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生き様-生き方

人生の意味は誰が決めるのか3

人生の意味は誰が決めるのか2」の続きです。自分の人生の意味を考えることについてです。人生が自己発見の過程であるとすると、最初から目標があり、物差しがあるわけではありません。

私が心がけてきたことは、その場その場で精一杯生きることことです。
官僚という職業を選んだので、仕事が社会の役に立つことは疑う必要はありませんでした。仕事の中で判断に迷うこともありましたが、「後世の人に説明できるか」「閻魔様の前で胸を張れるか」を判断基準にしてきました。もっとも、いつもいつも正々堂々と立派に行動してきたとは言えません(恥ずかしいです)。

どのような職業を選ぶか、そしてどのような生活を送るかは、人それぞれです。しかし、棺桶に入ったときに「私は精一杯生きた。悔いはない」と言える人生が「善い人生」なのではないでしょうか。
希望して努力してもうまくいかない場合も、偶然や不条理なことで夢が実現しないこともしばしばあります。いえ、そのようなことの方が多いでしょう。
結果がうまくいくことはうれしいことです。しかし、うまくいかなくても「私は努力した」ということに価値があると思います。「心情倫理と責任倫理」、私の言葉では「努力倫理と結果倫理」です。

前回の話に戻れば、人生の意味は、本人が考える場合は「夢に向かってどれだけ努力したか」によって測られ、社会からは「どれだけ家族や社会に貢献したか」で測られるものではないでしょうか。
とはいえ、この問題は、人によって考え方が異なるでしょう。また、このような短い文章で語ることには向いていませんね。

目的地にゆっくり行く

2月14日の読売新聞「余白のチカラ」に「近道でなく 寄り道ナビ 絶景・名所巡り 運転楽しく」が載っていました。

・・・「この先で道を一本外れましょう」。スマートフォンからルート案内が流れると、千葉県君津市の山岳道路「房総スカイライン」を走っていた岩下宗伯さん(48)はハンドルを左に切り、林道に入った。
昨冬、妻をドライブに誘い、千葉・房総半島に向かった。川崎市の自宅を出て、木更津市内の道の駅に着くと、道案内アプリ「SUBAROAD(スバロード)」を起動。半島最南端の野島崎を目指した。
このアプリは、カーナビのように目的地までの最短ルートを案内するわけではない。時には脇道にそれ、知る人ぞ知る絶景や名所へとドライバーをいざなう・・・
・・・カーナビなら約70キロ、1時間10分の道のりが、約100キロ、3時間のドライブとなった。「ナビでは案内されない場所に行けて、走りがいがあった」と岩下さんは満足そうに話す・・・

いいですねえ。日本社会も個人も、がむしゃらに走ってきました。仕事は相変わらず「早く」とせき立てられますが、余暇や老後はゆっくりと行きたいものです。
私の休日の孫との散歩も同じです。途中でいろんなところに寄り道して、ゆっくりと時間を過ごしています。
かつて交通安全標語に、「狭い日本、そんなに急いでどこに行く」という名文句がありました。

人生の意味は誰が決めるのか2

人生の意味は誰が決めるのか」の続きです。
ここでの「意味」は、内容(の説明)とともに、価値(の評価)が含まれているようです。内容なら「××して生きた」と記述すればすむ話ですが、価値はそれがあったかどうかを評価しなければなりません。
その評価は、誰が何を基準にするのでしょうか。本人でなく社会が評価するとしたら、その人がそれぞれの立場でどれだけ社会に貢献したかを評価するのでしょう。では、本人は何を基準とするのか。

多くの人は、日々の生活で人生の意味を深く考えることはないと思います。私も自分で考えたことはなく、聞かれたらどのように答えるか悩みます。
かつて大学で教えていたときに、学生から「自分は何者かは、どうしたらわかるか」という問がでました。いわゆる「自分探し」です。
私は「今20歳前後のあなたたちが自分探しをしても、答えは見つからない。まだあなたたちは、細いラッキョウのようなもので、これから皮を増やしてタマネギになるのだ」と説明しました。「「わたし」とは何か」「タマネギの皮を増やす

人生とは「自己実現」と意味づける場合もありますが、最初から「自己」という目標があるのではなく、生きていく過程で見つける「自己発見」と見る方がわかりやすいでしょう。

人生の意味は誰が決めるのか

1月18日の日経新聞夕刊1面コラム「あすへの話題」は、森岡正博さんの「人生の意味は誰が決める」でした。

・・・自分の人生に意味があるかどうかは、その人生を生きている本人が決めればいいことだろうか。それとも、誰の目から見ても意味のない人生というものがあるのだろうか。これは悩ましい問題である。
日本で問いかけると、多くの人たちは次のように答える。「自分の人生に意味があるかどうかを決めるのはその本人なのであって、他人からとやかく言われる筋合いのものではないのだ」と。
だが、現代の哲学者のあいだでは、そのように考えない人のほうが多いと言えるだろう・・・
そして、次のような問題提起がなされます。
「一日中、マリファナを吸ったり、クロスワードパズルを延々とし続けることは、その人の人生に意味を与えない。ヒットラーの人生には大きな意味があったと認めるのか」
詳しくは原文を読んでいただくとして、難しい問題です。

どうやら、ここで問われている「意味」には、二つのものがあるようです。一つは、本人が考える意味。もう一つは、社会が認める意味です。
しかし、人は一人で生きているのではなく、社会の中で他者との関わりの中で生きています。意味もまた、社会との関わりの中で見いだせるものであって、個人で見いだせるものではないでしょう。参考「公共を創る」第54回。宇野重規著『〈私〉時代のデモクラシー』(2010年、岩波新書)

かつては、人生の意味は神様が与えてくれました。また、職業選択の自由がなく、食べるのに精一杯の時代では、人生の意味に悩んでいる時間はありませんでした。自分の人生を自ら選ぶことができるようになって、このような悩みが生まれました。

私は、人生の意味は、毎日を精一杯生きること、そして人生を続けていくことで、できてくる、見えてくるものだと考えています。この項続く。

勤勉で一生懸命が人に好かれ、人に恵まれる

日経新聞夕刊「人間発見」、1月22日の週は東野智弥・日本バスケットボール協会技術委員長の「世界の壁破る 日本バスケ躍進の仕掛け人」です。
バスケットボールのコーチの技術を習得するために、アメリカに渡ります。大学のバスケットボール部に頼み込み、使用人のような立場から始めます。いわゆるぞうきんがけをして、コーチになることができました。

24日の記事に、次のような話が載っています。
「かなり無謀な米国行きでしたが、ギリギリのところで幸運な出会いがありました。力になってくれる人に恵まれた一因は僕が好かれたからではないでしょうか。好かれた理由は、僕が勤勉で一生懸命だったからだと思っています」