アメリカ人も気兼ねして発言しない

8月12日の日経新聞夕刊、美術史家・秋田麻早子さんの随筆、「すべては繫がっている」から。

・・・アメリカでの大学時代、私は美術史と美術実技の二重専攻で、油絵や版画などの作品を制作する授業をかなり取っていた。実技の授業では、先生が作品について講評する。それに加えて、生徒同士で互いの作品について批評しあう時間も設けられていた。
それまで私はこう思っていた。アメリカ人は自己主張に慣れているので、こういった場面でもはっきり自分の意見を言うのだろう、と・・・

・・・ところが、実技のクラスでのクラスメートの態度は、私の予想を裏切るものだった。油絵のクラスでのことだ。誰に意見を求めても「すごくいいと思う」「好きだな」「色とかすてきだと思う」といった誰でもとっさに思いつく内容を、小声でおずおずと述べるだけ。そしてすぐに全員が押し黙り、教室がシーンとなった。先生もあきれ顔。
私は驚いた。アメリカ人もそうなのか、と。そして安心もした。

確かに、軽く褒めるといった程度のことなら、アメリカ人の学生は日本人よりずっと簡単にやってのけるところはある。また、どうでもいいと思われそうな事を恥ずかしがらずに聞くのも上手だ・・・
・・・しかし、他人の作品についてかなり突っ込んだレベルでどうこう言わなければならない局面になると、途端に気を使い始めるのだ。余計なことを言って空気を悪くしたくない、という磁場が形成されていくのを感じた・・・

官邸一強を支える日本政治の構造変容

8月11日の朝日新聞オピニオン欄、松尾陽・名古屋大学教授の「「官邸のせい」言説はなぜ 権力構造の「健診」が必要」から。

・・・さて、事件の前から安倍政権については、既に多くのことが語られている。日本の歴史上、最長期間を務めた総理大臣。集団的自衛権の問題をはじめとして憲法問題についても積極的に動いた。
称賛であれ非難であれ、2010年代の長期政権の間は、メディアは彼の一挙一動を報道していた。すべてが彼や彼の周りに原因があるかのような言説もみられる。「官邸主導」や「官邸1強」、はては「独裁者」といった言葉が大手メディアやネット上にあふれていた。今回の事件後、「社会に分断をもたらした」という声も聞かれた。
このような言葉を憲法の観点からどのように受け止めることができるのか。近代憲法では、一人の人間、一つの機関に権限が集中しないようにする国家の枠組みが設けられている。ただ、この枠組みは、憲法典の規定だけではなく、社会、経済、政治の構造によっても支えられる。憲法典の規定だけで、権力集中が防げるわけではない。

「憲法」は英語でconstitutionであるが、もともとは「構成」という意味で、全体のバランスのことである。「You have a good constitution」は「健康ですね」と訳される。モンテスキューやマディソンなど、憲法の基本となる考え方を発展させた人びとも、国家や国を支える構造全体のバランスのことを考えていた。社会、経済、政治の構造に支えられながら、憲法上の制度は機能する。
このような仕組みが健全に機能しているとすれば、安倍元首相や官邸に権力が集中するはずはない。集中したとしてもチェック機能が働くはずだ。彼をめぐって展開された言説は誤解に基づくものであるのか、あるいは、このような憲法の枠組み全体にひずみが生じているのか。
ここで問題としているのは、安倍政権の内実ではなく、『すべて安倍首相や官邸のせいだ』といった言説を生み出した構造は何かということである。

鍵となるのは、この30年で生じている日本政治の構造変容である。冷戦の終結後、民意が反映される形でのリーダーシップが期待され、さまざまな改革が行われてきた・・・
・・・他方で、「政治主導」をスローガンとして、官僚の権限を弱める改革も行われた。各省庁の事務方のトップが大きな影響力を行使していたとされる事務次官等会議も09年に廃止された(数年後、次官連絡会議という形で復活したが、情報共有の側面が強いとされている)。また、各省庁でなされていた決定を政治家がひっくり返すという「事業仕分け」という象徴的な場も設けられた。

これらの改革だけが原因ではないものの、政党と政治家の関係、政官関係など、政治構造は大きく変容し、官邸や党の執行部に権限が集中するようになった。他方で、与党に対抗する規模の野党が長期的に形成されてきたとは言い難い。このように変容した構造の上に第2次安倍政権は成立していた。
以前に比べれば、リーダーシップが発揮される条件は達成されたのかもしれない。しかし、民意の反映のあり方は変わってしまった。安倍政権の内実だけではなく、それを支えてきた構造自体の検証も必要であろう。30年で移り変わった、この国全体のバランス、すなわち、constitutionを見直す「健康診断」が必要である・・・

国が自治体に策定を求める行政計画

8月9日の日経新聞に「計画策定に自治体悲鳴 分権改革会議、見直し議論へ」が載っていました。
・・・国が法令で自治体に策定を求める行政計画が増え、自治体から悲鳴が上がっている。全国知事会は「自治体の自由を縛る新たな形の関与だ」と指摘し、政府の「地方分権改革有識者会議」で見直しに向けた議論が本格的に始まった。国と地方を巡る分権改革の新しい課題だ。「計画漬け」にメスは入るだろうか・・・

内閣府によると、法律に計画策定が明記された条項数は2020年末で505もあるそうです。2010年時点では345だったので、この10年間に1.5倍になっています。
うち、義務づけが202、努力義務が87、できる規定が217です。できる規定は、つくるかどうかの判断を自治体に委ねているので問題なさそうですが、多くは計画を財政支援の条件にしていることと、自治体名が公表されるので、競わせることになります。

記事には、献血推進計画が取り上げられています。確かに、都道府県ができることには限りがあり、計画を作っても効果は疑問です。

旧統一教会、社会との関係

8月10日の朝日新聞オピニオン欄「旧統一教会、社会との関係」、紀藤正樹・弁護士の発言から。

旧統一教会は、1980年代から90年代に大きな社会問題になりました。当時と比べて、教団の活動自体にあまり変化はない。大きく変わったのは社会の視線です。
90年代には、70~80年代に勃興した新興宗教が統一教会以外にも多くあり、社会がカルトを見る目も厳しかった。特に95年のオウム真理教事件の後は、カルト問題の報道が非常に多くなされました。
ところが、2000年代半ば以降、新興宗教についての報道が明らかに減ります。オウム真理教事件が風化し、社会の視線も厳しさを失った。カルトへの厳しい視線や社会的規制が続いていれば、政治家も安易に統一教会とは関われなかったはずです。

法的な規制の問題もあります。1987年、統一教会と関係があり、高額なつぼなどを販売する会社の霊感商法に被害者から提訴が相次ぎ、警察も摘発に動きますが、会社が霊感商法の自粛を宣言してうやむやになってしまった。
2000年代後半には、警察が摘発に乗り出し、09年に統一教会系の企業「新世」の社長らが逮捕され、有罪判決を受けました。しかし、教団本部への家宅捜索までは行かず、統一教会が「コンプライアンス宣言」を出すというあいまいな決着になりました。

メディアの変質もあると思います。7月8日に安倍晋三元首相が殺害された後、容疑者と旧統一教会の関わりについて、新聞やテレビは教団側が記者会見した11日まで報道しませんでした。いくら選挙期間中だといっても、全社横並びで旧統一教会の名前を伏せていたのは異様です。
法的な規制は信教の自由に抵触するといわれますが、カルトすなわち反社会的な宗教団体と、一般の宗教団体を一緒に考えるべきではありません。欧米では、カルトがカルトであるゆえんは、違法行為をすることだと見なされています。脱税、詐欺、脅迫、性加害や児童虐待もある。既存の法律を厳格に適用し、違法行為を摘発していけば、おのずとカルトはなくなっていくはずです。

95年にオウム真理教事件があり、今度は元首相の殺害事件が起きた。30年間にカルトに関わる大事件が二つも起きる異常な事態を招いたのは、国会や政府がオウム真理教事件の総括をきちんとしなかったことが一因だと思います。今からでも遅くないので、カルト問題全般について、原発事故調査委員会のようなものを国会内に設置し、対策を考えるべきです。

二種類の「がんばる」

8月10日の朝日新聞文化欄「荒井裕樹の生きていく言葉」「「がんばる」には二つある」から。

その時々の社会状況に応じて、どんなふうに使われるかを観察し続けている言葉がある。「がんばる(がんばれ)」だ。
二〇一一年の東日本大震災の時、被災者の心中を慮ってか、多くの人がこの言葉を自粛したように記憶している。対して、コロナ禍ではむしろ積極的に使われてきた節がある。がんばる医療従事者、がんばる飲食業界、がんばる観光業者、といった具合に。

私見では「がんばる」には「はつらつ系」と「忍耐系」がある。前者は、当人が好きなことや望ましいことに打ち込む様子を肯定的に捉える際に使われる。後者は、当人が不幸な出来事に巻き込まれた際、くじけそうな気持ちを鼓舞するために使われる。
もちろん、両者の区別は曖昧で、普段は意識されることもない。だが、私はこの違いに自覚的でいたい。でないと、本当に必要な区別が付かなくなってしまうように思うのだ。