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社会

韓国、ひとりご飯

11月19日の朝日新聞夕刊に「「悪くないね」 韓国、ひとりご飯の風景 友達がいない人…変わるイメージ」が載っていました。

・・・韓国ではかつて、ひとりでご飯を食べる人は良くないイメージで見られがちだった。「友達がいない人」といった具合に。でも最近は、ずいぶんと様子が変わってきている。

「おひとりさま対応」を売りに店舗を増やしている外食チェーンを、ソウル南部に訪ねた。
韓国で親しまれる「ポッサム」という料理。ゆでた豚肉を、キムチや他の野菜などと食べる。通常は2人分以上からの料理だが、その店先にはこんな表示があった。「1人ポッサム その感動をめざして」
店内にはカウンター席が並ぶ。お昼時、大学生や会社員らが訪れ、定番の「1人ポッサム」を注文していた。スマホ画面に目をやるなどしながら黙々と食事を終え、ささっと出て行く。
就職活動中の金俊怜さん(25)は時々訪れる。「友達がいない人」などと思われないよう、ひとりでの食事は避ける友人らが少なくなかったが、最近はそういうイメージは薄れたと感じる。「他の人の意見に縛られず、食べたいものを食べて、食事に集中できる。友達や家族との食事もいいけれど、自分だけで食べる時間も悪くないですね」
会社員の男性(28)は「前は恥ずかしいイメージもあったけれど、最近はひとりで食べられる店が増えてきた」とうれしそうだ。

韓国では「食事はされましたか」があいさつの言葉になるほどで、一緒に食事をすることで人と人との距離がぐっと近づく。その一方で、ひとりで食事をする人には否定的なイメージがついてまわった。それが変わってきたのはなぜか。
韓国社会の構造的な変化が背景の一つとみられる。少子化が深刻で核家族化も進み、単身世帯が3割以上を占めるようにもなった。
「1人ポッサム」の朴さんは言う。「親の世代は大家族で『みんなで一緒に』という文化だったが、我々の世代は単身世帯が増えて変わった。『個人化』が非常に進んでいる」
「個人化」は、若い世代を象徴するキーワードだと言えそうだ。経済学者で韓国・中央大教授の李正熙さんは「若い世代が就職時に強く望むのは時間通りの退勤。それだけ、自分の時間を大事にしたいということです」と指摘し、ホンパプの一般化の背景に、特に若い世代の価値観の大きな変化を読み取る。

韓国では飲み会で、ビールに焼酎などを混ぜて飲む「爆弾酒」で盛り上がるのが定番だったが、最近はそうしたスタイルになじめない若者も少なくない。50代の公務員は「私が若いころは先輩に『今日はいくぞ』と言われたら、『はい』以外の返事はなかった。今の若い世代にそんな考えは通じません」・・・

最後の段落は、日本と同様ですね。

介護福祉士養成、需要増なのに減少

11月17日の朝日新聞に「ケアワーカーがいなくなる?:1」「介護福祉士育む場、相次ぐ閉鎖」が載っていました。

・・・今年の3月、介護福祉科を唯一の学科としていた浦和大学短期大学部(さいたま市)が閉学した。運営法人の久田有・理事長は「学生数の減少に歯止めがかからず、苦渋の決断だった」と振り返る。学生が減っても教員を減らすわけにはいかず、人件費が経営を圧迫していたという。
久田理事長は、学生減少の背景に、少子化で若者が減っていることに加え、「仕事に見合った給与水準になっておらず、社会的評価が低い」こともあると考えている。
介護保険制度では、事業所に支払われるサービスの対価も、必要な職員配置なども公的に定められ、事業所が給与を引き上げる余地は乏しいのが現実だ。厚生労働省の21年調査によると、医療・福祉施設などで働く介護職員の所定内給与は平均で月23万6千円ほど。訪問介護でも約25万8千円で、全産業平均(約30万7千円)を大幅に下回る。

公益社団法人・日本介護福祉士養成施設協会(東京都)によると、会員の専門学校や大学、短大などを対象とする調査では、今年度の入学者は310校あわせて6802人(前年度比381人減)で、調査を始めた14年度(377校、計1万392人)以降最少に。会員の学校数310は前年度より10少なくなった。
協会に記録が残る1988年度以降、入学定員の総数が最多だったのは2006年度(約2万7千人)。調査を始めた14年度から減少が続いた入学者数は、17年に「介護」の在留資格が創設されたことなどで一時は増加に転じたものの、新型コロナウイルスで留学生の数も落ち込んでいる。
介護福祉士の国家試験を受ける人も、ピークの14年(約15万4千人)と比べて近年は5~6割にとどまる。同協会事務局長の山田洋輔さんは「介護福祉士の養成は、介護の質を高めるためにも不可欠。経営維持のための財政的な支援を、国には考えてほしい。このままでは介護の人材不足はさらに深刻になりかねない」と訴える・・・

・・・2000年4月に介護保険制度が始まってから、介護職員は増え続けてきた。しかし、現場を支えてきたベテランが高齢化する一方で、有効求人倍率はホームヘルパーで約15倍(20年度)などと高止まりしており、将来の介護職を育てるはずの養成校にも学生が集まらない。
厚労省によると、40年度に必要な介護サービスをまかなうためには、約280万人の介護職員が必要になる。19年度(約211万人)と比べて約69万人足りない計算だ。
高齢者人口が最多となる40年ごろに向けて増え続ける高齢者に対し、すでに現役世代(20~64歳)の減少は加速している。それでも介護職員を増やさなければ、誰のケアも受けられない人が大量に生まれる事態すら起きかねない・・・

日本人の身長、伸びが止まった

11月5日の日経新聞に「170.9センチの壁 日本人、すでに「身長の限界」に?」が載っていました。

・・・日本人の身長は戦後一貫して伸びてきた印象がある。しかし実際は30年近く横ばいが続き、すでに低下が始まっているという調査もある。日本人はもう大きくならないのだろうか。
文部科学省の学校保健統計調査によると、17歳の平均身長は1994年度に男性170.9センチ、女性158.1センチを記録して以降、2021年度まで30年近く横ばいが続く。平均身長は右肩上がりというのは思い込みのようだ・・・

男性平均は、縄文人159.1センチメートル、弥生人161.4センチ、古墳時代163センチ、江戸時代157.1センチだそうです。1896年から1996年の100年間に、男性が14.6センチ、女性が16センチ伸びました。これは、世界でも5指に入るのだそうです。
しかし、この30年間は伸びていません。経済成長と同じ傾向を示すのでしょうか。

外国語の本

神田の古本市に行って、次のようなことを考えました。
外国語の本が少ないのです。いわゆる洋書(英語やフランス語)はいくつか並んでいました。ここで取り上げるのは、中国語(古典漢文ではなく)や韓国語をはじめとするアジアの本です。

一つには、日本人は、アジアの国々のことを勉強していないのか、ということです。もちろん、たくさんの本が翻訳されていますが、原書を読む人はいないのでしょうか。
明治以来、欧米先進国から学ぶことを「国是」としてきたので、アジアの事情は一部の関係者と関心ある人だけが勉強しました。英語は必須としても、大学で学ぶ第二外国語はフランス語やドイツ語が多かったのではないでしょうか。

もう一つは、日本にたくさんの定住外国人が来ています。その人たちは、どこで本を入手しているのでしょうか。古本市で求める人は少ないでしょうが、ベトナム語、タガログ語、インドネシア語、ベトナム語などを母語とする人たちは、どこで本を買っているのでしょうか。
その方面に詳しい知人に聞くと、各国の食材店に雑誌や本が置いてあると教えてくれました。
各地の図書館には、どの程度、外国語の本が置いてあるのでしょうか。全国各地にいる外国人が母国語の本を手にとって見ることができるには、どうすればよいのでしょうか。「日本に来たのだから、日本語を勉強せよ」でよいのでしょうか。

11月9日の日経新聞1面には、「日本語教室「空白地域」46% 教師の4割、東京に集中」が載っていました。
・・・外国人労働者やその家族らが通える日本語教室がない「空白地域」が自治体の46%に上ることが文化庁の調査で分かった。教師の4割超が東京都に集中し、地方では指導者が不足。山形・三重両県は教師1人当たりの生徒数が東京の約9倍に上る。日本語を学ぶ機会の確保をうたった日本語教育推進法の施行から3年たったが、環境整備がなお進まない現状が浮かんだ・・・

所有欲求と存在欲求

NHKウエッブ「解説委員室」に、神野直彦・東京大学名誉教授の「人間が幸福になる経済を求めて」が載っています。1月5日に掲載されたようです。
そこに、人間の欲求には「所有(having)欲求」と「存在(being)欲求」があることが説明されています。

「所有欲求」とは、人間の外側に存在する自然などを、所有したいという欲求です。
「存在欲求」とは、人間と人間とが、さらには人間と自然とが、触れ合い、調和したい、あるいは愛し合いたいという欲求です。
「所有欲求」がみたされると、人間は、「豊かさ」を実感します。
「存在欲求」がみたされると、人間は、「幸福」を実感するのです。
工業社会とは、存在欲求を犠牲にして、所有欲求を追求した社会だと、いうことができます。
つまり、「幸福」を犠牲にして、「豊かさ」を追求した社会なのです。もちろん、それは人間の歴史に、忌わしく纏わりついていた欠乏を、解消する必要があったからです。
しかし、工業化によって、欠乏の解消が進むと、自然資源を多消費していくことに、限界が生じてきます。
しかも、所有欲求が充足されていくと、人間の人間的欲求である存在欲求が高まっていきます。

コロナ危機からの復興にあたって、「より良き社会への復興」や「新しい資本主義」が掲げられるのも、根源的危機を克服して、新しい人間の社会を形成する使命が、認識されているからだと考えられます。
しかし、そうした新しい社会のヴィジョンを、構想しようとすれば、「それで人間は幸福になるのか」という根源的問いを、発し続けなければならないはずです。
というのも、この根源的問いを等閑にし、「幸福」の追求へと社会目標を転換しなかったために、二つの環境破壊という根源的危機を、つくり出してしまったからです。
生活困窮も、所得貧困というよりも、生存を支える自然環境や、人間の絆が破壊されることによって陥っています。
そうした生活困窮をコロナ危機が深刻化させましたので、その救済は現金を配るだけでは不可能で、自然環境や社会環境が支えていた生存条件を整備しなければならないことになるはずです。