9月26日の朝日新聞オピニオン欄、佐伯啓思先生の「曲解された「国富論」」から。
・・・今年はアダム・スミスの「国富論」(正確には「諸国民の富」)の出版250年である。この書物によって初めて「自由な市場競争が経済発展をもたらす」とされ、さらに、それが善き社会秩序を実現するとされた。これが通説だ。現代の米国中心の経済学はスミスの市場理論を精緻化したもので、その考えに基づいて今日のグローバリズムが出現した。だから、スミスは、「経済学の父」であるだけではなく、現代のグローバリズムの生みの親ということにもなるだろう。
しかし、私見では、これはスミスに対する大いなる誤解(あるいは曲解)であり、それが、今日のグローバル経済の混乱の発端ともなっている、と思う。
スミスが自由な市場競争を説いた時、彼が批判したものは何だったのか。それは、一部の大商人が政府と結合し、世界的規模の投資や貿易によって巨額の商業的富を得るという事態であった。これは「貨幣こそが国富なり」とする重商主義への強烈な批判である。それに対して、自国の、いわば「普通の人々」による「労働と生産こそが国富なり」というのがスミスの主張であった。
とすれば、今日のグローバル経済こそが「新重商主義」とでもいうべきものではなかろうか。スミスなら、間違いなく、今日のグローバリズムを批判したであろう。
表面的に理解してしまえば、スミスの経済論を、自由競争の市場万能主義とみなせなくもない。しかし、スミスがつとに強調しているのは、一国の富は、金融取引ではなく、生産活動によるということである。そのためには、海外との交易による金銀(貿易差額)の獲得を政府が支援するのではなく、国内生産における労働の成果を自由に交換できる市場を形成することこそが国富につながるという・・・
・・・それでは、どうして、そのスミスの市場競争論が、今日のグローバリズムの理論的な支柱になってしまったのだろうか。そこには次のような事情がある。
スミスの市場経済論は、20世紀になって、米国の経済学に引きつがれた。ただそれは、スミスの真意をまったく理解しないものでもあった。
スミスが問題とした、「金融」に対する「物の生産」、「グローバリズム」に対する「国内経済」の重視、つまり経済活動は「確実な基礎」に基づくべきだというような論点は、いっさい排除された。きわめて抽象的、一般的に、自由な市場競争の拡大こそが人々の利益と富の増進をもたらすとされたのである。
かくて、自由な市場競争論によって、グローバリズムが正当化され、市場経済学は一種の「グローバリズム・イデオロギー」とでもいうべきものとなる。
ところが、現実はどうであろうか。ここで私は「市場経済」と「資本主義」を区別しておきたい。これは大事な点だが、ほとんど論じられることはない。
「市場経済」は、人々の自由競争こそが市場の調和を実現するという思想に基づいている。しかし、「資本主義」は違う。それは、あくまで「資本」の増殖をめざす運動で、市場の調和を目的とするわけではない。資本は、金融市場において金融商品へも向かうし、海外へも投下される。将来有望な新たな技術開発や市場開拓へも向かう。期待収益が大きい分野に資本は流れる。
資本を動かすものは、独占的企業でもよいし政府でもよい。投資によって無限の経済成長をめざすのが「資本主義」の原理なのである。だから、「市場経済」が市場の秩序を求めるのに対し、「資本主義」は、むしろ、市場の秩序を破壊してゆくのである。
とするなら、今日のグローバル経済を支配しているのは、「市場経済」ではなく、「資本主義」の原理といわねばならない。そして「資本」が、無限の拡張と成長を求める限り、国家間の経済競争や覇権競争はますます激化するだろう。政府は、覇権を握る上で有利な技術へ向けた投資を支援する。もはや小規模な生産者たちによる自由競争など、昔ののどかな神話に過ぎなくなる。
まさしく、これが今日のわれわれの目の前に広がっているグローバリズムの姿であろう・・・