昼休みに、職場(市町村アカデミー)の周囲と公園を散歩します。ここは埋め立て地ですが、半世紀経って、植木が大きくなっています。植樹していないと思われる場所に生えている木もあります。
冬に目立つのが、クロガネモチの木です。赤い小さな実がたくさんなって、目立ちます。「小鳥は食べないのかなあ」と思って調べたら、あまりおいしくないのだそうです。
ところが今週になって、あっという間に、ほとんどの実がなくなりました。実が熟したのか、ほかに食べるものを食べ尽くしたのか。
月別アーカイブ: 2023年2月
男女不平等、搦め手から攻める
2月19日の日経新聞「風見鶏」、大石格・編集委員の「「正当な差別」などない」から。
・・・差別をなくすにはどうすればよいか。3年前に亡くなった米最高裁のギンズバーグ元判事は弁護士時代にからめ手から攻めた。目標は女性の権利擁護なのだが、男性の権利を守れ、という訴訟を起こした。
当時、親などの介護にかかる費用を補う所得控除は独身男性には認められていなかった。結婚して妻に介護させればよい、と思われていたからだ。
男性に不利な制度はおかしいとの訴えはあっさりと認められた。最高裁は男女で扱いが異なる制度は憲法違反と判決に書いた。ギンズバーグ氏は以降、この判決を盾にして女性の扱いが不利な事例で次々に勝訴していく。戦略がまんまと当たったわけだ・・・
まちづくりでの、都市工学と社会学
東京大学出版会の宣伝誌『UP』2月号には、野城智也、吉見俊哉両教授の対談「プロジェクトも、人生も、グルグル進む 『建築・まちづくりプロジェクトのマネジメント』をめぐって」も載っています。
お二人は、専攻は違いますが東大教授で、高校からの同級生だそうです。
野城先生は都市工学、吉見先生は社会学と理系と文系に分かれているのですが、それぞれ理系と文系の(本流でない)「その他」であり、文理の壁を越えてお互いに近いと話しておられます。なるほど。
そして「まちづくり」の場合、イギリスでワークショップが開かれると、参加者の3分の1くらいが建築関係で、残りは社会学者などさまざまな人たちが集まってくるのだそうです。これも納得。
家を建て道路を造っただけでは、住みよい町はできないのです。
さらに例えば公営住宅の課題は、不足するので数を増やすとか、質を高めることから、住民の高齢化、孤立が主たる課題になっています。土木の領域を超え、福祉の領域になっているのです。
元に復旧することが無駄を生む
今朝2月27日の朝日新聞社会面(1面「71億円の橋、誰のために」からの続き)「(災後の風景@石巻:上)人住まぬ地、止まらなかった事業」に、私の発言が取り上げられました。写真付きです。
石巻市大川地区は、北上川河口にあり、大震災で水没しました。巨額の国費を投入して農地や堤防、橋などを復旧しました。住民は、ほかの地区に移住しました。
・・・ 「止めたくとも、止められなかった」
この地区の復興についてそう話すのは誰あろう、岡本全勝(まさかつ)・元復興庁事務次官(68)だ。政府で復興事業の指揮をとってきた。
2012年の復興庁の発足後、岡本さんは何度も現地を訪れ、疑問を持った。「米余りの時代に大がかりに農地を戻すのは、ムダではないか。ほかの方法はないのか」。農林水産省の職員に尋ねたという。だが、農地も防潮堤も道路も、すでに復旧は走りだしていた。
災害復旧事業は壊れた公共土木施設や農業施設を確実にもとに戻すため、国が自治体に手厚い財政支援をする。災害後ただちに所管省庁の出先機関が現地で査定に入り、迅速な復旧をめざす。新規事業とは違い、「費用対効果」は問われない。復興庁が所管する復興交付金とは別制度のため、調整も難しかった。
「それぞれの役所が、いったん走り出すと止まらない。だが住む人がいなくなってしまう場所で、その仕組みでよかったのか。『部分最適』が結局『全体不最適』になってしまった」・・・
・・・ これからに向けた教訓はあるだろうか。
壊れた公共インフラを、国の負担でいち早く元通りに戻す。災害復旧制度は、長く国土のメンテナンスを担い、地域社会の安全を支えてきたと言える。
だが、人口減が始まった日本で、この仕組みに矛盾が生じてはいないか。近年は毎年のように豪雨災害が発生し、災害復旧の総額も膨らんでいる。
地方自治体の政策を担う総務省の元官僚でもある岡本さんは「まちが縮小するとき、各種施設を元の大きさで復旧してよいのか。費用対効果を検討してはどうか。各施設をバラバラに復旧するのではなく、将来どんな地域にするか面的な検討も必要だ」と提案する。(編集委員・石橋英昭)・・・
参考「復興事業の教訓、過大な防潮堤批判」、そのほか「復興10年の反省」
日本人は世間の目を気にするか
日本人論や日本特殊論の定番に、「日本人は世間の目を気にして行動する」という説があります。確かに、法律で強制していないのに、みんながマスクを着用することなどは、世間の目を気にしているということで説明がつきます。「世間という同調圧力」
他方で、「本当かな」と思う事例もあります。私たちは子どもの頃から「人に笑われないように」と教育されてきました。でも、朝の通勤通学の電車中で、たくさんの人がスマートフォンのゲームやドラマに熱中しているのは「みっともない」とは思わないのでしょうか。
国際社会においても、明治以来、「西洋先進国に遅れてはいけない」と「笑われないように」と言われてきました。ところが、1991年の湾岸戦争で、石油をこの地域に大きく依存しているのにもかかわらず、不法なイラク軍を追い出すために関係国が軍隊を派遣する中、日本だけがお金で解決しようとして、世界から厳しく批判されました。
上記のマスクについても、現在ではほとんどの国で着用をやめたのに、日本はまだ守っています。先日ヨーロッパに出かけた知人が「誰もマスクをしていなくて、している自分が恥ずかしかった。すぐに外しました」とのこと。
これらを見ていると、どうも日本人が気にする「世間の目」は一貫せず、ご都合主義的です。そして、「自分では判断したくない」「大きな負担はいやだ」という意識の表れのようにも見えます。
それにしても、エスカレーターの右側が空いているのに、左側に延々と並んで待つのは、やめませんか。非効率です。鉄道会社が「二列に並んで、手すりを持って・・・」と呼びかけているのに、改善されませんね。