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国際化

日経新聞10日「成長を考える」は、医療=産業論でした。詳細は本文を読んでいただくとして、私が考えたのは、その中の「患者は空を飛んでいく」についてです。記事では、日本人が視力回復治療のために、年間1万6千人もの人が、タイのある病院に行くのだそうです。日本の半額で、できるのだそうです。
グローバル化によって、いろんなものが国境を越えて移動します。足の速いのは、お金や情報です。国境をものともせず、動き回ります。次に物です。工業製品を輸出し、農産物などを大量に輸入しています。いくつかは関税で守られていますが、経済の論理では早晩自由化されるでしょう。
人については、「輸入」を限定している日本では、まだ国境が高いと思っていました。しかし、労働力に着目すると、工場を海外に移設し現地の労働力を雇うことで、事実上の労働力の輸入になっています。また、コールセンター(電話受付)を海外に移す場合は、もっと見えやすいです。その分、日本の労働者が失業したり、低賃金になりました。近年の労働に関する問題、すなわち給与が上がらないこと、失業者が多いことは、ここにも大きな原因があります。
土地は輸入できないものですが、これもその機能はすでに輸入しています。農産物を輸入しているのは、海外の農地を借りて生産していることです。数年前にネギの輸入、セーフティガードの発動が問題になったのは、これです。ネギ苗は、日本から持って行っているのです。中国の土地と労働力を日本に持ってこずに、現地で使っているのです。
対人サービスが、輸入できないものとして残ります。しかし、この記事を読むと、医療サービスも国境を越えているのですね。もちろん、そこまで金を出さない診療は、国を越えないでしょうが。
11日の日経新聞は、「動産担保融資、地方で急増」を伝えていました。これまで日本の銀行は、土地を担保にするか、借り主・保証人に責任を負わせてきました。土地本位制・右肩上がりの時は、これでよかったのでしょう。しかし、右肩上がりでなくなったときは、もはや土地と保証人では融資する先がありません。融資される方も、土地がないと金を貸してもらえないようでは、事業を起こすことはできません。ちなみに、日本では学校を作るときも、土地と建物が必要です。でも、学生が求めるのは、教育内容であって、立派な建物でなく借り上げ校舎でも良いんですよね。
このような変化も、日本が経済成長・発展途上国を終えたことによるものです。もっとも、私の友人によると、「銀行の多くも、土地なら評価は簡単だけど、事業の評価は慣れていないからねえ・・」とのことです。それに加えて「官庁だって、予算と定数で評価していたじゃないか。お互い様だ」という批判もついていました。(1月11日)
13日の日経新聞「世界を語る」は、フランスのジャック・アタリ氏の「グローバル化の将来は。市場と民主主義、両立がカギ」でした。
アメリカ主導のグローバル化について、次のように語っています。
「次第に勢いを弱めながら、あと30年といったところか。世界中に市場経済と民主主義による統治の仕組みを広げようと、必死にヒトやカネを投じて本国は疲弊した。ローマ帝国が東西に分裂した後も、法の支配、軍隊の組織といった遺産が、社会のインフラとして受け継がれた。米国が打ち出した市場経済と民主主義の基本原則も、米国の盛衰にかかわらず残っていく」
市場経済と民主主義の相互の関係については、「市場経済と民主主義はそれぞれ普遍的な価値観、社会の仕組みだが、放っておくと市場経済が民主主義を駆逐して、民主主義が廃れる恐れがある。市場経済が地域や分野を問わず拡散する特徴を持つのに対し、民主主義は特定の国家権力の及ぶ領土に限られたものだからだ」「民主主義を懸命に支え、もり立て、市場経済と競合できる対等な関係を保つことだ。二つを不可分に結びつければ、グローバル化は世界にとって脅威ではなく、福音となる」

暮らしの場と暮らし方

12月で、新居に移って1年が経ちました。それもあって、渡辺武信著「住まい方の思想」「住まい方の演出」「住まい方の実践」「住まいのつくり方」(それぞれ中公新書)を、読み返しました。寝る前に布団の中で読む本は進むのですが、書斎での難しい本は進みませんねえ。結果として、新書と文庫本、エッセイのたぐいしか読めません。
さて、家を建てるに際し、いろんなハウツー本も読みました。それはそれなりに役に立った(役に立たなかった)のですが、そのようなハウツーより、記憶に残った本、なるほどと思ったのが、これらの本です。
先生の主張は、「住まいは単に住む場所でなく、その人の人生観の表現である」と、要約したらいいでしょうか。「私の場所」をつくることだとも、おっしゃってます。良い住まい、住みよい住まいとは、業者がいくら金をかけても、高い家具を置いてもできるものではなく、住人がそこでどのような生活を送るかによります。ただ広ければいい、というものではないのです。「狭苦しい」(狭楽しい)ということも、おっしゃってます。まあ、そこそこの面積は必要ですが。住まいは、ものとしてみれば、大きな箱であり調度品です。しかしその容れ物が問題なのではなく、そこにできる隙間が重要だと主張されます。そうですね。そこで、どのような時間を過ごすかですから。となると、重要なのは入れものである家でなく、その中での住人の生活の仕方になります。ハードウエアでなく、ソフトウエア、コンテンツです。
もっとも、私も若いときは、1年のほとんどを仕事場で過ごし、家には寝るだけに帰っていました。そのような暮らしは、本でも批判されています。もう少し、自分の時間を大切にするべきでした。まあ、そんなことを考えることができる歳になった、ということでしょう。でも、書斎がなくても、本は書けるのですよね。私の著作の多くは、食卓で生産されました。
これから家を建てようと考えておられる方だけでなく、暮らし方を考えておられる方にはお勧めです。家を通じた人生論です。もっと他の建築の本も、教養として勉強になりましたが、小さな我が家には縁のないことが多いので、省略します。

2007.01.09

6日の読売新聞1面「日本再生への道」で、御手洗冨士夫経団連会長が、道州制導入を提言しておられました。経済界の方がこのような構想に関与してくださるのは、ありがたいですね。

省庁再編6周年

1月6日は、2001年に省庁改革が行われた日です。もう、6年も経つのですね。その後、比較的順調に運営されていると、私は思います。日本の官僚は優秀ですから、器さえ与えられれば、それをうまく運用します(もっとも、それが本来の組織目的を十全に発揮しているかは、別の場合もあります)。もちろん、改善すべき点もあります。時代が変われば、行政のありようも変わります。また、運用してみて不都合な点は修正し、よりよいものが分かったら、それを取り入れればいいのです。当時の言葉を借りれば、省庁の組み合わせは家の間取りのようなものです。絶対なものでなく、必要があれば変えればいいのです。
ただし、私は、今度の再々編には、別の哲学がいると思います。前回は、省庁の数を減らす、官邸機能を強化するが哲学でした。1府12省庁の組み合わせを変更することも良いことですが、それは省庁再編とは言えないでしょう。
部局を再編することは、民間企業だけでなく県や市町村では、しょっちゅうやっています。国でも、食糧庁を廃止し内閣府に食品安全委員会が作られました。また、新しい課題に取り組むため、内閣官房にいくつもの組織が作られています。これらを含め各省の組織を、分離併合することも必要でしょう。しかしそれでは、再編とは言えないと思います。それ以上の哲学がいると思うのです。新車でいうと、マイナー・チェンジでなく、フルモデル・チェンジです。
例えば、産業・業界振興から国民・消費者保護へ、裁量的育成・事前調整からルールづくり・事後監視へと、行政の任務は大きく変わっています。そのような軸から省庁を作りかえるといったことが、必要だと思うのです。