日本の伝統の未来、西陣織

7月24日の読売新聞、細尾真孝・西陣織細尾社長の「美意識と創造性 工芸の力」から。

・・・「工芸」という言葉を辞書で引くと、「実用性と美的価値とを兼ね備えた工作物を作ること」とあります。人間の創造性の原点にあるのは、自らの手でより美しいものを創り出したいという原始的な欲求。それに忠実であること。つまり、美意識を持った創造的活動だと考えています。
その工芸が、近年、世界的に注目されています。

先月、世界最大級のインテリアやデザインの見本市「ミラノ・サローネ」に出展しました。商談会への参加は10年ぶりのことでしたが、新作のシルクとヘンプ(大麻)をミックスした布のシリーズを出品し、大きな手応えを感じました。
世界1500社を超える有名企業が最先端のデザインコンセプトを披露する見本市では、各社ともコロナ後の新たな価値観が商品に打ち出されていました。表面的なデザインではなく、自然とのつながりや、長く使い続けられるものの大切さ。そして、人間の「手」の力などがベースとなった美しさを追求する傾向にあります。工芸や工芸的思考に通じるものです・・・

・・・先代がパリのインテリア見本市に出展し、和柄のクッションを出品したのを見て、西陣織を海外で展開するのは面白いと思ったのです。
一人で世界各地の展示会を回って営業したものの、事業にはならない。社内には「着物が厳しいのに、なぜ赤字になることをする。道楽じゃないか」という空気が流れていました。
08年、パリで日仏交流150周年を記念した展覧会が開かれました。「日本の感性価値」がテーマで、ゲーム機や携帯電話などとともに、細尾は琳派の柄の帯を出品しました。展覧会は好評で翌年、ニューヨークに巡回しました。
会期終了直後に一通のメールが届きました。差出人は、世界的な建築家のピーター・マリノ。展覧会で帯を見て、店の内装に使う布の開発を依頼してきました。しかも、鉄の溶けたような柄です。フランスの高級ブランド、ディオールの店のためでした。彼が注目したのは、西陣織の技術と素材。和柄でないと海外で勝負できないと信じていたのが固定観念だったと気付かされたのです。
ただ、問題は布の幅です。織機は着物や帯のためなので大体幅32センチで内装には使えません。西陣織として初の150センチ幅が織れる織機を開発することを決め、1年がかりで完成させました。

西陣には世界一複雑な構造を織ることができ、様々な色を織り分ける技術もある。箔を使った素材もそうです。織機を作ったことで、見える世界が変わった。世界のテキスタイル(布)市場に参入し、高級ホテルなどでも使われるようになりました。他業種との協業や研究開発も相次いでいます。
工芸の世界は斜陽と言われています。ニッチだと言われたり、遠い存在に思われたり。しかし、日本は工芸大国です。風土や伝統、歴史を生かした、その土地ならではの工芸が数多くあります。世界の人たちが知らない技術や素材、ストーリーもある。チャンスと捉えることもできるのではないか・・・

連載「公共を創る」第125回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第125回「社会参加政策のあり方―スウェーデンとドイツ」が、発行されました。社会参加の意識を議論しています。

前号で紹介したスウェーデンの政治教育のために、若者・市民社会庁が作った副教材「政治について話そう!」には、学校において中立を保ちながら政治を教えるためにはどうしたらよいか、どうしたら騒動を起こさずに安全な討論会を実施できるかといった実践的な事項も書かれています。「学校は価値中立にはなり得ない」こと、すなわち社会の中にある多様な価値観をすべて公平に扱うことはできないと断言しています。翻って日本の状況を考えてみると、学校だけでなく、家庭などでも政治の話、特に意見対立がある争点については触れないようにすることが多いようです。

同国には若者を社会参加に誘う場として、若者団体のほかに「ユースセンター」「若者の家」という余暇活動施設があります。中学・高校生世代が誰でも自由に出入りできます。そこは、学校でも家庭でもない「第三の居場所」として機能しています。

スウェーデンで積極的な若者政策が国政において取られ、発展してきたのは、ここ30年のことです。経済成長を遂げて成熟社会の段階に入った頃から、人生の選択肢が増え、「良く生きる」ことが単純明快なものでなくなりました。かつては多くの人にとって「家庭→学校→就職→家庭を持つ」という単線的だった人生が、そうではなくなったのです。このことから生じる人生への不安や悩みが、学校から社会に出ようとして選択しなければならない立場にある若者に集中するようになりました。

1981年の政府報告書は「若者が、商品やサービスの消費者になっているだけでなく、自分自身の人生においても『消費者』になってしまい、結果として自身の人生を自分で決めることができなくなっている」と述べています。そこから、社会の発展に必要な彼らを、社会と政治に参加するようにさせることに踏み出したのです。

忖度圏と孤立圏

7月29日の朝日新聞生活面「負担感強まる中間層、どうすれば 中央大・宮本太郎教授に聞く」から。

・・・物価高騰で、くらしは厳しさが増しています。給料は上がらないのに税や社会保険料の負担感が強まり、細っていく中間所得層。中間層再生の必要性が訴えられるようになりましたが、どんな選択肢があるのでしょう。中央大学の宮本太郎教授に聞きました・・・

・・・今の世の中は「忖度圏」と「孤立圏」にわかれています。中間層が属してきた忖度圏は、いつも空気を読んでいないと追い出されてしまう場所で、ディフェンシブにならざるを得ません。
いざというときの社会保障制度は、主に正社員とその家族を守る社会保険が中心です。忖度圏から一歩外に出ると、つながりすら断たれる孤立圏に入ってしまう。中間層は忖度圏で我慢し続けることで安心を得てきました。でもその安心は、一歩間違えるとすべて失う、という不安の源にもなっています・・・

成熟社会になった日本社会の不安を、上手に表現しておられます。

「みんな違ってみんないい」のか?

「みんなちがって、みんないい」という言葉をよく聞きます。戦前の詩人、金子みすゞさんの詩にある言葉で、小学校の教科書にも載っているようです。
社会ではこれでは困ることを、「こども食堂3」で紹介しました。湯浅誠著『つながり続けるこども食堂』(2021年、中央公論新社)に次のような指摘があります。
「みんなちがって、みんないい」はよいことか。家族旅行に行くときに希望を聞いたら、父はハワイ、母は温泉、姉はディズニーランド、私はどこも行きたくない。では、みんなバラバラに行くのがよいのか。困りますよね。

山口裕之著『「みんな違ってみんないい」のか?――相対主義と普遍主義の問題 』(2022年、ちくまプリマ―新書)は、この問題を哲学の系譜で説明したものです。人や文化によって価値観が異なり、それぞれの価値観には優劣がつけられない」という考え方が相対主義であり、「客観的で正しい答がある」というのが普遍主義です。道徳と事実の二つにおいてそれらを議論します。
「正しさは人それぞれ」「みんな違ってみんないい」という主張は、共同生活で何か一つを選ばなければならない場合に、権力者の意向で結論を決めることを正当化することにつながります。「客観的に正しい答がある」という主張は科学や専門家の意見を尊重することですが、科学者の間でも一つに定まらないことがあります。科学もまた、科学者たちが「より正しそうな答え」を探し出すものです。

山口さんの答えは、共同作業によって正しさが作られていくというものです。社会における正しさは、各人が決めてよいものでもなく、権威ある人が決めてよいものでもなく、みんなで議論して「正しさ」を作っていくものです。

バラバラな人たちの病理

7月19日の朝日新聞「元首相銃撃 いま問われるもの」、宮台真司さんの「バラバラな人々に巣くう病理」から。

――なぜ(旧統一教会は)多くの信者を集めることができたのでしょうか。
「米国でも同時期、人工妊娠中絶や進化論を否定するキリスト教原理主義が影響力を持ち始めました。共通点は、資本主義が拡大するなかで、『不全感を抱く分断された個人』が量産されたことです。かつて就職や結婚から調味料の貸し借りまで生活の便益は、家族や地域の人間関係からなる生活世界を通じてのみ手に入りました。だが、市場や行政のシステムを頼るようになった結果、面倒がなく便利になった半面、人間関係が希薄になりました」
「20世紀半ばに社会学者ラザースフェルドは、中流化による豊かな人間関係が、健全な民主主義を支えるとしました。だが世紀末からのグローバル化による中流分解で、剥き出しになった個人が、不安とデマに直撃され始めました。そこにつけいる形で、独特の世界観で支持者を束ねる宗教団体が、集票力によって政治的影響力を増しました。かくして内政面では『政治の原理主義化』、国際的には『原理主義のグローバル化』が起きるようになりました」

――現状はどうですか。
「互いにバラバラで『呼んでも応えない周囲の人』と、システムが複雑化して『呼んでも応えない統治権力』は、不全感に駆られた剥き出しの個人を一定割合生みます。そこに、自分と社会の現況を説明し、生きる意味を含めた『確かな物語』を与えてくれるカルトが必ず巣くいます。95年のオウム真理教事件もそうでした。私は、95年の著書で『終わりなき日常を仲間とまったり生きろ』と、身近な人間関係を支えとする処方箋を示しましたが、状況は変わらないどころか、その頃からの経済停滞と生活世界の空洞化で、問題は深刻化しました」