「社会と政治」カテゴリーアーカイブ

社会と政治

貿易量と情報量

3月27日の経済財政諮問会議「アジアゲートウェイ」の審議の中で、菅総務大臣が世界貿易の流通量と情報の流通量を比較して、次のように述べておられます。
資料1ページ目の右上に「世界の貿易流通」がある。5,830億ドルが北米と欧州である。北米とアジアが7,820 億ドル、アジアと欧州が7,250 億ドルであり、大体均衡がとれている。しかし、情報の流通では、欧州と北米が669Gbps、北米とアジアがその半分であり、アジアと欧州はその28 分の1である・・・
アジア・北米・欧州間の貿易量が、ほぼ同じということも驚きました。アジアは、そこまで大きくなったのですね。それに比べ、情報の流通量が28分の1とは、これまた驚きです。これから、モノやカネ以上に、情報が価値を持つ時代になるでしょう。すると、この差は大きいですね。

会社社会から地域社会へ

24日読売新聞談論「統一地方選、何を問う」、樋口恵子さんの主張から。
「人生50年型社会」だった時代からわずか半世紀。「人生90年社会」になった。人生にも、百年の計がいる。人間が長寿になった21世紀には、人々にとって、地域の再生がどうしても欠かせない。
・・・高度成長の時代、就業人口の8割がサラリーマンとなって、職住分離が進んだ。長時間労働や遠距離通勤を強いられたサラリーマンにとって、地域は文字通り、寝に帰るだけのベッドタウンだった。この時代は、「会社の時代」でもあった。冠婚葬祭は会社が取り仕切った。・・・社会保障ならぬ「会社保障」と呼ばれたものだ。
時代は一変した。終身雇用は崩れ、会社保障はもう人々のセーフティネットではない。不況や経済のグローバル化のせいだけでなく、会社で働き終えた時を意味する「定年」と、人生の時間を意味する「終身」の間に壮大な時差が生じたからである。定年後の時間は、ざっと30年に及ぶ。
21世紀は、地域が人生の受け皿として意味を増すことは疑いない・・。
先生の主たる意図とは、少し離れて引用しています。詳しくは、原文をお読みください。

博物館は誰のため?

今日は、散歩を兼ねて東京国立博物館へ、レオナルド・ダ・ヴィンチ展を見に行きました。パスポート会員の期限が切れていたので、改めて加入。うーん、去年もそんなに何度も行かなかったので、元を取ったのかなあ。「受胎告知」は、なかなか良かったです。その他に、ダ・ヴィンチの才能を紹介する展示がありましたが、これは人が多く、疲れました。しかも、近づかないと、展示物が見えないし解説も読めないのです。私を含め大抵の人は、何を言いたいのか分からなかったのではないでしょうか。平成館入り口でやっていた、ビデオでの解説はよく分かりましたが。
その後、久しぶりに、平成館の考古遺物展示を見ました。初めて来たと思われる小学生に、お父さんが、土偶や石器の解説をしていました。子どもが質問し、お父さんが一生懸命説明をしています。その状況を見ていると、いかにも展示の解説が少なく、不親切であることに気がつきました。矢じりが並べてあっても、これがどのように使われたか、小学生には分からないでしょうね。青銅鏡も、なぜこれが鏡か分からないでしょう。だって、鏡の裏の模様ばかり見せるのですから。しかも、それは青黒くさびていて、昔は金色に光っていたなんて、子どもは想像がつかないでしょう。「鏡に書かれた文字に重要な意味がある」との解説がありますが、なかなか鏡の文字は読めません。
日本歴史を勉強した人が見ればわかる、という展示ですね。絵巻物をはじめとする古文書も、そうです。漢字ばかりだったり、流麗なひらがなで、私にもなかなか読めません。子どもだけでなく、一般の人にも分かるように、読み下しの文章・現代語訳を、横に並べてもらえませんかね。
以前から疑問に思っているのですが、博物館って、誰に何を見せるためのものなのでしょうか。モナリザや中国文物展は、諸外国の文物を日本人に見せるものですよね。でも、これは貸し展示場機能であって、国立博物館の主目的とは思えません。東博にあるのは、主に日本の美術工芸品(本館)です。他にアジアの文物(東洋館)などもありますが。しかし、「東京美術館」とは名乗っていません。
私たちが、ヨーロッパや中国韓国の博物館に行くように、外国の人に日本の文物を紹介するためでしょうか。私は、日本を訪れた外国の人にここを紹介したり、外国へのちょっとした手みやげに、ミュージアムショップで小物を買ったりしています。しかし、この展示と解説では、日本の伝統文化を知っている人でないと、分かりにくいでしょうね。仏像や日本画といった美術品なら、詳しい解説は不要ですが。

社会と政治11

19日の読売新聞は、「有料レジ袋賛成64%」を伝えていました。95%の人が地球温暖化を感じていて、92%の人が何かしたいと答えています。
具体的な取り組みでは、電気やテレビをこまめに消すが64%、そしてレジ袋の有料化に64%の人が賛成です。
もっとも、レジ袋をなくしても温暖化問題への貢献は少ないとの記事を読んだことがあります。もっと他に、悪いのがあるということです。しかし、環境問題のシンボルとして、レジ袋削減は賛成です。川を漂うビニール袋については、新地方自治入門p172で取り上げました。

市民の責任

5日の朝日新聞「時流自論」は、河合幹雄教授の「裁判員制が問う市民と情報」でした。
犯罪白書などによれば、2005年に送検されたのは212万人。そこから交通違反関係を除いても、48万人が検挙されている。しかし、裁判にかけられたのは14.6万人、刑務所に入ったのは3.3万人にすぎない。日本の司法現場の運用は、犯罪者をなるべく刑務所に入れない、入れても短期で出す。
誰か世話をする身元引受人を見つけて、起訴を見送ることが通例となっている。釈放してしまうのだ。それでも日本の治安は、先進諸国と比較してケタ違いに良い。この方針で、世界に類を見ないほどに、犯罪者の更正に成功してきた。警察官、刑務官、保護観察官、家裁調査官などのがんばりに加えて、保護司をはじめとした民間の特定の人々が、犯罪者の社会復帰を密かに支えてきたからである。
しかしこの仕組みは、犯罪者の社会復帰を一般市民の生活領域から遠いところで実現したために、市民は何もしなくても「犯罪と無縁の安全な社会」に居られるという感覚を持ってしまった。彼らの視点では、前科者は世間(市民の生活領域)に戻れていないのであるから、刑務所から短期間で出ていることなど、知るよしもない。
裁判員制度は、こうした「隠蔽する官」と「知ろうとしない民」に支えられた成功システムを終焉させるものである。なぜなら市民にとって、犯罪にかかわる情報を知ることなしに自分たちで量刑をすることは、不可能だからである。裁判員制度の導入と安全神話の崩壊は、一部の者だけが更正にかかわり、他の市民は何も知らずに任せきって安心できた伝統との訣別を促す意味で、同じ方向の変化である。それは、社会の透明性が高まり、市民が大きな責任を負う社会の到来である。(3月6日)
15日の日経新聞夕刊に、OECDの「女と男」報告書が、載っていました。それによると、日本人男性の交遊活動が突出して不活発で、世界で最も孤独だそうです。友人や同僚と業務外で外出したり、サークル活動に参加した経験は、17%の日本人男性がないと答え、2位のチェコの10%を大きく上回っています。
人生の満足度でも、ほとんどの国では男性の方が満足度が難いのに、日本では女性の54%に対し男性は52%です。もっと詳しく知りたいですね。