3月も終わり

今日で、3月も終わり。令和2年度も、終わりです。
東京は春です。桜は、散ったところと、満開のところがあります。善福寺川沿いの緑地では、様々な草木が若葉を出し、花を咲かせています。
コロナが落ち着いてくれたら、気分はもっと明るくなるのですが。

今月も、時間が過ぎるのが早かったです。なぜだろうと考えたら。
東日本大震災から10年ということで、新聞の取材がたくさんありました。また、講演も、いくつか出番がありました。
緊急事態宣言が緩和されたので、夜(夕方)の意見交換会も再開しました。延期していたものも多く、再開の誘いが来ます。新しい情報を聞くこと、相談に乗ることも重要なので。知っている人と少人数で、個室または他の席とは離れて、夕方5時や6時から始めて8時までには終わるという条件です。

出番があること、お誘いがあることを喜びましょう。
4月以降も講義や講演が予約されていて、その準備も必要です。連載原稿は、締め切りが来ます。

新聞の編集権

3月26日の朝日新聞「池上彰の新聞ななめ読み(最終回)」に、「何を書いても自由です」と言われて書いた記事が、掲載を見送られた顛末が書かれています。

・・・ところが、14年8月、事件が起きました。朝日新聞が過去の従軍慰安婦報道を検証する特集記事を掲載することになったので、コラムで取り上げて欲しいと要望されたのです。これまでコラムで取り上げるテーマについて注文がつくことはなく、珍しいことではあったのですが、大事なテーマであるだけに、論評することを承諾しました。
朝日の検証記事は、過去に朝日が報道した「済州島で200人の若い朝鮮人女性を『狩り出した』」という吉田証言が虚偽であることを認め、これを報じた朝日の記事を取り消したものです。
これについて私は、なぜ32年間も訂正しなかったのか、間違えを認めたら謝罪すべきではないか。検証すること自体は評価するが、遅きに失したのではないかと批判するコラムの原稿を送りました。
すると、このコラムの掲載を朝日新聞社の上層部が認めず、掲載されなかったのです。

言うまでもなく新聞に何を掲載するかの編集権は新聞社にあります。私がどうこう言える立場ではありません。しかし、「自由に書いてください」と言われて始めたコラムの内容が気に食わないからという理由で掲載されないのでは、信頼関係が崩れます。そこで私は「掲載するしないは新聞社の編集権の問題ですから、私は何も言いませんが、信頼関係が崩れた以上、コラムの執筆はやめさせていただきます」と申し入れました。
これはあくまで私と朝日新聞社との間の問題であり、私は誰にも口外しなかったのですが、「週刊新潮」と「週刊文春」の知るところとなって報道されました。私のコラムの掲載が認められなかったことを知った朝日新聞社内部の誰かが週刊誌に伝えたのでしょう。
ここから私は嵐に巻き込まれました。各メディアからの取材攻勢を受けたのです。

これをきっかけに、ライバル紙や週刊誌などからの朝日新聞バッシングが始まりましたが、驚いたことに、朝日新聞の記者たちが、次々に実名でツイッターに自社の方針を批判する投稿をするではありませんか。
実名で自社の方針を批判するのは勇気のいることです。自社の記者にツイッターへの投稿を禁止する新聞社もある中で、記者たちに言論の自由を許している朝日の社風に感銘を受けました。多くの記者たちの怒りに励まされる思いでした。
こうした社内の記者たちの怒りの声に押され、朝日新聞は誤りを認めて、私のコラムは掲載されました・・・

このあとも、興味深いことが書かれています。原文をお読みください。

報道記者との付き合い方

黒江哲郎・元防衛次官の「失敗だらけの役人人生」、第16回は「マスコミとの接し方」です。
報道機関との付き合いは、官僚にとって重要な仕事なのですが、どの省庁でも、これまではきちんと教えられることはなかったでしょう。通常の取材、記者会見、オフレコの取材、記者懇談会(バックグラウンドブリーフィング)、さらなる付き合い・・・。
黒江次官の経験談を、お読みください。自衛隊はこれまで、報道機関からは「批判の対象」と扱われてきました。他省庁の官僚とは違った苦労があったでしょう。

私も官僚人生を振り返って、報道記者との付き合い方は経験して、勉強になりました。30歳の課長の時に、業務の失敗を新聞社に「抜かれ」たこと。地方財政のあり方を巡り、記者さんたちと議論や勉強をしたこと。42歳の総務部長の時に、1年で4回お詫びの記者会見をしたこと。総理秘書官での経験。大震災時の経験。いや~、いろいろありました。
職場では系統だって教えてもらえず、先輩を見て、そして自分で身につけました。それを文章にまとめつつあります。後輩たちに語っておこうと考えたのです。書きかけたのですが、途中で放置してあります。いずれ、このホームページに載せようと考えています。

法案の記載誤り

今国会に政府が提出した法案と条文に、いくつも記載間違いや脱字が見つかったとのことです。その原因と対策が議論されています。例えば、3月28日の日経新聞1面コラム「春秋」。
・・・政権肝煎りのデジタル改革関連法案では関連資料に45カ所の誤記があり、それを修正した正誤表も間違っていた。新型コロナ対策に追われた結果、で済む問題ではない。正午すぎ、電気を消した暗い部屋で作業する職員たちの姿を思い出す。「休み時間に仕事をしていたとなるといろいろややこしいので」と、笑っていた。
役所が様々な問題を抱えていることは事実だが、誤表記の山から悲鳴が聞こえてくるような気がする。人事で翻弄され、不本意な国会答弁を迫られ、激しい批判を浴びる。「政治主導」が官僚に無理難題を押しつけ、やる気や志を損ねることにつながっているとしたら……。私たちはやがて大切なものを失うのではないか・・・

内閣法制局での読み合わせは、それはそれは厳格なものです(参考資料はその範囲外)。私も若いときに、経験しました。しかも、時間に追われ、深夜や疲れたときに行うのです。
大切な法律案に、間違いはあってはいけません。しかし、人間がやることですから、間違いも起きます。完璧を期そうとするなら、大勢の人数で、時間を掛けて確認する必要があるでしょう。
現役官僚諸君たちも、精一杯やっていると思います。精神論だけでは、間違いはなくなりません。人を増やすのか、余裕を持った作業日程にするのか。それができないなら、ほかの仕事を後回しにして、この仕事を優先するしかありません。
もう一つは、少々の間違いは起きることと観念して、間違いが見つかったら訂正することです。新聞社も、しばしば訂正を出しているではないですか。

これだけ劣悪な職場環境(長時間勤務が常態化、給料は仕事に比べ安い)、そしてマスコミや議員からは批判ばかりされて、それでいて完璧な仕事を求められても、それは無理ですわ。後輩たちが、かわいそうです。立派な成果を求めるなら、それだけの処遇をしなければ。