23日の毎日新聞社説は、「資本の経営監視は強くなる」でした。
・・株式会社を主体とする資本主義においては、これまで長く、資本と経営の分離がいわれてきた。特に日本では、1960年代後半の資本自由化に備えて企業間の株式持ち合いが進んだ。経営者は株主として運命共同体となり、互いに批判せず、経営に対する株主の発言権は実質的に失われていた。
米国では1980年代に、年金基金などの機関投資家の株式保有が進むと同時に、企業の合併・買収の失敗などが相次いだ。機関投資家は、資産の安全を確保するために経営への監視を強めた。現在、日本に参入しつつあるファンドも、このころに誕生している。
日本でも、バブル経済崩壊以降、企業の株式持ち合いが崩れた。経営者は運命共同体ではなくなった。また、多くの企業の倒産で、株主は多大な損失を被った。こうして日本でも、株主による経営監視が重視されるようになった。同時に、財務分析能力や経営能力を備えたファンドが、投資家を束ねる大株主として登場してきた。
・・資本と経営の分離という時代から、資本による経営の監視の時代に移りつつある・・
なるほどと思いました。
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社会と政治
自殺対策
21日の読売新聞は、「自殺対策待ったなし、3万人の命を救え」を、大きく解説していました。2005年まで連続8年で、自殺者が3万人を超えています。何度も書きますが、この数は交通事故死亡者の3倍を超えています(「新地方自治入門」p166)。しかも、この数字は把握された数だけです。この自殺率はアメリカの2倍、イギリスやイタリアの3倍だそうです。
そのうち男性が7割、女性が3割です。男性の自殺理由は経済と生活問題で、女性は健康問題です。
戦後教育学批判
朝日新聞5月12日「自省する戦後教育学、閉鎖性・運動との結びつきに批判」から。
政府の教育再生会議の委員には、教員経験者はいても教育学者はいない。このことについて、苅谷剛彦東大教授は、「戦後教育学の敗北」と表現する。「雇用制度を議論する審議会に労働法学者がいなければ、世の中は批判するだろう。しかし、教育問題では、専門家は不要と思われている」。
広田照幸日大教授は、「社会科学・人文科学の一分野として考えると、教育学は閉鎖的で、その水準もはなはだ心寒い」と現状を批判した。理由として広田教授は、戦後教育学がもっぱら日教組など革新側の運動と結びついて研究を深めてきたこと、「子どもの発達」など独自の「教育固有の価値」を学問の足場にすえたため、他分野との交流が難しかったことを挙げる。政治や経済が教育に及ぼす影響も「子どもの発達をゆがめる」と頭から否定するため、影響の分析自体に消極的だった。
一方で80年代以降、管理教育批判が起き、思想的にも学校や教師の権力性が批判される。かつて親や子の側に立って国家権力と対決すると考えられていた教師が、権力側に立って子や親を抑圧する存在と見られるようになった・・
消費の飽和状態。変化への遅れ
日経新聞22日鈴木敏文さん(コンビニの「セブンイレブン」・スパーマーケットの「イトーヨーカ堂」元社長といった方がわかりやすいですね)の「私の履歴書」から。
・・1992年、世の中はバブル崩壊後の低迷期に突入していた。総合スーパーは成長が鈍化した。「ものが売れないのは不景気のせいだ」と、誰もが考えた。しかし本当はそうではなく、80年代を通して進行した消費構造の変化、売り手市場から買い手市場への変化が本格化したと、私は思った。
お金がないから買わないのではなく、欲しいと思う商品がないから買わない。実際、世帯の月平均可処分所得は90年代も伸び続け、一番高かったのは96~97年ごろだ。デフレも進行し、「安くなければ売れない」と誰もが言ったが、安くても既にある同じようなものはいらない、と考えるのが消費の飽和状態だ。
通常1着3万円以上するスーツを海外で大量生産し、8,200円の常識破りの価格で売り出したことがある。5日間で11万着売れたが、第2弾は不発に終わる。顧客は「新しい仕掛け」に価値を認め、第2弾の同じ企画にはもう価値を認めなかった。
・・90年代後半から、ヨーカ堂では衣料品部門の業績は下降するが、その要因は消費マーケットが変化しているのに、過去の成功体験で対応しようとしたところにあった。人間は、環境が厳しくなるほど、過去の経験に縛られてしまう。意識を変え、行動につなげることは、本当に難しい。
日本でのミクロの希望とマクロの希望
17日の東京新聞「即興政治論」は、宇野重規准教授が、「今の日本、希望を持てますか?」に答えていました。
・・2千人を対象に行ったアンケートでは、8割の人が何らかの希望を持っていると答え、さらに6割は漠然とした希望ではなく、将来実現の可能性のある具体的な希望を持っていると解答しました。私たちは希望額プロジェクトを始めた時点で、「今は希望がない」という大前提で議論を始めましたから、これは意外でした。
今、若い人には希望がないという議論がされていますが、調査をすると、若い人の方が希望があり、お年寄りほどありません。
5年以内に自動車を買いたいといった、個人レベルの「ミクロの希望」と、より大きい例えば日本社会がどうなるのかといった、「マクロの希望」を区別して考える必要があります。日本が経済復興を果たし、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われたころから、日本社会に希望があるかないかというマクロの希望はあまり議論されなくなり、もっぱら個人としてのミクロの希望が語られるようになりました。マクロの希望が再び議論されるようになったのは、バブル経済崩壊に伴って、ミクロの希望が頭打ちになったころからです。ただ、個人の不満が高まっているところで、国策としてマクロの希望の回復が語られるのは、健全ではありません。
・・個人にミクロの希望がない時代には、ヒトラーのように、大きなビジョンとして偽りの希望を示し、人々を引っ張っていこうとすることは、往々にしてあることです。ミクロの希望の行き詰まりを、マクロの希望で解決しようとするのは、ナショナリズムも同様です。
健全な希望を回復するためには・・・悪条件を一つ一つ取り除き、個人の希望が社会的につながっていくのを助けることが、政治の役割ではないでしょうか。政治が能動的に大きな希望を提示するのは、ちょっと違うのかなと思います。