コロナ対策に見る政治と専門家

7月9日の朝日新聞オピニオン欄「もの言う専門家 新型コロナ
佐藤靖・新潟大学教授の発言から。
・・・今回のコロナ禍では、政治と科学の関係のモデルが大きく揺らいだと思います。
政治への科学的助言で先進的とされる英国では、政府首席科学顧問や非常時科学諮問グループ(SAGE)などの仕組みが整備されていましたが、コロナ対策では出だしで迷走しました。最初は行動抑制を避ける方針だったのが、途中でロックダウンに転換した。SAGEの人員構成や、議事録が当初非公開だったことも批判されました。
日本は、そもそも非常時の科学的助言についての議論が手薄で、仕組みも整っていませんでした。しかしコロナ対策では専門家のネットワークが機能した。政府が専門家会議をつくる前から、専門家たちは連絡を取り合い、協力する動きが始まりました。ただそれは偶然の要素も大きかった。2009年の新型インフルエンザの後、尾身茂さんをはじめとする専門家の人的つながりが蓄積されていたからこそ、機動的に対応できたという面があります。非常時には形式や仕組みだけでなく、意思と能力をもつ専門家の柔軟な協力態勢が必須であるということでしょう・・・

・・・コロナ禍では、科学と政治の境界が明瞭ではなく、グラデーションになっていることが見えてきました。様々な立ち位置の科学者と政治家・行政官が構成する「生態系」のようなイメージでしょうか。
政治と科学は、二項対立でなく緊張関係の中で協働していることを、国民に理解してもらうのが重要です。そして今後の危機に向け、科学的助言を機能させるには、政治と科学の関係のモデルを作り直す必要があります・・・

自見英子・参議院議員の発言から。
・・・私は昨年のコロナ対応の初期に、厚生労働政務官を務めていました。あるとき官僚から書類を渡されました。保健所がパンクする、地方自治体との関係が難しい――コロナ対策の課題がよくまとまっていると思ったのですが、なんと新型インフルエンザ流行後に専門家の指摘を役所がまとめた10年前の反省文でした。愕然としました。
行政が、専門家の総括を受け止めてこなかったのです。今の官僚は国会対応に追われ、人事異動も頻回で、その場しのぎになっている。志は高くても、疲れて、萎縮もしているのでしょう。気の毒です。

一方、最終決定するのは政治家の役割で、専門家もそれは分かっています。しかし、例えば「Go To トラベル」は、のちに修正されましたが、当初は感染が拡大すると感染者の積極的疫学調査を旅先まで徹底できないという限界が理解されていませんでした。専門家や保健所にはストレスだったでしょう。
専門家の言葉が十分に重視されていないこの国では、十年単位で担うような専門性のある政治家がいないとダメ。政治家が勉強して議員の仲間を増やし、役所の課長が代わる度に今までの流れを伝えるといったことを続けなければ。建設的な族議員は必要と考えます。都道府県の役割の明確化も政治家の仕事です。
今は政策課題を「政局」にしすぎです。感染症などの「国難」対策には、党派を超えて普段から取り組むべきです・・・

産業政策の復権

7月5日の日経新聞オピニオン欄に、西條都夫・上級論説委員の「技術革新めぐる「国家の復権」 官民の力、結集が不可欠」が載っていました。

・・・過去40年続いた民間主導の経済パラダイムが転機を迎えたのだろうか。米バイデン政権は温暖化対策や半導体のサプライチェーン強化に向けて巨額の公的資金を投入する。欧州や中国でも国家がイノベーション創出に関与するのは日常茶飯だ。日本も経済産業省の一部に政府の主導する「産業政策」の栄光復活を模索する動きがある。
6月初旬の同省・産業構造審議会の総会で配布された「経済産業政策の新機軸」と題する資料は一部で大いに注目された。「市場(ビジネス)のことは市場(企業)にまかせ、政府は市場の失敗の後始末に徹する」という従来の役割分担から大きく踏み出し、「政府こそが産業構造を転換させる主役」という世界の識者の言説をちりばめた。
▼「米国には新しい経済哲学が必要」「以前は恥ずべきものだった産業政策は、今ではごく当たり前の政策だ」=ジェイク・サリバン米大統領補佐官(国家安全保障担当)
▼「政府が教育や研究に資金提供し、ハイテク設備の主要な購買者になることで、決定的な支援を提供できる」=ダロン・アセモグル米マサチューセッツ工科大教授
▼「国家はムーンショット(月に人を送るような、とてつもない大型計画)によって、イノベーションの主導者であるべきだ」=マリアナ・マッツカート英ユニバーシティー・カレッジ・ロンドン教授
こうした言説が注目され、現実の政策にも採用される背景にはいくつかの必然性がある。一つはカーボンゼロのような遠大な目標を達成するには、個々の企業の努力の積み上げでは足りず、国家レベルでの資金供給が必要になること。もう一つはサリバン氏はじめ安全保障系の論者に色濃い視点だが、競争相手の中国が国家主導の産業政策を推し進め、人工知能(AI)や高速通信規格「5G」で一定の成功を収めていることだ・・・

・・・さて、本題に戻り、イノベーションを起こし、経済を前に動かすには国の役割が重要だ、という説を検証してみよう。新型コロナウイルスワクチンを例にとれば、国家の関与の重要性は明々白々だ。
米同時テロで炭疽(たんそ)菌の脅威に直面した米政府は感染症対策を安全保障の一環に位置づけ、手厚い助成を続けてきた。コロナ禍が襲来した昨年以降はさらに巨額の補助を注ぎ込み、驚異的な速度でのワクチン実用化にこぎ着けた。日本の厚生労働省がワクチン開発全般に後ろ向きだったのとは好対照だ・・・

記事でも主張されていますが、企業と政府どちらかが強いのではなく、企業の得意な分野、政府が乗り出すことが適切な分野があります。その目利きが、政府に問われているのでしょう。経済自由主義や小さな政府論などの主張は、一面的すぎます。

イスラエルによるシリア原子炉爆撃2

イスラエルによるシリア原子炉爆撃」の続きです。
イスラエルの諜報機関がつかんだシリアの原発建設。どのようにしてそれを確認するか。アメリカとの連携が模索されます。次に、どのように対処するか。急がないと、完成してからでは、原発を破壊するとユーフラテス川に放射性物質が流れ出て、下流を汚染します。選択肢は、大きく分けて次の3つ。

1 国際社会に訴える。それは正しい方法ですが、シリアの行動を止めることはできないでしょう。建設中の原発に子どもを入れて、爆撃できないようにするだろうと予測します。
2 能力を持っているアメリカに爆撃してもらう。しかし、イスラエルの働きかけに対し、ホワイトハウスはさまざまな検討を行い、結果として拒否します。関係者の意見の違い、アメリカの置かれた立場が、浮き彫りになります。
3 イスラエルが破壊する。しかし、どのようにして敵国奥地までたどり着くか。さらに、そのことによる報復攻撃にどう対処するか。前年に、イスラエル軍は手痛い失敗をしたばかりです。

イスラエル政府内での検討と決定、アメリカ政府内での検討と決定。さまざまな機関と政府高官が、異なる見解を戦わせます。一つの施設攻撃に、これだけもの多面的な検討がなされるのかと、改めて驚きます。そこに、この本の意義があります。
関係者には厳重な箝口令がひかれ、秘密を守る文書に署名させられます。秘密は守られます。秘密が漏れないように、資料はパソコンを使わず、手書きです。もちろん、携帯電話は持ち込み禁止。当たり前のことですが。

翻って、わが国の意思決定はどのようになっているかを、考えさせられます。
戦後70年余り、戦争に巻き込まれることはありませんでした。戦闘行為は2001年東シナ海での北朝鮮工作船撃沈事案くらいでしょう。しかし、北朝鮮と中国の軍事的脅威が現実のものとなった現在では、それへの備えが必要です。また、このような軍事衝突でなく、新型コロナウイルス感染症のような危機との戦いもあります。

その際に、だれに何を検討させるか。これも責任者の大きな決断です。そして異なるさまざまな意見を、何度も議論します。その選択肢をとった場合の利害得失、どのような反応があるかもです。最後に、首相が決断します。
私はそのような政治学として、この本を読みました。日本政府の高官にも、読んで欲しい本です。
イスラエルは、その後、イランの核施設をサイバー攻撃で破壊したとの報道もあります。

イスラエルによるシリア原子炉爆撃

ヤーコブ・カッツ 著『シリア原子炉を破壊せよ─イスラエル極秘作戦の内幕』(2020年、並木書房)を読みました。2007年に行われた、イスラエル空軍による、シリアの原子炉空爆です。どのようにして秘密裏に敵国に侵入し、空爆に成功したのか。興味があって、買ってありました。
読んでみたら、もっと深い内容のものでした。戦記物ではなく、複雑な政治意思決定過程を書いた本です。

シリアが原爆作成につながる原発を建設していることを、諜報機関がつかみます。その衝撃。その情報をさらに確認します。
2007年9月6日深夜、8機のイスラエル軍機がシリア国内を超低空で侵犯し、砂漠の奥深くで秘密に建設されている原子炉を破壊し、無事帰還します。この事実だけでも、興味深いのですが、この本は、それについては大きな紙面を使いません。その決断にいたるイスラエル政府内での苦悩、同盟国アメリカとの関係、その他関係各国との関係に、記述は費やされます。

イスラエルは、この成果を公表しません。シリアも、事実を公表しません。公表すると、原発を作っていたという国際法違反がばれるからです。イスラエルは、シリアのこの反応に賭けるのです。そして、成功します。
イスラエルが1981年にイラク原発を破壊した際には、その成果を誇り、当時の首相は政治的危機を脱します。しかし今回は、国内政治で苦境に陥っているオルメルト首相は、この成果で支持を挽回できるのに、国家の利益を優先します。
この項続く

外国人への扱い

7月7日の朝日新聞オピニオン欄「入管は変われるか」、鈴木雅子弁護士の発言から。

・・・「外国人」という呼び方が象徴するように、日本社会は日本国籍を持たない人たちを「外側」に置き、社会の構成員ではない、と遠ざけてきた面があると思います。なかでも在留資格がなかったり、難民申請中だったりする人だと、何が起きようと政治イシューにもならない。今のような入管行政を温存してきたのは、こうした日本社会の無意識の「容認」だと感じます。
こうした入管行政を法的に支えてきたのが、1978年に最高裁大法廷が出した「マクリーン事件」の判決です。

ベトナム反戦デモに参加したことを理由に在留期間の延長を却下された米国人の英語教師が訴えた裁判の上告審で、最高裁は「外国人の基本的人権保障は在留制度の枠内で与えられているにすぎない」と断じました。
出入国管理法(入管法)を憲法の上に位置づけるとも言える内容で、これが「在留資格のない外国人には人権はない」かのように用いられ、在留資格を失った外国人が恣意的に収容されたり、仮放免で社会に出ても就労して生計を立てることが許されなかったりする状況にお墨付きを与えてきました。

実際には、国際社会は自由権規約や子どもの権利条約などを通じて外国人の人権保障への考え方を発展させ、実践してきています。マクリーン判決は、日本がこうした国際人権条約に入っていなかった時代に出されたものですが、日本の入管と司法は、この40年以上前の判決の思考からいまだに抜け出していません・・・