番記者の弊害

3月28日の朝日新聞「日曜に想う」は、曽我豪・編集委員の「新聞記者は蛇、角栄氏の言葉」でした。

・・・派閥番記者が常態化したのは、岸信介氏の後継に池田勇人氏を選出した1960(昭和35)年の自民党総裁選が契機という。権力闘争が派閥単位で行われる現実に合わせた措置で、戦後昭和期の自民党長期政権時代に特有の産物だった。
それなら平成に入ってその時代がいったん終わり、政権交代可能な二大政党制が旗印となった時点で、古いならわしも見直すべきだった。派閥取材偏重から脱皮しようとする今の現場の記者たちの努力を見るにつけ、あの時にもっと早く変わっていればと悔やまれる。

むろん、当事者に肉薄して事実を暴き取材体験を積む意義はいつの時代も同じだ。例えば、批判の声を聞かず国民の心に届く言葉を持たない政権は危機にもろい。その「官邸病」の過去例を元に今の政権を監視すれば、どこに支持を失う落とし穴があるかを早めに報じられよう。
それでも、長く継続的に番記者を続けないと本当のことが聞けない取材文化はおかしい。ただでさえ、取材する側もされる側も圧倒的に男性が多い歴史が長く続き、政治報道は中高年男性の目線に偏しがちだったと思う。派閥番記者に象徴される閉鎖的な取材文化を変えぬまま、窮屈な新規参入を女性や若い世代に強いるのなら、それこそ本末転倒だ・・・

表題にある「新聞記者は蛇、角栄氏の言葉」は、この文章のあとに出てきます、原文をお読みください。

連載「公共を創る」執筆状況

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の執筆状況報告です。
第76回(4月1日掲載)の続きを書き上げ、右筆に見てもらって完成させました。今回は、自信がないところもあったので、ほかに数人の専門家にも目を通してもらいました。
いや~、他人に見てもらうことは重要ですね。私の思い違い、欠けている事項、さらには単純な間違いまで指摘してくれます。ありがたいことです。

編集長に、きりの良い形で誌面にしてもらうと、4回分になりました。しかし、分量の均衡が悪いので、各回4ページ近くに編集し、はみ出す部分は文章を削除しました。一部は、次回に送りました。で、3回になりました、連載形式は、このような工夫も必要になります。

これで、5月13日分までができました。でも、次の締め切りが、追いかけてきます。いま書いている部分は、執筆に当たり調べなければならないことが多く、時間がかかるのです。
他方で、連載の完結に向けて、締めの部分に入っています。そこで、書いた「部品」をあっちへ持って行ったり、こちらに戻したりと、構成についても悩みます。

大震災10年目に考えた成果と課題、目次

3.11から10年の節目を迎え、新聞などの取材をたくさん受けました。記者さんから鋭い質問をされると、私も頭の整理ができました。また、一般の方に理解してもらうために、なるべく簡単にお話しするようにすると、ますます考えが整理されました。
10年近く、責任ある立場で復興に携わりました。その経験から、成果と課題を伝えることは責務でもあります。

他方で、私以外にそのような職員がいないことも、気になります。公務員は数年で異動をすることが慣習になっていますが、何か工夫はできないのでしょうか。特に、原発事故側に全体を話す人がいないことは、大きな問題です。
一人で話す人がいない(通常はそうです)場合は、組織として成果と課題を取りまとめるのでしょう。関係者がどんどんいなくなり、記憶も薄れます。10年はその限界だと思います。

10年の評価や教訓について書いた記事を、並べておきます。「ホームページの分類、復興10年」につけておいたのを、再掲して更新しました。

復興事業の教訓」(2021年1月26日から4回)。人口の減少、過大な事業批判
日経新聞、大震災復興事業の検証」(2月9日から3回)。予算、産業再建など
復興事業の教訓、集落の集約」(2月12日)。漁港など分散した集落の集約案
復興政策、終わってからの教訓」(2月14日)。今後の人口減少下での復興
提言、原発事故復興基本法案」(3月3日から2回)。残っている原発事故からの復興について
町の復興、高台移転とかさ上げの違い」(3月24日)。住宅団地の建設と中心街の復興との違い