買って捨てる、ごみ事情

杉並区の広報誌4月15日号「特集 すぎなみビト 芸人・ごみ清掃員 滝沢秀一」から。
・・・目標はただ一つ。日本のごみ削減! お笑いコンビ「マシンガンズ」の滝沢秀一さんは芸人として活躍する一方で、9年前から民間のごみ清掃会社で仕事を始めました。収集現場の日常を発信したSNSが話題となり、現在は芸人と清掃員、二つの仕事をしながら、執筆や講演を通してごみについて考える大切さを伝えています。今号ではごみ清掃の仕事とごみの削減にかける思いをお聞きしました・・・

─ ほかにもごみ清掃員を始めて驚いたことはありますか?
なぜこんなものが出るのだろう? と驚くような、謎めいたごみはたくさんあります。
例えばバナナの皮はなくて中身だけとか、同じものだけが45ℓのごみ袋いっぱいに詰め込まれているとか。刃がむき出しの包丁がごみ袋に入っていたり、みそ汁がそのままごみ袋に捨てられていたりすることもあります。
水分は結構厄介で、ごみは圧縮しながら清掃車に収めるので飛び散るんですよね。僕らはこれを「ごみ汁」と呼ぶのですが、浴びると本当に臭いがとれません。また、水分は焼却時に余計なエネルギーを使うのでコストが増します。もちろんそのコストは税金から賄われます。
こういったことはあまり知られていないのではないでしょうか。生ごみは水分を多く含んでいるため、一回でもぎゅっと絞って出すことをおすすめします。

─ コロナ禍でごみそのものにも変化はありましたか?
家で過ごす時間が増えたことが影響しているのでしょう、とにかく収集してもしきれないほどごみの量が増えました。大掃除や模様替えをする人も多いようで、洋服や100円均一で買えるような収納用品が大量に出ている印象です。安く買った分、捨てることがあまり惜しくないのかもしれません。ご
みと日々向き合っていると、「安く買ってすぐに捨てる」というサイクルが私たちの社会では当たり前になっているのかな? という気がします。

制度を所管するのか、問題を所管するのか。1

広い視野と行動力、岡本行夫さん」の続きにもなります。
公務員にとって、広い視野と狭い視野との違いは何か、どうして生まれるのでしょうか。その一つの答として、「制度を所管するのか、問題を所管するのか」の違いに、思い至りました。

広い視野の反対の一つが、「法令に書いてありません」「予算にありません」「それは私の所管ではありません」という公務員のセリフです。これはこれで、正しいのです。法律に基づいて仕事をする公務員としては。
しかし、困っている住民からすると、これでは答えになりません。社会の問題を取り上げ解決するのが公務員の役割なら、思考と視野を所管の範囲に狭めてはこまります。

その基にあるのが、制度を所管するのか、問題を所管するのかの、思考の違いです。
ある課題について、制度(法令、予算)を所管していると考えると、その制度の範囲内で処理しようと考えます。それに対して、問題の解決を所管していると考えると、今ある制度を超えて、どのようにしたらその問題を解決できるかを考えるでしょう。

東日本大震災からの復興で、被災者支援本部と復興庁が、これまでにないことに取り組んだのも、これで理解できます。これらの組織は、制度を所管しているのではなく、被災者支援と被災地の復興が任務だったからです。
この項続く

ウィキペディア20年

5月1日の日経新聞、村山恵一・コメンテーターの「20歳のWikiに映る「格差」 ネットの百科事典の壁」から。ウィキペディアができて、もう20年、まだ20年なのですね。
・・・無料のオンライン百科事典ウィキペディアが2001年の開設から20年を迎えた。記事は5500万本以上あり、閲覧は月に150億回以上にのぼる。インターネット時代を象徴する存在に育った。
感じるのは「人とネット」をめぐる2つの側面だ。今後の希望を照らす「光」と、対応すべき重い課題を示す「影」がある。

まずは「光」から。匿名の個人がボランティアで編集者(新規記事の執筆や修正を担う人)をつとめるコミュニティーの力だ。
ウィキペディア創設者のジミー・ウェールズ氏がはじめに手がけたのは専門家が編集するサービスだったが、すぐ行き詰まる。1年で書かれた記事は12本だった。

並行して試みた誰でも参加できるウィキペディアは開始後1カ月を待たず1000本を突破した。ほどなく日本語版を含む多言語化が始まり、利用は世界に広がる。
運営する非営利団体、米ウィキメディア財団は編集に直接タッチしない。編集者は世界の28万人(月間)。毎分350回編集され、中立性などの基準を満たさない編集をする「荒らし」があってもおおむね5分以内に対処される。
記事への出典明記、意見の対立を収める対話・審議、集中的な編集の繰り返しなどで混乱したときの編集機能の一時停止……。こうしたルールやしくみはあるが、やはりこのサービスの肝は大勢でコラボレーションする精神だ。
「世の中のために良いことをするという使命感をもった人たちのコミュニティーがウィキペディア成功の理由だ」。財団のジャニーン・ウッツェル最高執行責任者(COO)は語る・・・

記事は5500万本以上、編集協力者は月間28万人以上、閲覧は月間150億回以上、荒らし行為への対処5分以内、対応言語300以上だそうです。私もお世話になっています。

「宗教と日本人」

岡本亮輔著『宗教と日本人ー葬式仏教からスピリチュアル文化まで』(2021年、中公新書)が、よかったです。

梅棹忠夫の日本の宗教」に書きましたが、これまでの宗教論が、知識人や提供者側の議論であって、受け手である庶民の視点が抜けていました。梅棹先生は、「メーカーの論理とユーザーの論理」と指摘されます。近年、日本宗教史に関して、2つも叢書が出たのですが、これらも提供者側からのものでした。この本は、庶民の側から書かれています。

キリスト教を基準とした宗教観ではなく、初詣や地鎮祭からパワースポットまで、幅広く宗教的なものを扱います。その切り口は、信仰、実践、所属です。葬式仏教は信仰なき実践、神社は信仰なき所属、スピリチュアル文化は所属なき私的信仰です。個人で信じる新宗教、家族で信じる仏教、地域で属する神道という見立ては、わかりやすいです。日本のキリスト教は、キリスト系系学校などを通じたブランドであると位置づけています。

私たちは、お正月は神道、結婚式はキリスト教、葬式は仏教、神頼みは神道と、目的によって宗教を使い分けています。梅棹先生は、日本人が複数の宗教を信じることについて、それが混じり合っているのではなく、「神々の分業」であると指摘されます。この点については、『宗教と日本人』は深く触れていません。

賢人の知恵、離れて見る

5月4日の朝日新聞、デイビッド・ブルックスさん(ニューヨークタイムズ)の「賢人が持つもの 自己を引いて見つめる力」から。
ブランダイス大学社会学教授モリー・シュワルツ氏と、かつての教え子ミッチ・アルボムと対話、『モリー先生との火曜日』について。ちなみに同書は、1500万部以上売れたそうです。

・・・シュワルツ氏の鋭い洞察に目を向けると、実はそれほど特別なことは言っていない。「できることもできないことも素直に受け入れよ」。シュワルツ氏が素晴らしかったのは、注意力の質だった。私たちはみんな、今を生きるべきで、瞬間の充足感を味わうべきだと知っている。だがシュワルツ氏は、それを実行できる人だった・・・
・・・私が実際に出会った賢人たちも、みんな似ている。人生を変えるような言葉を発するのではなく、他人をどのように受け入れるかが大事なのだ。知恵といえば、人里離れた所にいる近寄りがたい年老いた賢者を思い浮かべることが多い・・・しかし、私が体験したのは、知識体系よりも、人との向き合い方だった。秘密の情報を授けてくれることよりも、自分自身で気づきが得られるようにしむけてくれるような関わり方なのである。

知恵は、知識とは違う。フランスの思想家モンテーニュは、他人の知識で物知りにはなれるが、他人の知恵で賢者になることはできないと指摘した。知恵には、具現化した道徳的要素が含まれる。自分自身がもがき苦しんだ経験から、他者の弱さに対する思いやりある配慮が生まれる。
賢人は、何をすべきか教えるのではなく、物語を見つめることから始める。私たちの話や理屈を聞き、価値のある苦闘をしている存在として見てくれる。私たちの心の内側と、自分では見えない外部からの両方の視点から見る。私たちが「親密」と「自立」、「管理」と「不確実性」といった人生の弁証法的問題にどう取り組んでいるかを見て、現状が長く続く成長における一つの地点であることを理解してくれる・・・

・・・人は、自分が理解されたと感じて初めて変わることができる。本当に信頼でき、知恵を求める相手は、賢人よりも編集者に似ている。彼らはあなたの物語を理解し、あなたが過去と未来との関係を変えられるように再考を促す。あなたが本当に望むものは何か、あるいはどのような重荷をおろしたいと思っているのか、などを明らかにしようとする。そして、あなたがその人に相談した表面的な問題の根底に横たわる、深い問題を探るのだ。
自分自身の結論へと歩む、巧みで忍耐強いプロセスこそが知恵と感じられるものだ。おそらく、だからアリストテレスは倫理を「社会的行為」と呼んだのだろう。

結果として得られる知識は個人的であり、文脈的だ。一般論ではなく、名言集に載るような格言でもない。このような視点に立てば、プレッシャーから自由になり、自分が置かれている状況から少し距離をとり、希望を持てるようになる。
シュワルツ氏のような賢人が感銘を与えるのは、沈着冷静ですばらしい自己認識をもっているからだろう。彼らは他者を観察することでそれを身に付けたのではないだろうか。他人のために判断を下す方が、自分のために何かを決めるより簡単だ。賢人は、第三者として考えるスキルを身に付けて、鏡にうつる自分という相手にそれを適用しているのかもしれない。たぶん、自己認識とは、内面での熟考ではなく、自分のことを誰かほかの人のように見ることで大部分ができているのではないか・・・