9連休終了、明日から仕事

明日は、6日月曜日。多くの職場で、仕事始めでしょう。9日間って、過ぎてしまうと、あっという間でしたね。9日あれば、結構なことができるはずなのですが。残念(苦笑)。
皆さんは、どのように過ごされましたか。有意義に過ごされたことと思います。あるいは、寝正月だったでしょうか。何もしなくても、時間は経つものですね。
私は、年末は年賀状書き、新年は神社やお寺参り、美術館巡り。キョーコさんのお供で外出など。あとは資料整理や読書で、終わってしまいました。資料整理や読書は、結構はかどりましたが、のんびりして、注意散漫で、思ったほどは進みません。
う~ん、貧乏性なので、仕事がないと気合いが入りません。さあ、明日から、気合いを入れて、がんばりましょう。

自立した市民像が忘れた人たち、隠したこと

宇野重規先生の『民主主義のつくり方』その2。
本の中では、次のようなことも紹介されています。近代社会が想定したのは、自立した個人です。それに対する、意外な角度からの異議申し立てがあったこと。それは「ケア」です。
子どもと高齢者を思い浮かべれば、人は必ず他者の支援が必要です。しかし、近代の政治思想は、自立した市民を想定し、市民が「公」である政治に参加する。それ以外のこと、例えばケアの問題は「私」の領域に封印され、政治の世界から排除されたのです。それを論じた研究として、岡野八代著『フェミニズムの政治学』(2012年、みすず書房)を紹介しておられます(p88)。
これに関して、フランシス・オルセン著『法の性別ー近代法公私二元論を超えて』(2009年、東京大学出版会)を、思い出しました。そこで取り上げられている「公私二元論」です。著者は、国家と市民社会を対置させる公私二元論と、その市民社会の中で市場と家庭を対置させる公私二元論を、主張します。2つの公私二元論を区別するのです。そして、この公私二元論が、国家が市場経済に介入しない論理的基礎となり、また家庭に介入しない論理的基礎になったと主張するのです(2010年5月2日)。
さらに脱線すると、この1世紀の政治と行政の歴史は、自立した市民という理想像や公私二元論の哲学によって忘れられていた「弱者を発見する」歴史でもあったと、私は考えています。それは、労働者、消費者、障害者、女性という「弱者」であり、介護や家庭内暴力や引きこもりといった家庭内の「私事」です。これらが「発見」され、行政による支援とそれを位置づける法律ができたのです。

社会科学での「正しさ」

読売新聞12月30日文化欄「論壇誌12月」で、広井良典・千葉大学教授が「アベノミクス、肯定と懐疑」と題して、現政権の経済政策に肯定的な2人と懐疑的な2人の主張を紹介しておられます。その中の言葉から。
・・意見の相違を遡ると、経済における「期待」ないし主観的な要素の評価や、人々の需要はどこまで拡大するかという人間観の相違にまで至るのではないか・・
短い言葉ですが、政策さらには社会科学における、「正しいことと間違ったこと」「期待することと達成できること」の難しさを、示しておられます。

民主主義と資本主義、最悪だがこれ以上のものはない

2013年12月31日の朝日新聞オピニオン欄、大沢真幸さんの「2013、不可能性の時代を生きる」から。
私たちは、なぜ「次」の言葉を見いだせないのでしょうか、という問に対して。
・・原因は大きく言って二つあります。一つは、いつか確実に沈むとわかっていながら、資本主義という船を下りることができないからです。「民主主義は最悪の制度だが、これ以上の制度はない」という趣旨の、チャーチル元英首相の発言がありますが、これは資本主義にこそ当てはまります。
資本主義はとてつもない格差を生み、善でも美でもないことを人間に要求する。この船は必ず沈む。だけど他に船はない。社会主義という船はもっと危なそうだし、外は嵐だから下船したら即死だと。だからみんな必死にしがみついていて、一見すると、資本主義が信奉されているかのようにしか見えない。笑えない喜劇のような現状です・・

社会と民主主義をつくる「参加による習慣」

宇野重規先生の『民主主義のつくり方』(2013年、筑摩選書)を紹介します。宇野先生は、トクヴィル研究で有名です。先生は、この本を、『トクヴィル、平等と不平等の理論家』(2007年、講談社選書メチエ)、『〈私〉時代のデモクラシー』(2010年、岩波新書)とともに、デモクラシー3部作と言っておられます。詳しくは、本を読んでいただくとして。
『〈私〉時代のデモクラシー』については、このホームページでも紹介しました(2010年5月5日)。近代は、自由と平等を達成し、それが社会の不安と不満を生みました。身分や所属する団体による不平等を撤廃することを目指し、それを達成して見えてきたものは、あらゆることを自分で判断しなければならないという負担であり、その選択に責任を持たなければならないという不安です。また、中間集団の希薄化は、個人の砂状化とともに、政治への回路をなくしてしまいます。では、ばらばらになった個人〈私〉は、どのようにして〈私たち〉をつくりだすのか。それに答えようとするのが、本書です。
この本では、プラグマティズムの考えを手がかりに、皆でつくる「習慣」が、個人と社会をつなぎ、社会をつくることを論じています。そこにあるのは、所与のものとして与えられるのではなく、市民・民衆・個人が参加しながら作り上げなければならないという事実・原理です。
このホームページをお読みの方は、お気づきでしょうが、これは地方自治の原点です。拙著『新地方自治入門』では、豊かさを達成した地方行政の目標が、モノを増やすことから、関係を充実することへと変わることとともに、住民がサービスを受ける客体から、参加する主体になるべきであると主張しました。参加は、国家規模では難しいですが、自治体や近所付き合い、サークルやNPOなど中間集団では容易です。
私は、津波が全てを流し去った町を復興する際に、官(行政)・私(企業)・共(町内会やNPOなど中間集団)の3つが必要なこと、そして住民合意の際にコミュニティが重要であると指摘しています。「被災地から見える町とは何か」(2012年8月31日、共同通信社のサイト「47ニュース、ふるさと発信」)。