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社会

男らしさが生む中高年男性の孤立

8月2日の日経新聞「コミュニケーション不全の時代」、本田由紀・東京大学教授の「中高年男性の孤立 注視を」から。

・・・図は60歳以上の高齢者が対象だが、同様の傾向は年齢層を広げても見いだされる。ISSP(国際比較調査グループ)の17年の日本調査では、「悩みごとを相談できるような友人の数」を質問している。社会学研究の村田ひろ子氏の分析によれば、そうした友人が「いない」比率を見ると、男性の場合20代以下、30代、40代では順に12%、14%、23%だが、50代、60代、70代以上では順に37%、36%、53%と、中高年齢層で明確に多い。
女性では、「いない」比率が最も多い70代以上であっても27%にとどまり、60代で19%、より若い層では10%未満であることと比較しても、日本の、特に中高年男性の社会関係資本の少なさが突出しているといえるだろう。深刻な孤立であると言い換えてもよい。

社会的に孤立していても、充足感が得られていれば問題はないかもしれない。しかし同調査の40代、50代の男性において、「悩みごとを相談できるような友人の数」が2人以上の場合には「生活に満足している」割合は65%であるのに対し、1人以下の場合は46%と、約20ポイントの開きがある。
また、後期高齢者を対象とする調査データを分析した実践女子大学の原田謙教授の研究においても、特に男性において、友人数が少ない場合にメンタルヘルスや生活満足度が下がることが検証されている。さらには、悩みごと相談ができる友人が「いない」場合に、「排外主義的」な意識が高まるという計量分析結果を、成蹊大学の米良文花氏が示している。
ここからも、悩みごとを相談できるような友人が「いない」ことは中高年男性にとっても否定的な影響をもつことが推測でき、しかも「いない」比率が日本の中高年男性では相当程度高いのである。

さて、先のISSPの結果を考える上で重要なのは、「友人」ということに加えて「悩みごとを相談できる」という設問のワーディングである。「人前で弱みをさらけだしてはならない」ということは、日本に限らず、国内外に共通する「男性性」の重要な構成要素とみなされる。友人数の多寡には、学歴や就労形態、家族構成、団体所属、幼少期の経験など様々な要因が影響しているが、それらに加えて「男らしさ」の規範が、中高年男性の社会関係資本形成を阻害していることが容易に疑われる。
実際に、電通総研が21年に実施した「男らしさに関する意識調査」の結果では、「自分が抱える心配や不安、問題についてたくさん話す男性は、真に尊敬されるべきではない」という項目を「とてもそう思う」もしくは「そう思う」と答えた比率は、18~30歳と31~50歳ではそれぞれ34.6%、33.5%だが、51~70歳では42.3%と多くなる。
「私の両親は、本物の男は緊張したり怖いときでも、強く振る舞うべきだと教えた」割合についても、同じく若い方から順に27.9%、27.7%、35.2%と、中高年齢層でのみ高い。そして「人生の個人的・感情的な問題について気軽に話せる友人がいる」割合は、65.0%、52.0%、48.6%と、高い年齢層ほど直線的に下がるのだ。
同調査では、「男らしさ」の規範と社会関係資本の量との関係を直接的に分析しているわけではない。あくまで年齢層を媒介項とした間接的な関連ではあるが、日本の中高年男性における社会関係資本の少なさや性別分離の背後に、「男性性」の規範の問題が根強くあることの確実性は高いといえそうだ・・

・・・われわれが関心を払うべきは、これまで述べてきた日本の男性、特に中高年男性に見られる特異性である。「男らしさ」に縛られ、コミュニケーションや人間関係から疎外されがちな日本の中高年男性たちは、日本が抱えるもう一つの巨大な「ジェンダー・ギャップ」だといえるだろう・・・

宗教団体、居場所のない人の受け皿

7月31日の朝日新聞「元首相銃撃 いま問われるもの」、島薗進・東大名誉教授へのインタビュー「旧統一教会 政治と依存し合う」から。

――政治と宗教の関係をどう捉えればいいのですか。
日本国憲法に定められた政教分離とは、国家と宗教が結びついた戦前の国家神道の反省に立ち、思想・信条、信教の自由を守るための制度であり、宗教の政治的機能を排除するものではない。例えば、政治に格差是正を求めたり、環境破壊の是正を求めたりする宗教団体もある。公共空間における宗教の役割を重視する、そういう政治への関与はポジティブに捉えてもいいと考える。
だが、多くの被害者を生む宗教団体に政治家がメッセージを送ること、さらには支援することが、宗教団体の維持や勢力拡大につながるのは由々しい問題だ。特定組織の利益、ひいては市民に被害を及ぼす団体の利益のために政治が使われることになる。

――問題がある宗教団体に人々はなぜ入るのですか。
フランスはカトリック教会、北欧はルーテル教会、英国は国教会など伝統的な主流宗教が確固とした勢力を持つが、日本にはそれがなく新宗教が大きな勢力を持つ。
日本では、70年代くらいから「孤立しやすい個人」という傾向が強まり、若者が生きていく意味の空虚さに悩まされた。こうした「よるべない個人」が布教の格好の標的になった。
そのころから、社会との接点が薄くなりがちな、こうした人たちを対象に、勢力をのばす宗教団体が増えた。旧統一教会やオウム真理教がその代表だ。
現代社会でも、私利の追求を肯定する資本主義的競争を、社会全面に及ぼす新自由主義が広がっている。強い者勝ちの肯定、能力主義一辺倒と受け止められる。その結果、いつしか個人が孤立し、社会との接点を持てずに居場所がないと感じがちな社会になった。そこをある種の宗教団体につけ込まれると、一遍に深入りするという構造がある。

学者やマスコミの責任もあると思う。旧統一教会が多くの被害者を生み出してきたことを十分に啓蒙し、報道してきたか。政治的に強い側を味方につけている団体については、害悪があっても伝えにくいと社会から見られても仕方がない。

大谷翔平選手、104年ぶりの快挙

アメリカ大リーグ野球で、大谷翔平選手が、投手として2桁勝利、打者として2桁本塁打を達成しました。ベーブ・ルース以来、104年ぶりのことだそうです。すごいです。うれしいことです。

8月6日の日経新聞、安田秀一さんの「日本人が持つ可能性 なぜ大谷が生まれたのか」に次のような文章があります。

「なぜ日本からiPhoneが生まれなかったのか?」日本の昨今の経済の低迷を語る上で、象徴的に語られる言葉です。縦割り社会、官僚的体質、顧客目線より上司目線、などなどその原因は様々ですが、いまだに解決できていないからこそ、なかなか経済は発達しません。
では、「なぜ日本から大谷翔平が生まれたのか?」という視点でモノゴトを見てみるのはどうでしょう?!
勤勉さや真面目さが取りえの日本人が、器の大きなリーダーのもとに正しく最新の情報に触れて、懸命な努力を続ける。弱みが強みに変わり、大谷選手のような存在が各界から次々と生まれるのではないか?!
常識にとらわれない。上下関係をつくらない。世界の最新情報を手に入れる。若者の真の意見を聞く。
政財界のリーダーの方々には、「大谷翔平を見ろ! 日本の大空にキラキラ輝いているじゃないか!」という言葉をささげたいと思います。

この文章の前には、次のようなことが書かれています。

前回のこのコラムで僕は、「後進的と思われる日本のスポーツの現場からその競技をリードするような若者が現れているのはなぜだろう」と問題提起しました。いろいろ考えてみましたが、こんな仮説を考えています。
「日本人の特性とされる勤勉さ、真面目さにその理由があるのでは?!」
礼儀正しく真摯に野球に取り組む大谷選手の人柄からは、日本人の特性や美意識を強く感じます。我々日本人は自己中心的な考え方や感情的なふるまいを好みません。新型コロナウイルスの感染対策でも、欧米では法律で規制しましたが、日本はマスク着用を「お願い」するだけで、みんなが従いました。僕は、これまで日本のスポーツが追いつけなかったフィジカルで肩を並べたとき、こうした日本人らしい真面目さが優位に働いてくるのでは?と考えています。

ただ、そうした特性は自己主張や個性を嫌う同調圧力にもつながり、社会の進化を妨げる側面があることも否定できません。このコラムで僕はその弊害を何度も指摘してきました。つまり、もろ刃の剣なのです。一つ間違えれば我々の弱点となるこの特徴を、有効な武器として働かせるにはどうしたらいいのか?!
僕は、一にも二にも「情報」だと思っています。情報が入りづらかった島国の日本ですが、今はインターネットやスマホでいつでもどこでも世界の最新情報が手に入れられます。あふれるほど情報化が進んだ現代ではありますが、大谷翔平選手や佐々木朗希投手、あるいはボクシングの井上尚弥選手ら今までの常識を覆すような選手たちが、キラキラ輝くスポーツ界の北極星になるはずです。つまり、世界で活躍するトップアスリートたちが、正しい情報を見定める絶対的な基準になっていくと思っています。

スポーツ界を見ていると、情報統制型のリーダーは成果を上げられない時代になったことがよく分かります。既存の価値観にとらわれず、みんなで常に新しい情報をアップデートし、みんなで共有して試行していく。帝京大学ラグビー部の岩出雅之前監督がその筆頭ですが、そんな器の大きなリーダーがスポーツ界では結果を出しています。

「みんな違ってみんないい」のか?

「みんなちがって、みんないい」という言葉をよく聞きます。戦前の詩人、金子みすゞさんの詩にある言葉で、小学校の教科書にも載っているようです。
社会ではこれでは困ることを、「こども食堂3」で紹介しました。湯浅誠著『つながり続けるこども食堂』(2021年、中央公論新社)に次のような指摘があります。
「みんなちがって、みんないい」はよいことか。家族旅行に行くときに希望を聞いたら、父はハワイ、母は温泉、姉はディズニーランド、私はどこも行きたくない。では、みんなバラバラに行くのがよいのか。困りますよね。

山口裕之著『「みんな違ってみんないい」のか?――相対主義と普遍主義の問題 』(2022年、ちくまプリマ―新書)は、この問題を哲学の系譜で説明したものです。人や文化によって価値観が異なり、それぞれの価値観には優劣がつけられない」という考え方が相対主義であり、「客観的で正しい答がある」というのが普遍主義です。道徳と事実の二つにおいてそれらを議論します。
「正しさは人それぞれ」「みんな違ってみんないい」という主張は、共同生活で何か一つを選ばなければならない場合に、権力者の意向で結論を決めることを正当化することにつながります。「客観的に正しい答がある」という主張は科学や専門家の意見を尊重することですが、科学者の間でも一つに定まらないことがあります。科学もまた、科学者たちが「より正しそうな答え」を探し出すものです。

山口さんの答えは、共同作業によって正しさが作られていくというものです。社会における正しさは、各人が決めてよいものでもなく、権威ある人が決めてよいものでもなく、みんなで議論して「正しさ」を作っていくものです。

バラバラな人たちの病理

7月19日の朝日新聞「元首相銃撃 いま問われるもの」、宮台真司さんの「バラバラな人々に巣くう病理」から。

――なぜ(旧統一教会は)多くの信者を集めることができたのでしょうか。
「米国でも同時期、人工妊娠中絶や進化論を否定するキリスト教原理主義が影響力を持ち始めました。共通点は、資本主義が拡大するなかで、『不全感を抱く分断された個人』が量産されたことです。かつて就職や結婚から調味料の貸し借りまで生活の便益は、家族や地域の人間関係からなる生活世界を通じてのみ手に入りました。だが、市場や行政のシステムを頼るようになった結果、面倒がなく便利になった半面、人間関係が希薄になりました」
「20世紀半ばに社会学者ラザースフェルドは、中流化による豊かな人間関係が、健全な民主主義を支えるとしました。だが世紀末からのグローバル化による中流分解で、剥き出しになった個人が、不安とデマに直撃され始めました。そこにつけいる形で、独特の世界観で支持者を束ねる宗教団体が、集票力によって政治的影響力を増しました。かくして内政面では『政治の原理主義化』、国際的には『原理主義のグローバル化』が起きるようになりました」

――現状はどうですか。
「互いにバラバラで『呼んでも応えない周囲の人』と、システムが複雑化して『呼んでも応えない統治権力』は、不全感に駆られた剥き出しの個人を一定割合生みます。そこに、自分と社会の現況を説明し、生きる意味を含めた『確かな物語』を与えてくれるカルトが必ず巣くいます。95年のオウム真理教事件もそうでした。私は、95年の著書で『終わりなき日常を仲間とまったり生きろ』と、身近な人間関係を支えとする処方箋を示しましたが、状況は変わらないどころか、その頃からの経済停滞と生活世界の空洞化で、問題は深刻化しました」