先日、紹介した奥井智之先生が、講談社のウエッブサイト「現代ビジネス」に「不特定多数で「社会の敵」を叩く“祭り”が、ネット上で発生するそもそもの理由 電脳世界に広がる「儚さ」を社会学する」を書いておられます(5月22日掲載)。
ネット記事のコメント欄とSNSに、なぜ人は書き込むのか、そして議論は成り立たないのかについて、社会学から説明しておられます。
・・・ネット記事は儚(はかな)い。
それが、一定の鮮度を保って、人々の前に姿を見せるのは、ほんの一瞬である。良い記事も悪い記事も、次の瞬間には、最初から存在しなかったかのように、ネット世界から姿を消している。
もちろん、それは、アーカイヴ化されているのであろう。しかし、特定の記事を、アーカイヴ(保管庫)のなかで探すのは、特別な目的がある場合に限られる。実際、わたしは、ネット記事がどこかで引用されているのを、見たためしがない。
とどのつまり、ネット記事の寿命は、ごく短い。筆者は、その一瞬に賭けて、自らの作品を、ネット世界に投げ込むほかはない。
オンラインの先には、読者が待っている。正直言って、わたしは、その読者の実態を知らない(わたしは、このネット世界にたまさか迷い込んだ、よそ者にすぎない)。ただ、ネット記事の読者として、しばしば遭遇するのは、その記事が、読者のコメント欄で酷評されている光景である・・・
・・・そこでは、ネット記事を批評することよりも、その記事をダシにして、自らの識見を誇示することが、目的となっているように映る。批評家の小林秀雄は言った。
「批評とは竟(つい)に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」(『様々なる意匠』)
「懐疑的」であるかどうかは別にして、ネット記事のコメント欄に横溢するのは、激しい自己呈示の欲求である。
ネット記事に、コメント欄が付いているように、コメント欄にも、個々のコメントへの賛否を表明するアイコンが付いている。
わたしのよく見るサイトの場合、デフォルト(初期設定)では、賛同者の多いコメントが、コメント欄の上位に並ぶようになっている。そして、上位のコメントの内容は、おおよそ似通っている。裏を返せば、意見が分かれて、議論が交わされる光景は、まず目にしない。
そこには、コメント欄のもつ、もう1つの機能が映し出されている。それは、他の(どこのだれとも知れない)多くの読者と協調することで、自らの意見の正当性を確認することである。一言で言えば、そこには、温かい相互承認の儀礼がある。
激しい自己呈示の欲求と温かい相互承認の儀礼──。この2つは、いったい、どのように結びついているのか・・・
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