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社会

古語解説「気配り」

「気配り」とは、かつて日本にあったとされる慣習。
周囲の人が困らないように、あるいは行動しやすいように、自ら行動すること。相手の行動を予測し「気を配ること」から来た語。例えば通路で並ぶ場合は、端に立って他の人が通りやすくすること。
スマートフォンの普及によって、公共の場でもスマホに熱中し、周囲に気を配らない人が増えて、この言葉はほぼ死語となった。先の例で言えば、電車の扉近くに陣取りスマホに熱中し、他人の通行の邪魔になっても気づかない。通路でもスマホを見ながら歩き、他の人とぶつかるなど。

「気配りはやめよう」と、政府が推奨したり法律で禁止しても、ここまで徹底できなかったでしょう。
スマートフォンが普及して、まだ20年も経ちません。この短期間に、何百年も続いていたと思われる「気配り」の習慣が「絶滅危惧種」になるとは、スマホの威力はすごいです。その分野にノーベル賞やギネスブック認定があれば、第一位になるでしょう。

追記
読者から、次のような指摘がありました。
「気配り」は「仲間内ですること」としては生きているので。古語ではなく意味がずれた言葉(古今異義)なのでしょう。

「海外ルーツの子」?

「海外ルーツの子」と聞いて、あなたは、どのような子どもを思い浮かべますか。
3月23日の朝日新聞「海外ルーツの子へ、学習アプリを開発」に、次のような文章で出てきました。
「日本語指導が必要な子どもが増えている。海外にルーツがあり、日本で生活する子どもたちが、楽しく日本語や漢字を学べる方法はないか」
そして、記事の後ろには、次のような解説がついています。
「日本に暮らす、海外ルーツの子どもは増えている。20年の国勢調査によると、外国籍の19歳以下の人は29万5188人で、10年前の約21万人から8万人以上増えた」

私が疑問に思ったのは、「ルーツ」という言葉です。かつて、アレックス・ヘイリーの「ルーツ」という本が売れました。これは、確かアメリカの黒人がアフリカまでご先祖を探しに行くという話でした。
辞書には、起源、由来、先祖、故郷などが挙げられています。さて、この記事での「ルーツ」は、どれに当たるのでしょうか。

日本語が母語でない子どもたちを指しているようですが。
本人の生まれ育った地は、通常はルーツとは言いませんよね。出生地でしょう。「ルーツ」では、親や祖先が生まれ育った地で本人の出生地ではない国を想像します。しかし、「在日」と呼ばれる人たちの3世は、「海外ルーツの子」に入るのでしょうが、多くの子どもは日本語を話すと思います。
カタカナ語は、意味が曖昧なことが多いです。新聞記事がそれを助長するのは、困ります。

会社による社会保障国家の限界

3月14日の朝日新聞夕刊、浜田陽太郎記者の「休職体験への指摘 「正社員」の私、分断を自問」から。

・・・やはり来たか――。予想はしていたが、グサッと刺さった。
「55歳の『逃げ恥』体験」という記事を、朝刊リライフ面で連載している。
「自分は会社で役立っていないのでは」と悩んだ私は「自己充実休職」という制度を使って1年間、九州・大分で過ごした。その体験を軸にした記事だ。デジタル版では昨年末、同じストーリーをより詳しく書き込んで配信している・・・
・・・「正直、共感するポイントを探すことが難しい」。私の記事にこんなコメントを寄せたのは、人類学者の磯野真穂さんだった。
任期無しの正社員に一度もなったことがない磯野さんにとって、落下しても「ふかふかの羽毛布団と高級マットレス」が待ち構えている人(つまり私)と、「冷たいコンクリート」がある人(任期付きで働く多くの非正規労働者)が存在することをあらわにされた気持ちはぬぐえないという厳しい「感想」だった。
ただし、磯野さんは、こうした思いを言葉に出すことの危うさへと論を進める。「あなたよりもっと大変な人がいる」という語り口を進めれば「不幸の総量」が発言力を決める事態に陥るからだ。個々人の感じる苦しさを重量のように比べる議論は分断しか生まない……。・・・

・・・ 最近、ある有識者から、子育てや住宅の分野で日本の社会保障が立ち遅れたのは「それはカイシャ(会社)が面倒をみるべきもの」という規範意識が岩盤のようにあるからだ、と指摘された。
カイシャが面倒をみるのは正社員のみ。その枠から漏れる非正規労働者には「冷たいコンクリート」しかない状況を変えるため、政府にお金を預け(税金を払い)、社会保障を充実すべきだとの主張はこの岩盤を崩せていない、という。
正社員にも切実な不安や苦しみはある。だが、その吐露を批判されるのは嫌。黙って岩盤を守っている方が得策。そんな気分が自分にないか、自問自答するところから始めている・・・

人は何に従うか

3月13日月曜日から、マスク着用についての政府の推奨が、「着用が望ましい」から「いくつかの例外を除いて個人の自由」に変わりました。新聞テレビでも報道されていますが、ほとんどの人は依然としてマスクをつけているようです。政府の要請は、無視されているのでしょうね。着用の推奨は、受け入れられたのに。
面倒を増やす呼びかけが受け入れられ、楽にする方の呼びかけが無視されるという、不思議な現象です。

駅のエスカレーター、「右側を空けずに、立ち止まって2列で乗ってください」という放送は、ほとんど無視されています。右側が空いて、左にエスカレータを待つ長い列ができているのは、誰が考えても非効率ですよね。
「スマートフォンを操作しながら歩くのは危険なのでやめてください」という放送も、かなりの人が無視しています。これは効率の問題ではなく、安全の問題です。でも、無視されています。

高校野球の入場行進

3月18日から春の高校野球が始まります。17日のテレビニュースで、入場行進の予行演習風景が報道されていました。
でも、この入場行進と予行演習って、誰のために、何のためにやっているのでしょうか。きちんと整列して行進することは、球児たちにさほどの意味があるとは思えません。さらに、そのために前日に予行演習をするとは。軍隊を連想させます。
観客のためでしょうか、大会役員の自己満足でしょうか。

夏の大会では、あの炎天下で野球をすることも、非人道的ですよね。
私も野球は好きですが、これらの行事は、目的をはき違えているように思えます。ほかの競技や、他国ではどのようになっているのでしょうか。