カテゴリー別アーカイブ: 社会と政治

行政-社会と政治

非政府組織の役割

7月4日の読売新聞言論欄、長有紀枝・難民を助ける会会長の「人道支援や問題提起 NGOが抱えるもどかしさ」から。

・・・非政府組織(NGO)の役割とは何でしょうか。
「政」が予算の優先順位をつけ、「官」がそれを遂行します。この過程で切り捨てられるものも決まる。この決定は誰かがしなければならないことであり、悪いとは言いません。ただ、取りこぼされる人や、日の当たらない問題が出る。そこに光を当てるのがNGOの役割だと思っています。
「全体の優先度は低くても、誰かにとっては死活問題だ」という認識や想像力を持つのは多様性を重んじることに通じます。
NGOに対しては、「あなたたちは誰からも選ばれていない。勝手にやっている」という批判があります。でも、選挙で投票してくれた多数の人を代表する「政」とは別に、少数の人の立場を代弁する。あるいは、後回しにされがちだったり、まだ争点になっていないが構造的・潜在的だったりする問題を提起し続けることこそがNGOの存在意義ではないでしょうか。
NGOの活動は、助けを必要としている人や地域への支援と、何かについて声を上げる啓発に大別できます・・・

・・・カナダ政府高官から、「長年の活動を通して、政府とNGOのパートナーシップは対等でないと機能しないことを学んだ」と聞いたことがあります。この対等の関係を築くことが日本では難しい。
「難民を助ける会」は1979年、初代会長の相馬雪香がインドシナ難民支援を目的に始めました。相馬は、「議会政治の父」として知られる政治家・尾崎行雄の三女で、「政」「官」に知己が多かった。ところが、一緒にやろうと働きかけたら「それは官の仕事だ。民は余計なことはせんでもいい」と相手にされなかった。
この「民は余計なことはするな」というメンタリティーはいまだ、日本の官の一部に根強く残っていると感じることがあります・・・

国家と市民との関係、欧米と日本の違い

6月26日の朝日新聞オピニオン欄、佐伯啓思先生の「対コロナ戦争」から。
・・・この1年半、私の印象に残ったことのひとつは、この事態に対する日本と欧米の反応の相違であった。都市のロックダウンや違反者への制裁なども含む強力な措置をとった欧米に対して、日本の「自粛要請」はかなり際立った対照を示していた。専門家の見解を聞き、世論に配慮し、経済界の意向を確かめ、国会で野党と論議をし、その上で「緊急事態宣言」を出す、というのが日本政府の対応である。しかもほぼ強制力を伴わない自粛の要請である・・・
・・・通常の場合には、政府の強権を批判し、個人の権利を強く唱える野党や多くのメディアが、今回のような「緊急の状態」を前にして、政府の「中途半端さ」を批判し、断固たる態度を取れと訴える。では、欧米のような強力な私権制限の権力を政府に与えるべきだというのかと思えば、そうではない。有効な対案は出てこない。私はあまり政治的な色分けは好まないが、便宜的にいえば、いわゆる「リベラル系」の政府批判にこの傾向を強く感じた・・・

・・・こういうところに、欧米の国家観もしくは「国家」と「市民」の関係が典型的に示されているように思われる。たとえば、西洋近代社会の思想的基礎を与えたとされ、日本でも一時期は戦後民主主義のバイブルのようにもみなされたルソーの社会契約論をみてみよう。彼はいう。自然状態では、人々は様々な意味で生命の危機にさらされる。そこで、ある契約を行って自らの生命を共同で防衛すべく社会を作った。それは、個人の自由がより高度の次元で実現できるような契約社会である。ということは、この社会が何らかの脅威に晒された場合、人々は、自らの生命・財産をこの社会に全て委ねて社会の共同防衛にあたらなければならない。ここに政治共同体としての国家が作られるが、国家とは、まずは生命や財産を共同で防衛する共同体なのである。

ルソーの社会契約論は西洋思想の中でも特異なものであり、歴史的にこのような契約などどこにもなかったが、それでもこの思想は、西洋における「国家」と「市民」の関係を典型的に示す論理となっている。市民は私的な権利を持つ。そのことは法的にも保障される。しかしその法を確保するために人々は共同で国家を創りだした。つまり政治的共同体を創出し、自らをそこに投げ入れた。したがって市民と国家の関係は二重になっている。一方で、市民の私的権利は国家の干渉から守られなければならない。しかし他方で、この国家(共同社会)の秩序が危機にさらされた時には、市民は最大限の公共精神を発揮して国家のために役立たなければならない・・・

・・・先に、私は、日本の「自粛要請」と欧米の「国家の強権」を対比したが、この「対比」の背後にある違いを見据えることは大事なことだと思う。善かれ悪しかれ、日本には、西洋の歴史伝統が生み出した国家意識はない。それはまた市民意識の欠落をも意味している。人間に脅威を与える「自然」との対決において「国家」という政治共同体を理解するような考えは日本にはまずない。国家という政治共同体は、日本ではほとんど自生的に生まれ、いつもそこにあるもので、それが「自然」との対決で作り出されたという意識はほとんどない。「自然」との対決とは西洋流にいえば「戦争」である。自然災害も、感染症も、他国の侵略も共同社会への脅威であり、それは「戦争」なのである・・・
原文をお読みください。

引き下げデモクラシー

「引き下げデモクラシー」という言葉を、ご存じですか。宮本太郎著『生活保障ー排除しない社会へ』(2009年、岩波新書)を読み返していて、再発見しました。28ページとあとがきに出てきます。
・・・やみくもに特権や保護を叩き、これを引き下げることで政治的支持を拡げようとする言説である。あるいはそれを見て溜飲を下げる態度である・・・こうした政治スタイルが横行するのは、政治が人々の利益をまとめ上げていくビジョンを示すことができないからである・・・

「引き下げデモクラシー」は、丸山真男先生が、『「文明論之概略」を読む』で使われた言葉です(原典に当たろうと思いましたが、丸山先生の本がどこに埋もれているのか、行方不明です。当たりを付けた場所から見つからないので、今回は断念)。
宮本先生には、麻生内閣の際に、安心社会実現会議委員としてお世話になりました。連載「公共を創る」でも、参考にさせてもらっています。

オリンピック開催の判断の意味

6月12日の朝日新聞オピニオン欄「五輪はどこへ」、佐藤俊樹・東大教授のインタビュー「中途半端な国、日本」から。
――「やると決まっているからやる」に見えます。
「日本社会は『撤退戦』がとても苦手です。日中戦争や第2次世界大戦もそうです。撤退や方向転換した方がよい状況になっても、やめられずに損害を出し続ける。何かをやるときには損得勘定をきちんとした上で、『どういう状況になったらやめるか』を明確にする必要があります。でも、『そういうことをちゃんと考えていますか?』と聞くと、後ろ向きな消極派呼ばわりされます」

――政治家の能力の問題でしょうか。
「一つは、日本の公共部門の小ささでしょう。迅速にデータを分析し、政策に反映するという作業をする態勢は弱体化しています」
「もう一つは、政治家が『やるべきこと』の変化に対応できていないからだと思います。長い間、政治はパフォーマンスが重要で、有権者もそれに反応してきました。『政治ショー』が通用したのは、政治がどうあれ、社会の一定の秩序や豊かさが維持される前提があったからです。だから政治家も本当に『命にかかわる重大な決定』をやらずにすんできた。ところが新型コロナによって、政治家の決定は、生活や命に直結するものになった。でも与野党ともにそういう経験がなく、従来の『政治ショー』のスタイルをやめられないようです。東日本大震災でも、当時の民主党政権は党内の政争に明け暮れ、有権者の怒りを買いました」

――五輪や新型コロナ対策についても、政治に対して厳しい目が向けられました。
「問題の深刻さを共有しているように見えないことが、不信感の大きな要因でしょう。今の日本にとって五輪開催と新型コロナ対策はそれぞれ、国の総力をあげて取り組むしかない大きな課題です。両方やろうとすれば『二兎(にと)を追う』ことになる。だから、政府や自民党が『開催』にこだわればこだわるほど、感染対策に本気で取り組んでいないように見えます。そもそも、今の日本には、二兎を追うことは難しい」
――なぜですか?
「日本はもはや、大国ではありません。高度成長期であれば、もしかしたら二兎を追うことも可能だったかもしれません。でも、少子高齢化が進み、公務員の数を欧米よりも抑え、増税にも踏み切れない。お金も人も、余裕はないのです。その現実を、正面から受け止めなければなりません」
「それは政治のせいだけではなく、有権者の選択でもありました。もともと日本は公共部門の小さい国だったのに、ちゃんと数値も見ずに『ムダを追及する』といってさらに縮小させた。公立病院は2019年までの10年間で74も減り、明らかにコロナに影響しています。民間病院に公立病院並みのコロナ治療をやれというのが本末転倒で、まず『公立減らしは誤りだった』と認めるべきでしょう。『減量策』自体を否定しているわけではありませんが、選んだのだから結果も自己責任。二兎を追うことは、最初からすっぱり諦めるべきだったんです」

デジタル時代の自己情報の所有権

5月14日の読売新聞、トーマス・イルベス・エストニア前大統領の「私のデータ 私に所有権」から。
・・・エストニア人は半世紀にわたり、ソ連という警察国家で全体主義的に統制され、プライバシーを侵害された。だから、(1991年の独立後に進めた)行政のデジタル化では、透明性を確保して国民の信頼を得る必要があった。

全ての国民は健康や徴税、財産など自分に関する全てのデータの所有権を持たなければならない。具体的にはまず、誰があなたのデータを見たか知ることができなければならない。自分のサイトで、誰があなたの情報を見たのかが分かるようにする。
誰がどのデータを見れば合法的で、誰がどのデータを見れば違法になるのかも決める。例えば、私は自分の医療データを見ることができるが、医者以外の人は見られない仕組みにする。警察は私の交通違反の記録を見ることができるが、健康に関する記録は見られないようにする。

これらを保障するためには、データがどのように入手されたかが記録されていなければならない。こうした透明性の確保やデータ保護を進めるかどうかが、民主主義国家と権威主義国家の大きな違いだ・・・