フロントランナーにならない思考

残念ながら、競争のない環境では、挑戦は失われます。高い志を持って新しいことに挑戦することは、言うは易いですが、実行は難しのです。こうして、海外に挑戦しなかったことが、日本社会の停滞を招いたのです。
もちろん、1億人の規模がありますから、そこそこの発展はします。国内での競争も、ゼロになったわけではありません。
しかし、現代は、日本が鎖国をすることを許しません。自動車と電器製品だけを輸出して、その他のものを輸入しないというような、都合のよいことは成り立ちません。ものだけでなく、情報・知識・金融などが、世界を駆けめぐります。そして、日本もその中に組み込まれています。
日本が豊かな国を続けるためには、各国と競争し、その先頭に立つ必要があるのです。
日本が世界第2位の経済大国になった時、政治家や官僚、その他のリーダーが、新たなフロンティアへの挑戦として、海外を目指しませんでした。アジアや海外は、製品を売る市場としてしか、考えなかったのです。
政治の思考としては、国内で安住してしまいました。それは、思考回路では、先進国への「追いつき型思考」に安住したことを意味します。すなわち、世界の先頭に並んだのに、フロントランナーになることを、目指しませんでした。これが、現在の日本の停滞を招いたのです。追いつき型思考では、世界の先頭集団を走ることはできません。
失われた10年(これは今や失われた20年になりつつあります)の遠因は、ここにあります。すると、日本にとっては、失われた時間は、1968年から始まっているのです。すなわち、失われた40年です。
このような政治家やリーダーの意識と同調したのが、国民の意識であり、日本の言論界やマスコミの世界です。そこで、私は、日本で威張っていながら海外で勝負しなかった3つめに、マスコミを挙げました。
「日本のマスコミ」は、日本では権威あるものと、見なされています。しかし、その実力はどうなのでしょうか。日本語という障壁に守られ、海外企業との競争が少ないです。1億人規模の市場があり、日本は母国語だけでやっていける、数少ない国です。簡単に言えば、英語圏との競争がないのです。多くの国では、母国語のニュースの他に、英語のニュースが入ってきます。すると、競争があるのです。
他方、世界では、日本のマスコミは、どのように評価されているのでしょうか。日本では、海外のマスコミ記事を輸入・翻訳することは多いですが、日本の新聞記事は、海外にはどの程度、輸出されているのでしょうか。海外では、どの程度読まれているのでしょうか。
同じことは、社会科学についても言えます。自然科学の世界では、議論は世界の規模で行われています。しかし、政治学や社会学などでは、日本の研究は、世界でどのように評価されているのでしょうか。
これら3つ、「銀行」「政治と官僚」「マスコミ」に、共通すること。それは非関税障壁(規制、習慣、国境、日本語の壁)に守られ、国内では「威張っておられた」ということです。しかし、世界という舞台では、どのように評価されているのでしょうか。