地方分権改革推進委員会が、10月7日に、第3次勧告「自治立法権の拡大による「地方政府」の実現へ」を発表しました。主な内容は、義務付け・枠付けの見直しと条例制定権の拡大や、国と地方の協議の場の法制化です。
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海外に出て行かなかった日本
「海外で競争しないことが日本の停滞を招いた」に関して、参考になる記述を挙げておきます。
石倉洋子一橋大学教授は、企業戦略についての著書「戦略シフト」(2009年、東洋経済新報社)で、世界で戦わない企業を「鎖国派」と名付け、鎖国派の特徴を、次のように書いておられます(p46)。
1 ICTに対する理解と自らの経験不足
2 世界が狭いこと
3 試してみることの回避
私の主張に引き直せば、1は、日本を含めた世界・社会・経済が大きく変化していることへの無理解です。2と3は、先生の表現の通りです。
また、前東京大学総長の小宮山宏先生は、「課題先進国日本」(2007年、中央公論新社)で、次のように書いておられます。
・・・明治維新からちょうど100年経った1968年に、日本は世界第2のGDPを達成するまでになった。GDPが世界第2位になったということは、・・・世界のトップランナーの仲間入りを果たしたといってよいであろう。
その1968年に、日本人は、明確に「これからは先進国として、世界を先導し、世界に貢献しながら発展していく」と考えるべきであった。しかし、そうは考えなかった。だから私は、そのときから日本は失われた時を過ごしていると考えるのである・・」(p46)
校長の仕事・入学式
今日は、消防大学校で、救急科71期生34人の入校式がありました。校長は制服で、式辞などを述べます。学生も、もちろん制服で、動作はきびきびと、全員がぴしっとそろいます。さすがです。
こちらも、歩く姿勢や敬礼をする動作に、気が張ります。お茶を習っていた時以来ですかね。ちゃんと、手の指先も伸ばしました(古くからこのホームページを読んでくださっている方は、この意味がおわかりですよね)。
校長講話も、行いました。彼らは、これから約2ヶ月間、寮生活をおくりながら、勉強にいそしむことになります。当校は、知識だけでなく、技術の習得も重要です。
今日も、校庭や訓練棟では、すでに入校している救助科の学生が、実技訓練をしていました。ビルの屋上や、川の中州に取り残された人を救出する、という設定などでの訓練です。皆さんもおなじみの、あのオレンジ色の出動服で、ロープを張ったりしています。雨の中です。災害は、天気を選んでくれません。というより、中州に取り残されるのは、雨の日です。
今日の訓練は、学生たちが、企画して行っているものです。もちろん、最初は、教官が指導するのですが、授業が進むと、このような授業もあります。学生は、親元に帰ると、他の人たちを指導する立場にあります。すると、訓練の企画力も必要になるのです。
追いかけられなかった日本・競争相手のいなかった日本
日本のリーダーと国民が、世界第2位の経済大国になった時に、海外で新たな挑戦をせず、国内に閉じこもったことには、次のような背景もあります。
一つは、古来変わらない、人間の意識です。人は、成功体験に縛られます。「これまでこれで成功したのだから、これからもこれで行こう。無理をして変えることはない」というものです。
そして、それでもしばらくの間、日本が発展できることを許したのが、国際環境です。これが二つ目の背景です。
すなわち、日本は、欧米先進諸国をお手本に、追いつけ追い越せで頑張りました。ところが、その日本を追いかける国が、いなかったのです。その後から発展した諸国、アジアでは韓国、中国、タイなど。世界では、ブラジル、インドなど。それぞれの事情で、日本に続いて来ることがなかったのです。それらの国の発展は、1990年代を待たなければなりませんでした。これらの国が、もう少し早く発展しておれば、日本は、欧米を追いかける利益を、独占することはできなかったでしょう。すると、「お尻に火がついた」状態が、日本人にもっと早く、認識されたと思います。
日本の政治リーダーたちが、アジアや世界を意識に入れておれば、違った世界になっていたでしょう。しかし、相変わらず、輸出市場として、あるいは観光先として、せいぜい政府開発援助先としてしか、考えなかったのではないでしょうか。
国際社会の中での日本を考えることは、国内では「追いつき型思考」ではなく、「新たな挑戦思考」を導きます。世界では、世界秩序構築に貢献し、また、日本の国益を追求することにつながります。
この点、戦前の日本人の方が、アジアや世界を考えていた、と思えます。それは、世界の列強に仲間入りし、伍するためでした。世界は弱肉強食であるというイメージに、おびえていたからでしょう。ただし、それが戦争につながったことから、手放しで評価はできません。
一方、戦後の日本は、平和憲法で戦争を放棄し、国際的な紛争に参加しないことで、「世界は平和だ」と思いこんだのかもしれません。そして、それは、じっとしていても享受できると、思いこんだのでしょう。すると、積極的に参加しなくてもよいと、思いこんだのでしょう。(続く)。
フロントランナーにならない思考
残念ながら、競争のない環境では、挑戦は失われます。高い志を持って新しいことに挑戦することは、言うは易いですが、実行は難しのです。こうして、海外に挑戦しなかったことが、日本社会の停滞を招いたのです。
もちろん、1億人の規模がありますから、そこそこの発展はします。国内での競争も、ゼロになったわけではありません。
しかし、現代は、日本が鎖国をすることを許しません。自動車と電器製品だけを輸出して、その他のものを輸入しないというような、都合のよいことは成り立ちません。ものだけでなく、情報・知識・金融などが、世界を駆けめぐります。そして、日本もその中に組み込まれています。
日本が豊かな国を続けるためには、各国と競争し、その先頭に立つ必要があるのです。
日本が世界第2位の経済大国になった時、政治家や官僚、その他のリーダーが、新たなフロンティアへの挑戦として、海外を目指しませんでした。アジアや海外は、製品を売る市場としてしか、考えなかったのです。
政治の思考としては、国内で安住してしまいました。それは、思考回路では、先進国への「追いつき型思考」に安住したことを意味します。すなわち、世界の先頭に並んだのに、フロントランナーになることを、目指しませんでした。これが、現在の日本の停滞を招いたのです。追いつき型思考では、世界の先頭集団を走ることはできません。
失われた10年(これは今や失われた20年になりつつあります)の遠因は、ここにあります。すると、日本にとっては、失われた時間は、1968年から始まっているのです。すなわち、失われた40年です。
このような政治家やリーダーの意識と同調したのが、国民の意識であり、日本の言論界やマスコミの世界です。そこで、私は、日本で威張っていながら海外で勝負しなかった3つめに、マスコミを挙げました。
「日本のマスコミ」は、日本では権威あるものと、見なされています。しかし、その実力はどうなのでしょうか。日本語という障壁に守られ、海外企業との競争が少ないです。1億人規模の市場があり、日本は母国語だけでやっていける、数少ない国です。簡単に言えば、英語圏との競争がないのです。多くの国では、母国語のニュースの他に、英語のニュースが入ってきます。すると、競争があるのです。
他方、世界では、日本のマスコミは、どのように評価されているのでしょうか。日本では、海外のマスコミ記事を輸入・翻訳することは多いですが、日本の新聞記事は、海外にはどの程度、輸出されているのでしょうか。海外では、どの程度読まれているのでしょうか。
同じことは、社会科学についても言えます。自然科学の世界では、議論は世界の規模で行われています。しかし、政治学や社会学などでは、日本の研究は、世界でどのように評価されているのでしょうか。
これら3つ、「銀行」「政治と官僚」「マスコミ」に、共通すること。それは非関税障壁(規制、習慣、国境、日本語の壁)に守られ、国内では「威張っておられた」ということです。しかし、世界という舞台では、どのように評価されているのでしょうか。