男性育休取得の勧め

男性育休100%プロジェクト「#もっと一緒にいたかった」を紹介します。3分間の動画(YouTube) です。企業経営者が出演して、子育てをしなかったことを反省します。

・・・がむしゃらに働き、家庭をかえりみない…。そんな働き方はもう時代遅れだ。7社の名だたる企業のトップが宣言した「男性育休100%」。パートナーや子供と「#もっと一緒にいたかった」という後悔と誠実に向き合いながら、次世代のビジネスリーダーにその熱い思いと戦略を届ける・・・

私も同じ思いです。かつては、家庭を顧みないで仕事に打ち込むことが「正しいこと」とされていました。今にして思うと、おかしなことでした。
もちろん、仕事に打ち込まなければならない時と場合もあります。しかし、そうでないときでも、家に帰らず、職場にいたり、飲みに行ったりしました。育休どころか、年休も取らず、休日出勤を自慢していました。反省。
1人で2人の子育てをしたキョーコさんに、頭が上がりません。
反省しても遅いのですが。気がついてからは、部下職員たちをなるべく早く帰らせるように、気をつけて仕事をするようになりました。

このページでも何度か指摘しているように、先進諸外国と比べ、日本は労働時間が長いのに、生産性は低いのです。その原因が、長時間職場にいることだと考えられます。
「早く帰ろう」と、仕事の段取りを考え、早く終わらせること。これが、働き方改革と生産性向上のコツです。

我が家の椿は花盛り

今日の東京は、2月とは思えいない、暖かい春の日でした。
先日、一輪花が開いた我が家の椿。1週間のうちに、次々とつぼみが開いて、赤い花が鈴なりになりました。
藪椿なのですが、赤い花びらの縁が白く回っています。メジロが蜜を吸いに来ているらしく、花びらが傷んでいます。
ご近所の梅の花は盛りを過ぎ、黄水仙が真っ盛りです。

連載「公共を創る」第35回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第35回「社会的共通資本 不変ではない国民の意識や習慣」が、発行されました。

前回に続き、日本人論の限界を説明しました。日本人論は、日本社会の特徴を「日本の伝統」と説明します。しかし、それらは不変のものでなく、変わるものであり、変えることができるものです。
一例として、夫婦の関係を紹介しました。1973年では、多くの日本人が理想は亭主関白型と答えたのに、近年では平等と答えています。半世紀の間に、大きく変わりました。

ここで少々脱線します。昔から実態は「婦唱夫随」だったのに、夫は見栄で「夫唱婦随」と主張し、実権を握っている妻もそう言って夫をおだてていた、というのが私の解釈です。財布を妻に握られている多くの夫は、この事実に同意してくれるでしょう。認めたくはないのですが(笑い)。

「男は仕事、女は家庭」という言葉も、死語になりました。
アジア諸国が日本の後を追って経済発展に成功し、日本だけが優秀だという日本特殊論は、成り立たなくなりました。
では、今後、日本社会をどう変えていくのか。それが課題です。次回から、それを議論します。

対立する立場の調整、トリチウム水の処理、3

対立する立場の調整、トリチウム水の処理、2」の続きです。安東さんは、次のような指摘もしておられます。

・・・ある時点での賛成・反対のみに焦点を絞ることは、対立を激しくさせ、しばしばこうした利害調整の試みの障害になることがある。事件や事故を取り上げることをもっぱらとする報道の短期的観点からの伝えぶりにその傾向が顕著である。しかし、それは真の問題なのだろうか・・・

「残された時間がない」「賛成か反対か」と対立を煽るような報道ではない、長い観点にたった伝え方はできないのだろうか。都路の避難指示解除の時にも賛否のみに焦点を絞った伝え方が多かったが、地域住民にとってもっとも重要であった長期的な生活再建を視野に入れた報道はさほど多くなかったように感じられる・・・

事件性を重視する報道では、なにかできごとがあるたびに突発的な報道を繰り返す。だが、一方で、大震災と原発事故の後に私たちの社会も人生も続いていったように、社会も生活も人生も、その後も続いていく。そして、時間が経てば、ひとつの出来事や決定に対する評価もまた変化していくものだ。
長期的な影響を及ぼす事象については、その時点での賛成・反対のみで結果を判断するのではなく、将来振り返ったときに、「満点とは言えないかもしれないが悪くはなかった」と思える選択を積み上げていくための泥臭い努力こそが重要であると私は考えるし、またそうした努力を評価する報道も必要とされるのではないだろか・・・

重要な指摘です。ぜひ原文をお読みください。インターネット「ウエッブ論座」で読むことができます。

常磐線と浜通りの歴史

2月24日の読売新聞、論壇キーワード。武田徹・専修大学教授の「常磐線 日本近現代史の縮図」が、勉強になります。

・・・いわゆる「本線」ではない路線の中で最長となる全長約343キロの常磐線は日本近現代史の縮図のような存在だ。1897年に東京・田端から久ノ浜(現在のいわき市)まで開通すると常磐炭田の石炭を首都圏に運んで近代産業の成長を支えた。山間を走る東北本線より勾配が緩やかで高速で走る旅客列車や積載量の多い貨物列車の運行に適していたため、仙台までつながると東北北部、更には青函連絡船を経由して北海道との間で人と物資を運ぶ主要路線となった。東北地方初の特急はつかりも常磐線経由で運転された・・・

・・・しかし、そんな常磐線の存在感は戦後1960年代以降翳かげり始める。石油へのエネルギー資源の転換が進む中、常磐炭田は徐々に生産量を減らして76年には閉山となり、石炭を積んだ長大な貨物列車が走る光景はみられなくなった。68年には東北本線の全線電化と複線化が完成し、長距離列車が常磐線を迂回する必要性も減った。
福島第一原発の建設が進んだのがちょうどこの時期だったことは留意に値する。池田勇人内閣が60年に策定した国民所得倍増計画で重点開発する「太平洋ベルト地帯」と位置づけられたのは大分県から茨城県までの沿岸だった。双葉、大熊の町議会が61年に原発誘致を決議した背景には福島県の太平洋岸地区が発展から取り残されかねない不安が色濃くあった・・・

詳しくは、原文をお読みください。