少し古くなりましたが、11月3日の朝日新聞オピニオン欄「ネットで文字は売れるか」、中川淳一郎さん(ネットニュース編集者)の発言から。
・・先月末、元AKB48の前田敦子がツイッターを始めたところ、あっという間に何十万ものフォロワーがつきました。元モーニング娘。の辻希美のブログには、何万人もの読者がついています。
一方、2008年に朝日新聞、読売新聞、日本経済新聞が立ち上げた「あらたにす」というサイトは、今年2月末に閉鎖されました。1面の記事や社説を読み比べできるのが売り物でしたが、世の中の人は、社説より女性タレントのつぶやきに関心があるんです。
なんでそんなものにと思うかも知れませんが、思う方がおかしい。パチンコ屋に朝から並び、おバカタレントの珍回答に大喜びしている日本人がなんと多いことか。各社の社説に関心があるなんて人の方がマイノリティーです。
私は、ネットにニュースをアップする編集者です。言葉は悪いですが、あえて言います。日々の仕事は、押し寄せるバカとの闘いです。恐ろしいことに、ネットはバカに発信力を与えてしまった。こちらのちょっとした物言いに「傷つく人がいたら、どうするんですか!」と妙な義憤にかられて怒る。騒ぎに便乗し、サイトを炎上させて喜ぶ。以前は無視しとけばよかったが、今はバカの意見が拡散する。結局、まともにやってるこっちが謝罪するはめになる。
私はもう、良質な客を相手に格調高いコンテンツを提供しよう、などと考えるのはあきらめました。まあ、私もバカのひとりだし、ネットは暇つぶしでもあるから、もっと気軽なB級ネタを出すように心がけています。絡んでくる人がいても、ページビューを稼いでくれる、いい客だと思うことにしています・・
読んでもらうためには、女性タレントのブログやツイッターにコメントを寄せて喜んでいる人たちが食いつくレベルまで下げること。たとえ、それが下品であってもB級に徹することです・・
う~んと思いますが、事実なのでしょうね。学者や評論家が理想論やお堅いことおっしゃっても、多くの日本人はいえ世界中で、そうなのでしょう。さて、どうするか。
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意見が違う者の間の同調と理解
平田オリザ著『わかり合えないことから―コミュニケーション能力とは何か』(2012年、講談社現代新書)を読みました。表題にあるように、最近コミュニケーション能力が求められるけれども、わかり合うとはそんなに簡単なことではないことが、書かれています。
私流に理解すると、次のような主張です。
100人いれば、100人それぞれ考え方に違いがあります。いえ、2人でも、考え方が違います。夫婦の間ですら、嗜好に違いがあるのですから。洋食が好きか、和食が好きかとか。
その違いを無視して、相手のことをすべて理解しようとするのは、無理です。すべて理解する、あるいは理解してもらうのは、相手またはその集団に「同一化」「同調」することです。かつての、日本のムラ社会や会社への同調です。自己主張を殺して、大勢に従います。あるいは、奥さんの言うことに異論を唱えず、「服従すること」です(笑い)。
中高年の管理職が若者に求めるコミュニケーション能力は、実は「俺が言わなくても察してくれよ」「場の空気を読んで、反対意見を言うなよ」という、組織への同調です。意見が異なるものの間での、コミュニケーションではありません。
平田さんの主張に関しては、このHPでも取り上げました。「会話と対話と論戦と」(2012年7月14日の記事)。
私が考えるコミュニケーション能力とは、まず、自分の考えや好き嫌いを発言することです。黙っていて、「察してくれ」は、永年一緒に暮らしている夫婦でも難しい場合があります。次に、相手の主張を聞くことです。それを聞かずに、先回りして準備しても、間違っている場合があります。そしてお互いの意見を言い合った後、ここは同意するが、そこは同意できないということを、お互いに認識することでしょう。その後に、どちらの主張に合わせるかは、力関係によって決まります。会社では、部下は上司の意見に従い(いやなら辞める)、夫婦の場合は、夫が妻に従います。通常は。
大学入試は何のため
10月23日の日経新聞1面連載「大学開国」は、「入試は変わるか」でした。
・・多くの生徒が難関大に進む高校から、現行入試への疑問の声が相次ぐ背景には、時代が求める能力と入試で測られる力のズレがある。
「高校の国際化の障害は入試だ」。埼玉県立浦和高の関根郁夫校長は言う。英国のパブリックスクール(私立名門校)と交換留学協定を結ぶ同校。過去6人の生徒が渡英し、全員がケンブリッジなど英有力大学に進んだ。
課題は、受け入れだ。英国生徒の来日は、2008年度が最後。「高校の授業は、日本の大学にしか通用しない入試対策が中心。生徒同士の議論などが少なく、海外の高校生にはつまらない」と同校長。知識の活用力も問う入試への転換を提言する・・
う~ん。国内で勝負するか、世界で勝負するかのズレですね。
成功の負の遺産
9月15日の読売新聞解説欄、東京大学学長室顧問のステファン・ノレーンさん(元駐日スウェーデン大使)のインタビュー「秋入学、東大改革の好機」から。
「大学の国際化は、不可欠な時代になったのか」という問に対して。
・・日本の大学も企業も、グローバル化が進む世界で、競争にさらされている。国際的な感覚や語学力などを身につけて行かないと、日本は負けてしまうと思う・・
「学生に限らず、日本の政治や社会も内向きになっていると言われる」という問に対しては。
・・日本はある意味で、自信の成功の犠牲者と言える・・
「成功体験にとらわれているという意味か」
・・その通りだ。日本は戦後、自力で国を再建し、経済成長した。だが、同じ方法はもう通用しない。経済は一段と国際化している。企業はその流れに乗っていくしかない・・
「変わるしかないと」
・・米国のケネディ元大統領の言葉を引きたい。彼は「変化は人生の法則だ(チェンジ・イズ・ザ・ロー・オブ・ライフ)。過去や現在しか見ない人たちは、必ず未来を失う」と言った。私は社会の変革の必要性を話すとき、いつもこの言葉に立ち返る。日本は1950年代から90年代にかけ、偉大な成功を手にした。しかし、私たちはもう50年前の世界には戻れないのだ・・
ソーシャル疲れ
7月30日の読売新聞オピニオン欄、鈴木謙介関西学院大学准教授の発言から。
・・ツイッターやフェイスブックをはじめとするソーシャルメディアの普及とともに、「ソーシャル疲れ」と呼ばれる現象が目に付くようになってきた。ソーシャルメディアをしじゅうチェックしていないと不安になるとか、人間関係の維持が面倒になってしまうとか、そういった出来事の総称だと思えばいいだろう・・
友達といっても、職場の同僚や学生時代からの付き合いの親友、恋人や配偶者に紹介された人など、いろんな領域に広がっているものだ。それらの領域がお互いに切り離されているからこそ、相手との付き合い方をコントロールすることができるのだ。しかしソーシャルメディア上では、友人は皆同じように自分の書き込みを読む。それでも私たちは、学生時代の友人と職場の同僚では異なった顔で接しているから、ソーシャルメディア上でもその使い分けを意識しなければならない。そうしたところに「ソーシャル疲れ」の一因がある。
また、ソーシャルメディアでは、自分の友人たちがいま何をしているのか、リアルタイムで知ることもできる。そのことが、ユーザーにとってある種の孤立感を生む原因になっているのではないか。
私たちが行った若者向けの携帯電話の調査からは、携帯電話を手放せなくなってしまう原因として、幅広い交友関係を持ちながらも、自分がその人たちから仲間はずれにされているのではないかという孤立感があることがわかっている。もしも、ソーシャルメディア上で、自分の友達が別の友達と仲良く遊んでいる書き込みを見たとしたら、おそらく携帯電話以上に孤立感を覚えることになるだろう・・