在宅勤務手当

コロナウイルス対策で、在宅勤務が推奨されました。その長所と欠点がいくつか上げられています。今日は少し変わった視点から。
在宅勤務は通勤が不要で楽なのですが、多くの場合自宅が勤務場所になります。パソコンと通信回線があれば、多くの仕事は片付きます。

問題の一つは、自宅に「執務場所」がないことです。職場と同じくらいの広さの空間と机を持っている人は、少ないのではありませんか。学生時代は勉強部屋を持っていても、社会人になってから書斎や執務部屋を持っている人は、都会では多くはないでしょう。
豊かになった日本の弱点の一つは、住宅の狭さです。もちろん、田舎では広い家にすんでいる人も多いですが。多くの社員は、自宅の食卓や居間でパソコンを広げているのではないでしょうか。そして、そこには家族が入ってきます。

日本には、社宅や住宅手当という制度、通勤手当という制度があります。それを考えれば、在宅勤務をする社員に「執務空間を確保する手当」は考えられませんかね。
会社は、本社や事業所で、社員が執務する空間・机などを提供しています。それが、部分的に不要になります。在宅勤務は、その分を社員が自宅で無償で提供しているのです。
本当は、独立した執務空間を自宅に作れれば良いですが、それは難しいでしょう。すると、喫茶店など執務に使える空間を借りる費用と考えるのです。

授業時間は短縮できるか、2

授業時間は短縮できるか」の続きです。

阿部彩さん(東京都立大学教授)の発言
・・・私は、コロナ禍の前から「夏休みは絶対に短くするべきだ」と主張してきました。
決して「もっと勉強時間を確保すべきだ」という理由ではありません。長期の休みは、家庭間の格差が顕著に表れて、子どもたちの心身に大きな影響を及ぼすという理由からです。

いまは共働き世帯が主流なので、夏休みは一日中、留守番という子どももたくさんいます。親の経済状況によって旅行やスポーツ合宿といった体験ができるか、給食がなくても毎日きちんと栄養が取れるか、なども左右されます。
いまは虐待や貧困など様々な事情を抱える家庭が増えています。国や自治体は自治体ごとの格差や、学校単位で生まれた格差には敏感ですが、なぜか家庭間の格差には関心が低く、取り組みも不十分でした。

そんな行政の無関心さが響いたのが、今回のコロナ禍における一斉休校要請です。
苦しい状況にある家庭の支援に動いてきた居場所事業も軒並みストップしました。ドリルを買えたか、親が隣で学習指導ができたか、昼食を提供できたか……。いろいろな場面での経済格差が、休校の前と後で積み重なり、家庭間格差は確実に広がってしまったように思います。
私は、一斉休校は、家庭の事情に対する行政の無配慮から生じた「人災」だったと思います。被害者は「学校に行かない」という道しかなかった子どもたちです・・・

ここには、知識を学ぶという授業以外の、学校の機能が見えます。

『ランスへの帰郷』

ディディエ・エリボン著『ランスへの帰郷』(2020年、みすず書房)を読みました。本屋で見つけ、読んでみようという気になりました。著者のエリボン氏は全く知らないし、みすず書房の西欧哲学・思想関係の本は難しくて、遠慮しているのですが。この本は、フランスの哲学者の自伝でもあるので、読めるかなと考えたのです。フランスとドイツでベストセラーだそうです。いくつか書評も出ています。

帯に「労働者階級の出身であると明かすのは、ゲイであるということを告白するより難しかった」とあります。この本の内容を、良く表しています。著者の二つの苦悩、それが彼を作ったのですが、その過程が語られています。
下層労働者の家に生まれ、高等教育に進むことは、家族や地域から離脱することでした。恵まれた家庭の学校の友達に劣等感を持ちつつ、彼らに反発したり迎合しつつ、勉強を続けます。そして、家族とは疎遠になります。というより、彼は切り捨てます。既存知識人たちに反発することで、大学教授になることはできず、新聞界で名声を上げていきます。彼はそれについても、やりたくなかったけど、食べるために必要だったと語ります。
ゲイであることについても、社会から差別を受けます。社会との葛藤を乗り越えていきます。
その二つの、社会との葛藤、自己との葛藤が、描かれています。それが個人の独白でなく、フランス社会の課題と重ね合わされて語られます。そこが、哲学者、社会学者としての分析となります。フランスの哲学界、知識人たちが、1970年ごろまでいかにマルクス主義にとりつかれていたかもわかります。ゲイについては、私はわかりませんが。だから、フランスで読まれたのでしょう。

ランスは、パリから東北に100キロあまりの都市です。フジタ画伯の礼拝堂もあります。そんなに田舎と思えないのですが、フランスはパリ一極集中が極端です。パリでなければ、まっとう高等教育を受けることができないと書かれています。著者は早熟、そして頭脳明晰なので、凡庸な教師に飽き足らなかったのです。

私も、奈良の田舎から東京に出て、大学で学び官僚になりました。親やふるさとから離れて別の世界で生きた点では、同様です。著者とは2歳違いで、ほぼ同年代です。このような著名人と一緒にすると叱られそうですが、私の半生と少し重ね合わせて読みました。
フランスの階級差別の厳しさ、社会的上昇の難しさには、厳しいものがあるようです。ブルデューが、生まれた家による「文化資本」の違いを指摘するのがわかります。

日本では明治以来、勉強ができて野心のある若者は、東京や各地の旧制高校、後に大学を目指しました。学資の問題はありましたが、家庭の出自は問題にされませんでした。確かに田舎者は、上流階級の子どものようにはクラッシック音楽を知らず、教養も低く話し言葉も粗野でしたが。だからといって、露骨な差別はないと思います。
また、家族と疎遠になることもなく、田舎の人たちは東京での出世を褒めてくれました。日本には「故郷に錦を飾る」という言葉もあります。
社会的上昇がかなり実現できたのです。「一億総中流意識」は、そのような社会背景もあって実現したものでしょう。

翻訳もこなれています。フランスの哲学に通じていない人のために、丹念に注がついています。フランス哲学の門外漢でも、読みやすいです。

授業時間は短縮できるか

6月26日の朝日新聞オピニオン欄「夏休みの短縮、必要?」から。
・・・ 「授業ができなかったからといって、夏休みを短くするのは反対」。5月26日付本紙で、元小学校教員・森田太郎さんの意見を掲載したところ、メールで寄せられた反響は真っ二つに割れました。工夫次第で授業時数は減らせるという森田さんの意見に対し、同じ教員経験者の多くは反対意見でした。ゆっくり学んで理解していく子には、授業で時間をかけることこそ必要だというものです。一方、子どもを持つ親は賛成意見が目立ちました・・・
その背景には、コロナウイルスによる授業の遅れを取り戻すという観点だけでなく、学校教育の在り方についての議論があるようです。

・・・十数年前、教育界で「七五三」という言葉がはやりました。小学生の7割、中学生の5割、高校生の3割しか学習内容を理解していない実態を示した言葉として、多くの教員たちは同意していました。
教師の指導技術が優れていれば、ある程度は時短授業が可能です。しかし、漢字力や計算力など、記憶しなければならない基礎学力を、長い時間をかけることで身に付けていく子も一定数、いるのです・・・

・・・久しぶりの登校日も、学校からの連絡は「友達と遊ぶ約束をしていた子がいるが遊ばせないで」「名札をしっかりつけて」と注意ばかり。そして、夏休みの短縮です。子どもの気持ちを一切考えず、アリバイづくりをしているようにしか思えません。子どもの学習は、授業数だけで決まるものではありません。
もちろん、夏の間も希望する子に補習をするのはいいと思います。一律にやらなくてもいいのではないか、ということです。
もともと、日本の義務教育は、進級の基準がなく、皆勤賞万歳の文化です。これを機にもっと通学の自由度を高くし、どのような状態になれば進級できるのか、基準を明白にすべきだと思います。
もう、子どもは全員黙って学校に行けばいい、という時代は終わったと思います・・・

工藤勇一さん(横浜創英中学・高校校長、前麹町中学校長)
・・・現在、多くの学校がコロナ禍の学習の遅れを取り戻すため、たくさんの宿題を出したり、夏休みを大幅に短縮したりしています。確かに必要な対応の一つかもしれませんが、学習時間を確保することだけに躍起になってしまっては、子どもたちの自ら学ぼうとする力をますます奪ってしまうように思います。
本来、学校は子どもたちが社会を主体的によりよく生きていくためにあるはずで、子どもは自ら主体的になって学んでこそ、最も成長を遂げます。子どもの自律を重視する授業をすれば、たとえ時間が短くても、子どもはきちんと理解できます・・・
・・・長らく日本の教育は、時間をかければ、学力が上がると信じられてきました。決まった時間、授業を受けたら次の項目や学年に進むという「履修主義」が背景にあります。
これからの時代は、身についたら次へ進む「習得主義」へとかじを切るべきです。今回の災厄を、日本の教育のあり方を変えるきっかけにできるのでは、と考えます・・・
この項続く

責任を取る方法4

責任を取る方法3」の続きです。
この項では、失敗した場合の責任の取り方にはどのようなものがあるのかを、考えています。あわせて、何をすることが、被害者や社会への償いになるのかを考えています。

8 償いとは何か。
表に整理した、Aあやまることや、C職を辞める・組織を解体することは、事故を起こしたり不祥事を起こした社長の記者会見でも、中心主題になっています。しかし、それで観客の溜飲は下がるにしても、B原状復旧・被害者支援やD償いに比べ、被害者や社会に対しては実益はありません。特に、責任者を辞めさせることや組織を潰すことが、責任を取ったことになるのか。そこを、問いたいのです。

A「お取りつぶしのパラドックス」
東電の場合は、「とんでもない事故を起こしたので会社を潰せ」という意見もありました。しかし、被害に遭った人に賠償をさせるために、国有化もして存続させました。そして、現在も(今後も)お詫びを続け、社会奉仕を続けるのでしょう。また、2度と事故を起こさない努力をするのでしょう。

他方で、原子力安全・保安院は廃止されました。原子力規制業務は、環境省に原子力規制委員会・原子力規制庁がつくられ、そこに移管されました。原子力安全・保安院が廃止されたことで、事故を起こした責任と償いの主体が不明確になったのではないでしょうか。国としての責任は逃れられないのですが、政府のどの組織が所管するかです。
新しく作られた原子力規制庁は、今後起こる事故を防ぐための組織であり、福島原発事故の後始末は所管ではないようです。もし、原子力安全・保安院が存続していたら、被災地での避難者支援や復興に責任をとり続けたと思います。原子力規制庁に所管が移ってないとすると、原子力・安全保安院を所管していた経済産業省に残っているのでしょう。

日本陸軍と海軍も廃止されたことで、組織として「責任を取る」「償いをする」ことがなくなりました。国家としては、ポツダム宣言の受諾と占領による政治改革、東京裁判とその刑の執行、関係国への賠償などはあります。
個別の組織が存続していたら、戦争を遂行した組織としての「残されたものとしての責任」を果たすことがあったと思います。それは、記録を残すこと、原因の究明、再発防止策、そして「償い」です。陸海軍は廃止されることで、これらが途絶えてしまったのではないでしょうか。

B 戦後の混乱を生きた人たち
極東軍事裁判で、戦犯は死刑などの刑罰に処せられました。「命をもって償った」のです。
しかし、戦災に遭った国民もまた、つらい目に遭いました。一家の大黒柱をなくした人、家を焼け出され無一文になった家族、両親や家族を失った戦災孤児・・・。この人たちは、戦後の混乱を生き延びるために、想像を絶する苦労をしました。命を落とした人も多かったのです。また、日本だけでなく、海外においても同様の被害を与えました。
この人たちに対して、戦争責任者と陸海軍はどのような償いをしたのか。すべきだったのか。きれいに整理できませんが、このようなことを考え続けています。
過去の記事「事故を起こした責任と償い