世界に遅れる日本の大学教育

9月14日の日経新聞教育欄、田中愛治・早稲田大学総長の「コロナ禍の大学教育改革 データ科学で未知の問題解決を」から。

・・・問題は高校までの教育にもある。多くの高校はより知名度と偏差値が高い大学への入学を目的にしたため、常に正解が一つだけの問題を早く解く教育に力を注いできた。
それでも、1990年代初頭までは日本の高校3年生の学力は数学でも理科でも社会でも世界一だった。その結果、日本の多くの大学、特に文系学部では、大学4年間で真剣に学問を学ぶよりも、サークル活動や体育会の部活動でチームワークを学び、人間関係の調整能力を育んでおけば、社会に出てもコミュニケーション能力とガッツで成功できると考えられてきた。事実、90年代初頭までは、日本の産業競争力は世界一であった。

一方、多くの企業の人事採用担当者も数年前までは「職場内訓練(OJT)で鍛えるから、大学で余計な学問を教えず地頭の良い学生を送ってほしい」と考えていたのではないか。だが、世界中でDXが加速する中、この考え方で大学生活を送っていたら日本の大卒者は国際競争力を失う。
経団連加盟企業との意見交換でこんな話を聞いた。入社後のOJTで議論の根拠となるデータを示しながら新しい提案をする「エビデンス・ベースト」な思考法を教えても、通常の業務をこなしながら学ぶので時間がかかり、習得するのは30歳代後半になってしまう。欧米ではその年齢で企業のトップとして活躍する人材が多数いる。
このことは、大学時代にデータ科学の考え方を学び、エビデンス・ベーストな議論の仕方を理解していないと、日本の大学の文系学部卒業生は世界に15年以上遅れてしまうことを示唆している。
では、理工系の学部を増やせばよいのかというと、それはあまりにも短絡的な議論である。
データサイエンス学部を卒業してデータ科学を学んだからといって、人間の行動(消費者行動、社会的行動)に有効な施策を打ち出せるとは限らないからだ。社会科学系もしくは人文学系の学部で人間の社会での営みをしっかり学び理解しておかないと、データ科学は活用できない。文系学部でデータ科学の賢い利用者(wise user)になる学生を育てないと、日本の国際競争力はますます衰退していく。

コロナ禍が日本社会に突きつけたもう一つの根本的な問題は、日本の教育のあり方が人類が直面する問題にうまく対応できないことである。コロナ禍は人類の誰もが答えを知らない未知の問題の典型だが、日本の教育で育った者は、未知の問題に挑戦するのが苦手なことが明らかになった・・・

詳しくは、原文をお読みください。

去年の今頃

去年の今頃、何をしていたか、世間はどうなっていたか、覚えていますか。
先日ある人から「去年の秋は、旅行に行ったり、飲食もしていましたよね」と言われ、「そうだったけ」と議論になりました。
私は、昨年春のコロナ流行から、行動制限が続いているような錯覚に陥っていました。「1年半も、会食ができず、旅行も制約があるよな」とです。しかしその人の指摘を受けて、思い出しました。ゴーツートラベルキャンペーンって、やっていましたよね。

手帳を出して確認したら、去年の秋は、国内旅行も出かけていて、被災地視察も行っていました。夜の会食もです。
NHKウエッブで見ると、去年の9月ごろは、全国の一日の感染者数が500人程度だったのですね。今年の夏の万単位とは、まさしく桁が違いました。

去年のことを思い出すことも重要ですが、未来を考えなければなりません。来年の春、来年の秋に、どうなっているか。またどうするかです。
コロナウイルスを完全に押さえつけることは難しいでしょうが、うまく制御して、日常生活を取り戻したいです。見通しを示すこと、それに向かって条件を整えることが、為政者の任務でしょう。
子どもたちや学生、新採職員の養成など、そして飲食店や旅行業とその関係者のことを考えると、まずは一定の制約つきで行動制限が緩和できるようになると良いですね

「エビデンス至上主義」の危うさ

朝日新聞デジタル医療サイト、失敗学の畑村洋太郎さんの「「考え」ない菅首相、その罪深さと正しさ」(9月12日)の後段から。

・・・僕は東京電力福島第一原発事故の政府の事故調査・検証委員会の委員長を務めたけど、失敗の原因をさぐるためには、なぜこんなことが起きたのか、「推測する力」が必要な場合もあるんだ。
ところが今の科学は、推測で書いているようなものはどんどん排除しようという方向になっている。「エビデンス」などといって、証拠がないことを発言してはいけない、という空気も強まっているように思う。
でも、そういう考え方の制約を外さないと、正しい考え方はできないんじゃないか。

委員長をやっていたときに開いた国際会議の中間報告書で、僕は「あり得ることはこれからも起こる」「あり得ないと思うことも起こる」と書いた。
そしたら、フランスのラコステ原子力安全庁長官が「『思いつきもしないことさえ起こる』というのも足さないと、人間が考えるすべての領域を全部、採り上げたことにならないぞ」と言ってくれた・・・

2人孤独死

9月14日から朝日新聞社会面で、「2人孤独死」が連載されています。
内容は、記事を読んでいただくとして。高齢者の2人暮らしで、2人とも倒れる、あるいは世話をしていた方が倒れることでもう1人も倒れる事例が載っています。このようなことも起きるのですね。

高齢者の一人暮らしは孤立し、孤独死の可能性があります。このことは、世間では認識されていますが、2人暮らしでも危険性は高いのです。
ここでわかるのは、独り暮らしが危険、2人暮らしが危険というのではなく、孤立していることが危険だということです。外部の人と毎日の付き合いがあれば、助けを求めることができるでしょうに。
プライバシーが守られる、扉を閉めれば内部の様子がわからないアパートやマンションででは、孤立はさらに高まります。

他方で、新型コロナウイルス感染症で、一人暮らしでの危険性も報道されています。
一人暮らしで何かあった際の危険、そして孤立していることの危険。これらへの対処が求められています。連載「公共を創る」で取り上げている主題の一つです。

追いついた後、投資先がわからなくなった日本の資金

9月10日の日経新聞経済教室「金融緩和の功罪」は、村瀬英彰・学習院大学教授の「政策に期待する機能、熟考を」でした。

・・・低インフレ、低金利、低成長。日本経済は様変わりした。変化の根底には貨幣・国債を中心とする安全資産への需要の膨張がある。それは貨幣・国債の大量発行にもかかわらず、歴史的な低インフレ、低金利をもたらしている(図参照)。また低成長の原因にもなり、金融政策に期待される機能にも変化を生み出している。

貨幣・国債といった安全資産の需要が異例の膨張をしたきっかけは、1980年代に遡る。その時期、日本は欧米諸国にキャッチアップした。だがフロントランナーになると、成長の成果として蓄えた膨大な資金をどこに投資すべきかがわからなくなった。行き場を失った資金はバブルの狂乱を生み、バブル崩壊後の不良債権処理の遅延は銀行のリスク負担能力を奪っていった。
銀行融資中心の日本の金融では、銀行こそがリスクマネーの供給者であり、資本市場のリスク負担能力は十分でなかった。日本はフロントランナーになり一層のリスクマネーを必要とするタイミングで、リスクマネーを失う最悪の事態に陥った。
実際その後、銀行は貸し出しよりも国債購入を選好するようになり、大規模な金融緩和の下でも超過準備を積み増す傾向を強めた。不良債権の処理が終わった後も、無形資産や人的資本を中核の生産要素とする情報通信技術(ICT)企業などの資金需要に十分な対応ができない状況が続いている。

一方、銀行というリスクマネー供給者を失った企業は投資主体から貯蓄主体に転化し、金融危機が起きるたびに現預金を蓄える傾向を強めた。さらにリスクマネーが消失すると、企業活動のリスクは他の誰かに押し付けられるようになる。非正規雇用の増加など労働者がバッファー(緩衝)として使われるようになり、家計も将来不安の増大から安全資産需要を高めた。
日本の金融機関や企業、家計を覆う全面的な安全志向は、フロントランナーとして不確実性の高い技術革新や資本蓄積、つまりリスク資産への投資が求められる状況で重い足かせとなった。日本が他の先進国の停滞にも増して、より長く深く先の見えない停滞に陥った大きな理由といえる・・・

詳しくは原文を読んでいただくとして。連載「公共を創る」でも、欧米へ追いつくことを国是とした日本が、それを達成した後、長い混迷の時期に入っていることを説明しています。この村瀬先生の説明は、資金の運用から見た、追いつき達成後の日本経済の低迷が明快にわかります。そして、バブルの原因も。