(就労義務重視)の主張もある。給付付き税額控除のような方法で現金を渡し、社会参加の条件を整えようというベーシックインカムの提起もある。
民主党でアクティベーションの流れが強まると、自民党はワークフェアにシフトしたようですが、3つの立場は具体的な政策としては重なるところがある。空中戦はやめ、どうすればより多くの人が仕事に就けるか、エビデンス(経験的証拠)に基づいて議論するべきです・・

「方向は見えている。しかし、政治が動かない。なぜでしょうか」
・・子育てと仕事の両立に悩む母親、低学歴と技能不足で正社員になれない若者など、従来の生活保障が対応できていない「新しい社会的リスク」に直面する人たちが増えています。この人たちを元気にすることは、経済成長のために決定的に重要です。
しかし、彼ら彼女らは組織化されておらず、投票率も低いため、政治家にとって「良い顧客」ではない。一方、これまで政治家を支えてきた業界団体や労働組合の声は政治家に届きやすいものの、こちらも組織率を低下させ、利益を集約できない。要するに、政治が現実社会から離反し浮遊しつつあるのです・・

宮本太郎先生の「生活保障」や「アクティベーション」については、『生活保障―排除しない社会へ』(2009年、岩波新書)があります。
社会の変化が、「社会保障」として求められる範囲を変えているのです。安心な生活は、政府の社会保障制度だけで成り立っていたのではなく、家族と企業の「保障」と一緒になって、成り立っていました。後者が弱くなること、また成熟社会になることで孤独や引きこもりなどの新しい社会的リスクが生まれ、従来の社会保障では漏れ落ちる人が出てきたのです。
私は、「新しい社会的リスク」を、リスクの一つに位置づけています。拙稿「社会のリスクの変化と行政の役割」。また社会関係リスクについては、再チャレンジ政策を担当して以来、関心を持ち続けています。「国民生活省構想」は、この問題への取り組みの一つです。