カテゴリー別アーカイブ: 社会と政治

社会と政治

社会基盤としての企業のサービス

単文を投稿する「ツイッター」(現在はXと言うそうです)で、自治体の投稿ができなくなる事態が起きているとのことです。大雨の際に投稿できなくなりました。NHKウエッブ。ツイッター社が設定している制限に引っかかったらしいのです。「同じような内容の投稿が問題ととらえられたかもしれない」という分析もあります。

このようなソーシャルメディアは、民間企業が提供しているサービスです。しかし、災害時には、有用です。使っている自治体は、困るでしょう。
思いつくのが、災害対策基本法が定めている指定公共機関です。防災行政上重要な役割もつ公共的機関や会社を、内閣総理大臣が指定しています。鉄道、電気、ガス、通信会社、コンビニなどが指定されています。災害時には、協力してもらうのです。
通信会社が指定されているのなら、ソーシャルメディアも指定できないのでしょうか。国内企業でないと、指定できないのですかね。

ウクライナ、民主主義は建国以来の平等と「成り行き」背景に

7月19日の朝日新聞オピニオン欄、セルヒー・プロヒー米ハーバード大学ウクライナ研究所長へのインタビュー「民主主義は建国以来の平等と「成り行き」背景に」から。この発言に、納得します。多くの政策選択において、時には憲法体制の選択でも、長期間の慎重な議論を経て作り上げたのではなく、その場その場の成り行きで決まったことが多いのです。

――なぜロシアや他の国と違って、ウクライナは民主主義に進んだのでしょうか。
「その謎を解くには、歴史をさかのぼる必要があります。ウクライナの建国神話は、近世のコサックの存在抜きには考えられません。ウクライナ国歌でも『我らはコサックの一族だ』とうたわれるほどです。コサック社会は、平等と民主的手法に基づいていたと言い伝えられます。このような認識が、現代の民主的な社会を築く意識を支えたといえます」

「ウクライナは、ロシア帝国やハプスブルク帝国など外部の大国に分断された歴史を持ちます。地域によって発展の形式も度合いも異なり、他を制圧するほど力を誇る地域も存在しない。これらの多様な地域が集まって独立国としてやっていくには、民主的な政府が最も機能しやすかった、という面もあります」

「この状況は、18世紀建国時の米国と極めて似ています。全体を支配下に収めるほど有力な州がなく、結束を保つ手段として妥協と民主主義が使われたのです」

――つまり、ウクライナも米国も、市民が闘争の末に民主主義を勝ち取ったというより、民主主義が最も都合のいい手法だったと。
「いわば『成り行き民主主義』ですね。ただ、成り行きで成立した民主主義は、意図して選んだ民主主義よりも、しばしばうまくいきます。逆に、無理して民主主義を選んでもなかなか機能しない地方が、世界にはありますし」

最初から完璧を求める社会

7月15日の朝日新聞夕刊、藤田直哉のネット方面見聞録」「マイナ問題、世代分断と完璧主義を越えて」から。

・・・もちろん、個人情報は保護されるべきで、不利益を被る人が少ない方がいい。だが、そのことによってデジタル化(DX)や効率化が進まないことの損失も大きい。ここには、単なるシステムの不備よりも、大きな社会的・政治的ジレンマが横たわっているように思われる・・・

・・・二つ目は、細部にこだわりがちな日本社会の神経症的な性質と、IT業界やシリコンバレーなどの「やってみて、ミスがあったら修正していく」やり方の齟齬である。IT系のサービスは前例がないことも多いので、最初からミスなく提供することは困難である。だから、サービスを始めて、問題があったら修正していくという手法を採ることが多い。それに対し、日本は、企業や行政に最初から完璧であることを求めがちであり、組織も防衛的になりがちである。しかし、もはや日本はバブル崩壊前のように豊かではなく、人材の数にも余裕がない。産業構造も大きく変わった。かつてのように細部にこだわり完璧を求める文化を維持するだけの体力がないのかもしれないし、それに合理性もないのかもしれない。

現状の危機感を、年長世代も理解し、協力する姿勢が、分断や敵対を越えるために必要である。そして、政府が「ミスがあれば必ず補償する」と約束し安心感を醸成することを前提に、最初から完璧を求めるのではなく、多少のミスを織り込んだ上でダイナミックな改革を進めていくことに対する国民的な合意と文化を形成していく必要があるのではないだろうか・・・

複数国籍を認めない国

7月12日の朝日新聞オピニオン欄に「複数国籍認めない国」が載っていました。

宮井健志さん(政治学者)の発言から。
・・・複数国籍を何らかの形で容認する国は北南米、欧州、アフリカに多く、現在、世界では8割近くに上ります。欧州ではドイツやオランダなど複数国籍に制限的な国もありますが、EU加盟国出身者や配偶者などには認めています。
自国民が出生後に外国籍を取得した場合に国籍の喪失を定めた国は、1960年に62%を占めましたが、2020年には22%に減少しました。複数国籍の容認に向けた国際的な機運があったわけではなく、各国がそれぞれ判断した結果です。複数国籍を厳格に認めない日本はいまや少数派と言えます。

出生地主義や国際結婚による生まれつきの複数国籍は権利として広がっており、それについては日本も事実上、黙認してきました。一方で日本は、出生後に外国籍を取得した自国民に対しては例外なく日本国籍の喪失を定め、外国人が日本国籍を取得する場合にも原則的に国籍離脱を求めている。同様の規定は中国やインドにもみられますが、自由民主国家では例外的です。

複数国籍が個人の利益になるのは自明ですが、国にとってもメリットになり得ます。例えばフィリピンのように海外への出稼ぎが多い場合、自国籍を放棄されると送金が減るかもしれない。知識人層や富裕層が海外に流出した場合も、母国との結びつきと帰属意識を持ち続けてくれた方が国としては都合がいい。
さらに、母国の国籍を捨てないと外国人は国籍が取得できないとなれば、政治的権利を持たないマイノリティーが増え、円滑な社会的統合が阻害されかねません。
従来、複数の国家への帰属を認めるのはよくないことだとされてきました。例えば両国から兵役を課されたら、どうするのか。もっとも、徴兵の重複はルールで容易に回避できますし、そもそも徴兵制を採る国自体が減っています。社会保障費の重複支給なども個別の取り決めで対応できます。現状、複数国籍の容認によって生じる問題はほとんど残されていません・・・

『ルポ リベラル嫌い』

津阪直樹著『ルポ リベラル嫌い──欧州を席巻する「反リベラリズム」現象と社会の分断』(2023年、亜紀書房)を読みました。勉強になりました。著者は、元朝日新聞ブリュッセル支局長です。駐在時代の取材を元に、書かれています。

日本が憧れ手本にした西欧が、政治、社会、経済で変調を来しています。それを紹介した代表的なものでは、ブレイディみかこ著『ヨーロッパ・コーリング――地べたからのポリティカル・レポート』(2016年、岩波書店)、堤未果著『ルポ 貧困大国アメリカ』 (2008年、岩波新書) などがあります。
原因には、若者の高い失業率、所得格差の拡大があります。さらに本書では、豊かな時代に育った団塊の世代、彼らが進めたリベラルやヨーロッパ統合への反発が指摘されています。そこに、生活文化・伝統文化を異にする大量の移民が流入し、標的になります。

貧しい人や困った人を救ってきた左翼政党が、右翼とともに緊縮財政を進めます。ヨーロッパ連合に加入していること、統一通貨ユーロを使っていることなども、制約になります。ドイツなどは、緊縮財政を要求します。ところがそれに反発し、いくつかの国で、反緊縮財政が国民の支持を受けます。緊縮財政は、失業や格差を悪化させるのですから。新型コロナウイルス感染拡大は、さらにこの問題をこじらせました。経済は停止状態に入るのに、国民の生活を支える対策費は膨大になります。
緊縮財政を一時棚上げせざるを得ません。かといって、野放図な歳出拡大は、永遠には続きません。必要なのは、一時の財政出動と、その財源を将来返す計画でしょう。日本は、ヨーロッパ各国より、後者については無責任な状態になっています。

西欧が世界の「先進国」であり、日本もその後を追いかけている(一部は先んじている)とすると、「今日のヨーロッパ」は「明日の日本」になるのでしょうか。