カテゴリーアーカイブ:社会の見方

世界の経済規模の比率

2009年10月18日   岡本全勝
世界各国の経済規模のシェア(構成比)を調べた、興味深い数字があります。アンガス・マディソンという、世界の経済成長の歴史を調べている学者がおられます。その人が行っているGDP推計です。以下の数字は、田中明彦著「ポスト・クライシスの世界」(2009年、日本経済新聞出版社)からの引用です。
1820年では、中国33%、西欧23%、インド16%、アメリカ2%、日本3%です。1973年では、中国5%、西欧26%、インド3%、アメリカ22%、日本8%でした。かつて、中国とインドが、はるかに大きかったことがわかります。
ここまでは、歴史です。将来推計では、2030年に、中国24%、西欧13%、インド10%、アメリカ17%、日本4%です。中国やインドが復活し、西欧や日本が低下します。
もちろん、その間に人口が変動していますから、一人当たりGDPも比べてみる必要があります。
ところで、最近の数字では、日本・韓国・中国3か国のGDP合計は、イギリス・フランス・ドイツ3か国の合計を、上回っています。意外でしょ。そしてこれは、日中韓東アジア3か国が、英仏独西欧3か国と比べ、世界にどれだけの貢献をしているか、という私の議論(国際社会での位置と自覚)につながります。

お金で買えない感覚資源

2009年10月17日   岡本全勝
昨日の続きです。原研哉さんは、次のようにも言っておられます。
・・日本は、石油や鉄鉱石のような天然資源に乏しい・・しかし、今日においては、天然資源の確保に汲々としてきたことが、むしろプラスに転じはじめている。もしも日本に石油が豊富に湧き出していたら、おそらくは環境や省エネルギーに対する意識は、今日ほどには高まってはいなかったはずだ・・
マネーという富はもっと巨大にこの国に蓄えられ、医療も、教育も、通信も、すべて無料にで国が提供するような裕福な国になっていたかもしれないが、その豊かさは、やがて訪れる次の時代に対応できず、悲惨な衰退を運命づけられていたかもしれない。
幸いなことに、日本には天然資源がない。そしてこの国を繁栄させてきた資源は、別のところにある。それは繊細、丁寧、緻密、簡潔にものや環境をしつらえる知恵であり感性である。
天然資源は今日、その流動性が保障されている世界においては買うことができる。オーストラリアのアルミニウムも、ロシアの石油も、お金を払えば買えるのだ。しかし文化の根底で育まれてきた感覚資源は、お金で買うことはできない。求められても、輸出できない価値なのである・・
私は、拙著「新地方自治入門」で、地域の財産として、自然環境、公共施設、制度資本のほかに、関係資本や文化資本を取り上げました。

日本人の日常の美意識は資源

2009年10月16日   岡本全勝
昨日の続きです。原研哉さんの連載第1回「美意識は資源である」(「図書」2009年9月号)から。
・・成田空港に降り立ち、素っ気ない空間を入国審査所に向かって歩き始める時、きまって感じることがある。空間は面白みがなく無機質だが、なんと素晴らしく掃除の行き届いた場所だろうかと。床のタイルはどこもピカピカで、床の上で転がり回ってもさして服は汚れないのではないかと思うほど。カーペットを敷きつめた床も清潔だ。仮にシミがあっても、それを除去しようと最善の努力をはらった痕跡がある。おそらく掃除をする人は、仕事の終了時間が来ても、モップや掃除機をさっさと片付けたりしないで、切りのいいところまで仕事をやりおおせて帰るに違いない。この丁寧さが、他国から帰ってくると切実に感じられる・・・
掃除をする人も、工事をする人も、料理をする人も、灯りを管理する人も、すべて丁寧に篤実に仕事をしている。あえて言葉にするなら、「繊細」「丁寧」「緻密」「簡潔」。そんな価値観が、根底にある。日本とは、そういう国だ。
これは、海外では簡単に手に入らない価値観である・・
特別な職人の領域だけに高邁な意識を持ち込むのではなく、ありふれた日常空間の始末をきちんとすることや、それをひとつの常識として社会全体で暗黙裏に共有すること。美意識とはそのような文化のありようではないか。
もの作りに必要な資源とは、まさにこの「美意識」ではないかと、僕は最近思い始めている。これは決して比喩やたとえではない。ものの作り手にも、生み出されたものを喜ぶ受け手にも共有される感受性があってこそ、ものはその文化の中で育まれ成長する。まさに美意識こそ、ものづくりを継続していくための不断の資源である。しかし一般的には、そう思われていない。資源と言えば、まずは物質的な天然資源のことを指す・・

日本が提示する生活文化

2009年10月15日   岡本全勝
グラフィックデザインで有名な原研哉さんが、岩波書店PR誌「図書」2009年10月号に、連載「欲望のエデュケーション」の第2回「飽和した世界に向けて」で、次のようなことを書いておられます。
・・日本は多くの工業製品を世界に輸出する工業国であるが、その生産物がいかなる文化を育むかという視点でものを考え、表現することが少ない。文化は美術・芸術のみに根ざすものではなく、生み出される製品からどんな暮らしや営みが芽生え、またそれがどのような生活環境を育んでいくかを見極め、提示していくことが、世界の未来に影響を持つ。
これからの世界は、単にマネーの力ではなく、文化をともなった影響力のせめぎ合いになる。ものづくりの総量やGDPの大きさだけでは、影響力を持ち得ない。日本は、経済はもとより、人がいかに豊かに暮らしていくかというイマジネーションにおいても、大きな存在感を持たなくてはならず、そのためにはまず、自分たちのつくり出すものの文化的な意味についての多角的な考察やヴィジョンが不可欠になる・・・

社会を理解する型

2009年10月11日   岡本全勝
東大出版会PR誌「UP」2009年4月号に、鈴木博之青山学院大教授が、連載「近代建築論講義4」として、「建築の骨格と循環器」を書いておられます(古くなって申し訳ありません。読んだ時に書くのを怠ったので)。
・・近代は機械の時代であるという認識は、20世紀の常識だった。機械が近代を切り開き、機械のアナロジーが組織論から美学にいたるまで、時代の精神として広く用いられた。初期の機械は可動部分が目に見える、蒸気機関のようなハードウエアむき出しの機械だった。
しかしながら、20世紀後半になって、機械が電子化されてくると、古典的な機械の概念は急速に色あせていった。電子化された機器は可動部分がほとんど目に見えず、作動しているかどうかは結果を見て判断するといった状況になった。電子化した機械はハードウエア部分より、ソフトウエアに重要性があるのだった。
・・機械のアナロジーによって組織や美学を語ることは、現代ではほとんど意味をなさない・・
先生はこのあと、建築について、機械のアナロジーを議論しておられます。しかしこの議論は、先生がおっしゃっているように、私たちが、広く社会やものごとを理解する際の「型」に当てはまります。
「時代の精神」として言うならば、ものごとは、機械と同じように、個人や市民が理解できることです。そして、努力すれば作ることができるもの、改良できるものでした。機械のアナロジーは、ものだけでなく、社会の仕組みにも適用されるのです。「社会は、市民が改良できるもの」というようにです。
しかし、電子化されると、個人では理解不能、努力しても作ったり改良したりできないものになります。たとえば、機械式の時計の内部を見れば、子どもも、その動きが理解できます。しかし、電子時計では、分解しても、動きは理解できません。それが、身近な機械だけでなく、対象が社会一般に広がることはないでしょうか。
ところで、機械式の腕時計なら、スケルトンで中が見えるものも売れます。歯車の動きが、面白いのです。でも、電子式じゃ売れませんよね。見ていて、面白くないでしょう。