平成29年の回顧1、復興

年末になり、年賀状も出したので、今年の回顧を始めましょう。
まず、復興についてです。引き続き、内閣官房参与、福島復興再生総局事務局長として、大震災からの復興に関与しています。

福島では、4月にできる地域では、すべて避難指示を解除しました。住民が戻りつつあります。原災本部と経産省が、産業再開支援に力を入れています。農水省も、農業再開に尽力しています。概要の資料(復興庁)。
企業の立地もあるのですが、従業員が足らない状態になっています。コンビニのアルバイトは、時給1380円のところがあると聞きました。過疎地域では、通常は働く場がないことが問題なのですが、ここでは従業員が不足するという、逆の問題が起きています。住民が帰還できる条件が、整いつつつあります。

放射線量が依然として高く、避難指示が解除できなかった地域は、区域を限って復興拠点を作る方針を立てました。すでに3町で計画が出来て、除染作業に入っているところもあります。
環境省による除染も進み、中間貯蔵施設への除去土壌の運び込みも始まっています。
1年前には、ここまで円滑に進むとは想像できませんでした。関係者の努力のおかげです。方向性が定まったので、これらの計画を着実に進めていきます。

岩手県と宮城県も、現地を見てきました。
復興が進んでいます。住まいの再建は、9割が完成しました(公営住宅が9割、高台移転の宅地造成が8割)。高台移転のか所数が最も多かった石巻市も、全て工事が完了しました。来年度末(あと1年3か月)で、ほぼ完成します。一部で、調整中のものがありますが。
住まいの再建ができれば、復興の一つの区切りです。道路や防潮堤などの工事が続きますが、住民の暮らしの再建としては、住宅が一つの指標です。
関係者の努力に感謝します。来年も、着実に進めていきます。その2へ

年賀状書き、終了。

今日、残りの年賀状を書き終え、投函しました。年に一度のペン習字の終了です。訪ねてきた人(複数人)が、「ペン習字は、終わりましたか」と心配してくれました。このホームページを、読んでくださっているのですね(笑い)。
今日に投函すると、元旦には届くでしょうか。日本郵便さん、よろしくお願いします。
毎年、たくさん年賀状をいただきながら、こちらから出す枚数が少なくて、申し訳ありません。

ひとまず、ほっとしました。明日から、年末年始のお休みです。
慶應大学の授業は、あと2回の準備。さらに、来年度のシラバスの提出期限が迫っています。そのほか、1月に引き受けた2回の講演会の準備。「明るい公務員講座」の単行本化の作業・・・。この休み中も、いろんな作業が待っています。いつもながらの「原稿の奴隷」です(苦笑)。
1月から、新たにコラムの連載を始めます。活字になったら、紹介します。乞うご期待。

明治維新150年

12月20日の朝日新聞オピニオン欄「明治維新150年」、三谷博・教授の「武力よりも公議公論を重視」から。

・・・支配身分の武士と被差別身分がともに廃止され、社会の大幅な再編成が短期間に行われた点で、明治維新は革命といえます。また、維新での死者は約3万人で、フランス革命と比べると2ケタ少ない。暴力をあまり伴わずに権威体制を壊した点で注目すべきです・・・

・・・明治維新には、はっきりとした原因が見当たりません。黒船来航は原因の一つですが、米国や英国は開国という小さな変化を求めただけで、日本を全面的に変えようとしたわけではなかった。個々の変化は微小なのに、結果として巨大な変化が起きたのが維新です。
歴史に「必然」という言葉を使うべきではないと思います。歴史の事象には無数の因果関係が含まれていますが、複雑系研究が示すように、それが未来を固定するわけではない。飛び離れた因果関係が偶然に絡み合って、大きな変化が生じることもあります。
維新でいえば、安政5(1858)年政変がそれです。外国との条約問題と将軍の後継問題が絡み合い、井伊直弼が大老になって、一橋慶喜を14代将軍に推す「一橋派」を一掃した。それが徳川体制の大崩壊の引き金となり、同時に「公議」「公論」や王政復古というアイデアも生まれました。
公議とは政治参加の主張です。それを最初に構想したのは越前藩の橋本左内でした。安政4年に、大大名の中で実力がある人々を政府に集め、同時に身分にかかわらず優秀な人間を登用すべきだと書いています。左内は安政6年に刑死しますが、公議公論と王政復古は10年かけて浸透していき、幕末最後の年には天皇の下に公議による政体をつくることがコンセンサスになった。最初はゆっくり進行したけれど、合意ができてからは一気に進み、反動も小さかった。
フランス革命は逆で、最初の年に国民議会がつくられ、人権宣言が出されます。3年後には王政を廃止しますが、そのあと迷走します。第三共和制で安定するまでに80年かかってしまった・・・

1998年大手金融機関の破綻、政策の失敗

日経新聞連載「平成の30年」12月16日は、「不良債権の重荷 崩れた大手銀行 政官の不作為、混乱に拍車」でした。1998年の大手金融機関の破綻を取り上げています。ここでは、政策の失敗(実施時期、優先順位)という観点から、紹介します。

・・・96年11月、当時の橋本龍太郎首相は金融ビッグバン構想を発表した。大規模な規制緩和を通じ、東京市場をニューヨーク、ロンドンに匹敵する市場に成長させる構想だ。これに先立つ6月、住宅金融専門会社(住専)問題が決着し、国内景気は回復軌道に乗り始めていた。1月に首相に就任して以来、後ろ向き案件への対応に追われた橋本氏は攻めの独自色を出したいと考えた。そこで大蔵省(現・財務省)にアイデアを求め、同省証券局が中心となって急きょ、構想をまとめ上げた。
公的資金を投入する住専処理を巡り、国民から激しい批判を浴びた大蔵省。金融ビッグバン構想は新時代の幕開けを印象付け、同省自身も変身する起爆剤のはずだった。
だが、住専処理の比ではない大きな判断ミスを犯していた。大手銀行は90年代半ば、赤字決算で不良債権処理にめどをつけたつもりだったが、97年の消費税率引き上げなどで景気は再び後退局面に入り、地価の下落も止まらない。不良債権は再び膨らんだ・・・

・・・「金融不安が起きたときの危機管理の仕組みが全くできていなかったのが致命的だった」。金融論が専門の鹿野嘉昭・同志社大学教授はこう総括する。96年時点で政府がまず取り組むべきだったのはビッグバンではなく、金融機関の破綻処理、公的資金の注入といった危機管理の制度を整えるのが先決だったという。
不良債権の実態をつかむ明確な物差しを持たなかった政と官には、金融機関に迫る危機を想定できなかった。公的資金を伴う政策には踏み込まずに済むと判断し、政策の優先順位を見誤ったといえる・・・

政治家で見る歴史2

政治家で見る歴史」の続きです。
イギリスは、伝記が重要視される国です。最近の日本は、伝記、特に政治家の伝記はあまり見かけません。児童向けの偉人伝も、かつてほどは作られないとのこと。
もちろん、政治家や偉人だけで社会の歴史が作られるわけではありませんが、彼らの行動が社会や歴史を変えることは事実です。
民主主義の時代、政党の時代になった現代では、政治家個人の判断で国政が動くことは狭まったでしょう。しかし、その制約があるが故に、選挙民を動かし、政党を導くことも合わせて、政治家の力量が問われます。

欧米では首相や大統領は、やめた後に大部の回顧録を出版します。日本語にも翻訳されています。日本では、首相経験者の回顧録も、多くはありません。
本人の回顧録も、どのような考えでそのような判断をしたのかを知るために、価値があります。本人にインタビューする、オーラルヒストリーが、それに近いのでしょう。

しかし、第三者が書いた評伝は(ヨイショの提灯持ちでなければ)、社会の側が彼をどう見ていたか、彼の判断がどのような結果をもたらしたかが分かり、もっと価値があると思います。
新聞社の政治部記者が、それを書くことに最も近い位置にいると思うのですが。